“女神の杵”亭の裏手、中庭に位置する場所には、かつて貴族が貴族らしくあったと評される時代に作られた練兵場があった。
実際に兵の訓練に使用されたことよりも、陛下の演説や検閲などの用途で使用されていたこの場所は、今はただの物置と化している。
それでも、戦争が沈静化した後、一時は貴族同士の決闘に用いられたらしく、僅かに残る血の染みなどが当時の戦いの壮絶さを物語っていた。
歳を経た者達にとっては、遠い思い出の場所である。
そんな練兵場だが、この日は少しだけ違っていた。
明け方、下らないプライドを賭けて、模擬試合の名を騙った決闘が行われたのだ。
綺麗に積み上げられていたはずの樽は決闘の余波で一部が散乱し、幾つかは傷ついて使い物にならなくなっていた。岩壁も傷つき、埃が舞っている。
その惨状を、鞘に収められた大剣を背負った才人という名の少年がじっと見詰めていた。
背後には“女神の杵”亭の店内に繋がる扉がある。だが、才人はまだその扉の取っ手に手をかけることを躊躇っていた。
この先には、きっと自分を負かせた相手が居る。そして、負け犬を見るような目で自分を見るのだろう。
その目を無視するには、歳若い才人には難しいことだ。
悔しさとやるせなさからくる無力感は、少年の手を扉から遠ざける。しかし、敗北の証明たる練兵場は、才人をこの場に止まる事を許さない。
板挟みの重圧が、心を締め付けていた。
「……ちくしょう」
胸の奥に募る苛立ちはこうしている間にも強まり続ける。
やがて、この場所に止まる苦痛が勝者の笑みに勝ったのか、才人は扉に手をかけた。
扉が軋みを立てて開く。
才人は扉の取っ手に手をかけただけで、力は入れていなかった。開いた理由は、扉の向こう側で誰かが扉を開けたからだ。
立派な髭と長髪を特徴とした、決闘の当事者の一人。ワルドだった。
「なんだ、まだ居たのか」
ワルドは開いた扉の前に居た才人を見て冷たく言い捨てると、その横を通り過ぎて練兵場の中心に向かった。その後ろからキュルケが顔を覗かせ、杖を持って少し緊張した面持ちのタバサが続き、妙に楽しそうな様子の三人組が姿を見せる。
一体、こんなところに何の用なのか。
まったく事情が分からない才人は、道の片隅に身体を寄せて団体の移動を眺めるしかなかった。それでも、一人だけ取り残されたような感覚に不安を覚えて、最後に現れた青年に声をかける。
「なにを始めるつもりなんだ?」
ワルドが被っているものよりも大きな羽帽子に顔を隠した青年は、才人の姿を一瞥すると、口元に涼しげな笑みを浮かべて練兵場の中央を顎で指し示した。
ワルドとタバサが杖を手に睨み合っている。
まさか、と思い、才人は駆け出した。
「てめえ、俺だけじゃなく、タバサやキュルケにまで手を出そうって言うのか!?」
タバサの前に身体を割り込ませ、鞘から剣を抜いて叫ぶ。
自分が決闘を申し込まれたときの強引な誘い文句を思い出して、才人は同じことを他の仲間にもやったのではないかと勘繰ったのだ。
しかし、そんな才人に対して、ワルドは過去に才人が感じた余裕ある大人のイメージを一変させるほどの怒りを見せた。
「黙れ、小僧!この決闘は貴様との幼稚なおままごととは違うのだ!純粋たる貴族と貴族の決闘を穢すというなら、もう一度痛い目を見せてやるぞ!」
元々鋭い目を更に鋭くさせるワルドに気圧されて、才人は先程受けた痛みと屈辱を思い出す。
ついさっき負けた自分が、もう一度戦って勝てるのか?いや、相手はさっきの戦いを戦いとすら思っていない。遊んでいただけだと言っている。
知らず知らずのうちに足が下がっているのにも気付かずに、才人は剣を握り直して力を篭めた。刀身がカタカタと鳴る。
「止めとけ、相棒。俺たち、どうも御呼びじゃねえみてえだぞ」
手に握る剣から聞こえるその言葉に、才人は周囲を見回した。
退屈そうに見守っているキュルケと先程の青年、そして、どこかで見たことのある幼い少女と砂色の服の男が、じっと自分を見ている。
介添え人という様子は無い。どちらかというと、ただの野次馬に見える。
なんで、こんな決闘もどきの一方的な虐めを当たり前のように見ていられるんだ。
そう言いたくなる才人の肩に、タバサの杖が当てられた。
「邪魔」
短い言葉に、やっと自分がこの場に相応しくない人間だということに気付いて、才人は数少ない観客に向かって肩を落として歩き出した。
なんなんだ、この状況は。
疑問だけが頭に渦巻く。
「なにがあったのか知らないけど。気にしちゃダメよ、ダーリン」
出迎えたキュルケの抱擁を跳ね除けることなく、才人は端の段差に腰を下ろした。
湧き上がる疑問が口から飛び出したのは、すぐのことだった。
「なんでタバサがあいつと決闘なんて……、なんで止めないんだよ!?」
この場にいる全員に向けたであろう叫びに反応して、前に立っていたホル・ホースが興味深そうに視線を向ける。
「なんだ、坊主。あの嬢ちゃんが負けるとでも思ってんのか?」
「……違うのかよ」
少し不貞腐れた様子で答える才人に、ホル・ホースはヒヒと笑った。
どうやら、隠しているのは素性だけでなく、実力のほうも同じだったらしい。
随分と念の入った隠し事だなあ、と思いつつ、才人の頭を乱暴に撫で付けた。
「まあ、見てろ。少なくとも、あの嬢ちゃんはそこらのメイジよりよっぽど強えぞ。ガリアの竜騎兵を100騎相手にするより、俺は嬢ちゃん一人のほうがずっとヤバイと言い切る自信があるね」
まさか、本当に100騎以上の竜騎兵を相手にした人間の言葉とは思わず、才人は疑念の籠もった眼差しで練兵場の中央に立つ青い髪の少女の姿を見た。
背の高さは自分の胸の辺り。身体の細さなんて、下手をしたら半分ぐらいしかないのではないかと思うほど小柄な少女だ。そんな人物が、男の言うような実力者だとは、才人にはとても思えなかった。
だが、自信があるのは目の前の男だけではなく、傍らに居る布を被った幼い少女や羽帽子の青年も同じらしい。
まったく心配をしていない。そういう目でワルドと退治するタバサを見ていた。
なにか根拠があるのだろう。
少しだけ、大人しく観てみようか。
そんなふうに思って、才人は観戦に集中することにした。
実際に兵の訓練に使用されたことよりも、陛下の演説や検閲などの用途で使用されていたこの場所は、今はただの物置と化している。
それでも、戦争が沈静化した後、一時は貴族同士の決闘に用いられたらしく、僅かに残る血の染みなどが当時の戦いの壮絶さを物語っていた。
歳を経た者達にとっては、遠い思い出の場所である。
そんな練兵場だが、この日は少しだけ違っていた。
明け方、下らないプライドを賭けて、模擬試合の名を騙った決闘が行われたのだ。
綺麗に積み上げられていたはずの樽は決闘の余波で一部が散乱し、幾つかは傷ついて使い物にならなくなっていた。岩壁も傷つき、埃が舞っている。
その惨状を、鞘に収められた大剣を背負った才人という名の少年がじっと見詰めていた。
背後には“女神の杵”亭の店内に繋がる扉がある。だが、才人はまだその扉の取っ手に手をかけることを躊躇っていた。
この先には、きっと自分を負かせた相手が居る。そして、負け犬を見るような目で自分を見るのだろう。
その目を無視するには、歳若い才人には難しいことだ。
悔しさとやるせなさからくる無力感は、少年の手を扉から遠ざける。しかし、敗北の証明たる練兵場は、才人をこの場に止まる事を許さない。
板挟みの重圧が、心を締め付けていた。
「……ちくしょう」
胸の奥に募る苛立ちはこうしている間にも強まり続ける。
やがて、この場所に止まる苦痛が勝者の笑みに勝ったのか、才人は扉に手をかけた。
扉が軋みを立てて開く。
才人は扉の取っ手に手をかけただけで、力は入れていなかった。開いた理由は、扉の向こう側で誰かが扉を開けたからだ。
立派な髭と長髪を特徴とした、決闘の当事者の一人。ワルドだった。
「なんだ、まだ居たのか」
ワルドは開いた扉の前に居た才人を見て冷たく言い捨てると、その横を通り過ぎて練兵場の中心に向かった。その後ろからキュルケが顔を覗かせ、杖を持って少し緊張した面持ちのタバサが続き、妙に楽しそうな様子の三人組が姿を見せる。
一体、こんなところに何の用なのか。
まったく事情が分からない才人は、道の片隅に身体を寄せて団体の移動を眺めるしかなかった。それでも、一人だけ取り残されたような感覚に不安を覚えて、最後に現れた青年に声をかける。
「なにを始めるつもりなんだ?」
ワルドが被っているものよりも大きな羽帽子に顔を隠した青年は、才人の姿を一瞥すると、口元に涼しげな笑みを浮かべて練兵場の中央を顎で指し示した。
ワルドとタバサが杖を手に睨み合っている。
まさか、と思い、才人は駆け出した。
「てめえ、俺だけじゃなく、タバサやキュルケにまで手を出そうって言うのか!?」
タバサの前に身体を割り込ませ、鞘から剣を抜いて叫ぶ。
自分が決闘を申し込まれたときの強引な誘い文句を思い出して、才人は同じことを他の仲間にもやったのではないかと勘繰ったのだ。
しかし、そんな才人に対して、ワルドは過去に才人が感じた余裕ある大人のイメージを一変させるほどの怒りを見せた。
「黙れ、小僧!この決闘は貴様との幼稚なおままごととは違うのだ!純粋たる貴族と貴族の決闘を穢すというなら、もう一度痛い目を見せてやるぞ!」
元々鋭い目を更に鋭くさせるワルドに気圧されて、才人は先程受けた痛みと屈辱を思い出す。
ついさっき負けた自分が、もう一度戦って勝てるのか?いや、相手はさっきの戦いを戦いとすら思っていない。遊んでいただけだと言っている。
知らず知らずのうちに足が下がっているのにも気付かずに、才人は剣を握り直して力を篭めた。刀身がカタカタと鳴る。
「止めとけ、相棒。俺たち、どうも御呼びじゃねえみてえだぞ」
手に握る剣から聞こえるその言葉に、才人は周囲を見回した。
退屈そうに見守っているキュルケと先程の青年、そして、どこかで見たことのある幼い少女と砂色の服の男が、じっと自分を見ている。
介添え人という様子は無い。どちらかというと、ただの野次馬に見える。
なんで、こんな決闘もどきの一方的な虐めを当たり前のように見ていられるんだ。
そう言いたくなる才人の肩に、タバサの杖が当てられた。
「邪魔」
短い言葉に、やっと自分がこの場に相応しくない人間だということに気付いて、才人は数少ない観客に向かって肩を落として歩き出した。
なんなんだ、この状況は。
疑問だけが頭に渦巻く。
「なにがあったのか知らないけど。気にしちゃダメよ、ダーリン」
出迎えたキュルケの抱擁を跳ね除けることなく、才人は端の段差に腰を下ろした。
湧き上がる疑問が口から飛び出したのは、すぐのことだった。
「なんでタバサがあいつと決闘なんて……、なんで止めないんだよ!?」
この場にいる全員に向けたであろう叫びに反応して、前に立っていたホル・ホースが興味深そうに視線を向ける。
「なんだ、坊主。あの嬢ちゃんが負けるとでも思ってんのか?」
「……違うのかよ」
少し不貞腐れた様子で答える才人に、ホル・ホースはヒヒと笑った。
どうやら、隠しているのは素性だけでなく、実力のほうも同じだったらしい。
随分と念の入った隠し事だなあ、と思いつつ、才人の頭を乱暴に撫で付けた。
「まあ、見てろ。少なくとも、あの嬢ちゃんはそこらのメイジよりよっぽど強えぞ。ガリアの竜騎兵を100騎相手にするより、俺は嬢ちゃん一人のほうがずっとヤバイと言い切る自信があるね」
まさか、本当に100騎以上の竜騎兵を相手にした人間の言葉とは思わず、才人は疑念の籠もった眼差しで練兵場の中央に立つ青い髪の少女の姿を見た。
背の高さは自分の胸の辺り。身体の細さなんて、下手をしたら半分ぐらいしかないのではないかと思うほど小柄な少女だ。そんな人物が、男の言うような実力者だとは、才人にはとても思えなかった。
だが、自信があるのは目の前の男だけではなく、傍らに居る布を被った幼い少女や羽帽子の青年も同じらしい。
まったく心配をしていない。そういう目でワルドと退治するタバサを見ていた。
なにか根拠があるのだろう。
少しだけ、大人しく観てみようか。
そんなふうに思って、才人は観戦に集中することにした。
「まだ、君には自己紹介をしていなかったな」
杖を手に間合いを計りながら、ワルドはシャルロットを前にして口を開く。
同じように間合いを確かめるシャルロットは、周囲に視線を這わせて右へ左へと身体を揺らした。準備運動のつもりらしい。
聞いている様子の無いシャルロットに苛立ちを強めながらも、ワルドは口上を続けた。
「僕の名前は、ジャン・ジャック・フランシス・ド・ワルド。魔法衛士隊グリフォン隊隊長を務めている。風の系統を得意とする、スクウェアクラスのメイジだ」
そう言って、まるで自分の力を示すように杖を振るう。
つむじ風がシャルロットの服とマントを煽り、あまり整えられていない髪を乱した。
観客席が小さく盛り上がり、幼女が一人立ち上がった。
「この変態!こんなところでおねえちゃんのスカートを捲ろうなんて、やっぱりロリコンのペドフィリアじゃないの!」
さっきのつむじ風でシャルロットのスカートが捲れたのだ。
「だから、違うと言っているだろう!!」
横合いからエルザの横槍が入って、ワルドが怒声を上げた。
しかし、観客はムキになったのが逆に怪しいと見て、冷たい視線を投げかけてくる。決闘に敗北した才人も、このときだけはちょっと哀れみの目だった。
ワルドの胸にあった勝利の余韻は、既に完全に過ぎ去っている。
「ぐ、ぬうぅ!」
魔法衛士隊でも屈指の実力を誇り、『閃光』とまで称される自分が、なぜこんな謂れの無い誹謗中傷を受けなければならないのか。
歯を食い縛って言い出しっぺの少女と、それに悪乗りする幼女を睨みつけ、ワルドはこの決闘は決して手加減をしない事を心に決めた。
一瞬でけりをつける。出し惜しみも、相手の実力を測るのも、今回は無しだ。
全身の魔力を立ち上らせ、杖に魔力を奔らせる。
今のワルドに、少女を相手にする負い目など欠片も無い。
「開始の合図をするぜ」
観客席のホル・ホースがドニエ銅貨を一枚取り出して、それを宙に放り投げた。
ワルドとシャルロットが身体を軽く屈めて、いつでも動き出せる状態になる。
互いに魔法の詠唱は既に終わっている。合図と同時に、自身の最も得意とする魔法が相手を襲うだろう。
雷撃を放つ、ライトニング・クラウドの魔法を準備して、ワルドはニヤリと口元に笑みを浮かべた。
速度と破壊力において、比類なき力をもつ自分の魔法を回避する手段は無い。魔法の打ち合いだろうとなんだろうと、勝利は変わることはないだろう。
その確信を持って、ワルドは開始の合図を待つ。
銅貨が回転しながら上昇し、頂点に到達する。その下で、放り投げた張本人が右手を構えて狙いをつけていた。
人差し指が曲げられるのとほぼ同時に銀貨が空中で弾け、ガラスが割れるような高い音を立てた。
「え?」
予想と違う合図の仕方にワルドが戸惑いの声を上げる。
それに構わず、シャルロットは自分の最も得意とする魔法を発動させて、ワルドに対して攻撃に移った。
魔法を発動させる最後のキーワードが放たれる。
ウィンディ・アイシクルの魔法が作り出す冷たい風と無数の氷の矢。それらが一瞬にしてシャルロットの周囲に浮かび上がり、目標に向かって突撃する。
一歩遅れたワルドも、それに反応して杖を突き出した。
「ライトニング・クラウド!」
空気の弾ける音と共に、稲妻がレイピア状の杖の先端から飛び出した。
雷撃の魔法はシャルロットの魔法よりも早く宙を走り抜けて、目標に辿り着いた。青白い光が空気を焼く瞬間を誰もが目にし、それが直撃したことをはっきりと確認している。
だが、シャルロットはまったく意に介した様子も無く、氷の矢をワルドの身体に容赦なく叩き付けた。雷撃は宙を舞う氷に散らされて、威力を失っていたのだ。
選択した魔法の相性が悪かったとしか言いようが無い。ワルドの失態だった。
全身が凍て付き、衝撃が走り抜ける。
ワルドはシャルロットの魔法を受け、そのまま後方へと吹き飛ばされて積み上げられた樽に激突した。10メートル以上も吹き飛んだ大人の体は、樽の幾つかを破壊し、生み出された瓦礫に埋もれて足だけが覗き込んでいる。
ふらふらと、まだ衝撃に倒れていなかった樽の一つがゆっくりと瓦礫の上に落ちる。
「ぐえ」
カエルが潰れたような声が響いて、それっきり、ワルドはピクリとも動かなくなった。
シャルロットが杖を高々と掲げて胸を張る。
勝利宣言だった。
わー、と疎らな拍手が響く客席側に、ちょっと得意気にシャルロットが戻ってくる。
「凄いじゃない、タバサ!魔法衛士隊の隊長に勝つなんて!」
出迎えたキュルケが小柄な体を撫で回し、豊満な胸に抱き締めている。その横では信じられないといった様子で、才人がシャルロットとワルドを交互に見詰めていた。
「よぉし!オレの勝ちだ!!ほれ、金出せ。金」
勝敗なんて気にした様子も無く、ホル・ホースがエルザと地下水に手を出して催促する。
「ちぇ」
「まあ、大体予想通りの結果だな。仕方ねえ」
渋々といった様子でエキュー金貨をホル・ホースの手に乗せて、エルザと地下水はやれやれと呟きながら立ち上がった。
決闘が一瞬で終わってしまったので、十分に盛り上がることも出来なかったのだ。見世物に対する興奮は一瞬で冷めて、早く食事を再開したいという欲求だけが残っていた。
賭けに勝ったホル・ホースの機嫌だけが妙に良くなり、満面の笑みを浮かべている。
「嬢ちゃんもグッドだ!勝った金でなんか奢ってやるぜ!」
ヒヒと陽気に笑うホル・ホースが、キュルケからシャルロットを奪い取ってその頭を撫で回す。シャルロットの頬が少しだけ赤く染まった。
その様子を見て、タバサも春を迎えたのかしら、とキュルケが呟き、才人は小さい女の子に負けるような奴に自分が敗北したことにショックを受けていた。
「ま、待て……」
いつの間にか瓦礫から体を抜いて荒く呼吸するワルドが、杖を支えに立ち上がろうとしていた。額からは血が流れ、左腕が不自然な方向に曲がっている。
ウィンディ・アイシクルの氷の矢は、容赦なくワルドを痛めつけたようだ。
「アレ食らって、良く立てるもんだなあ。すげえ根性」
そんな感想を抱いたホル・ホースにシャルロットは視線を向けて、小さく呟く。
「手加減した」
才人が何故かその場に四つん這いになって項垂れた。
とりあえず、理由も分からず落ち込んでいる才人をキュルケに任せて、ホル・ホースは生まれたての子牛みたいな状態のワルドを困ったように見詰める。
なにか言いたいことがあるようだが、見ていてあまり気分の言い見た目ではない。肉料理なんかが不味くなりそうなのだ。
「なんだ。何か用か?決闘しかけといて負けた、情けないロリコンワルドさんよ」
ロリコンやペドフィリアであることを否定するための決闘だ。それに負けた時点で、ホル・ホースの脳内では、もうワルドの名前は変態とイコールで結ばれている。
一月ほど前にホル・ホースもロリコン呼ばわりされた時期があるのだが、ワルドに対しては仲間意識なんて欠片も芽生えていなかった。
ふら付く体を必死に支え、なんとか背筋を伸ばして立ち上がったワルドは、帽子が瓦礫の下に置き去りになっていることにも気付かずに、杖をホル・ホースへと向ける。
その目には、シャルロットに決闘を挑んだときよりも強い怒りの感情が浮かんでいた。
「卑怯だぞ!開始の合図をあのような不意打ちで行うなど、貴族の風上にも置けん!」
いや、貴族じゃないし。なんて反論は聞いては貰えそうに無い。
それほどまでにワルドの怒りは強く激しいものだった。
「そうは言ってもよお。別にオレは、コインが地面に落ちたら開始だ、なんて言っちゃいねえぜ?実際、シャルロットの嬢ちゃんはキチンと反応したわけだし」
その言葉に同意するようにシャルロットも頷く。
根拠の無い言いがかりだと言うホル・ホースに、ワルドは杖を振り上げた。
「その様な言い訳を聞いているのではない!僕は、貴様に謝罪する気があるのかどうかを聞いているのだ!」
杖が振り下ろされると同時に、風がホル・ホースと傍にいたシャルロットの体を叩いた。
魔法とも言えない魔法だが、攻撃であることに違いは無い。
シャルロットが一歩前に出て魔法の詠唱を始める。それをホル・ホースが手で制した。
帽子を深く被り、ヒヒと笑う。
「謝る気はねえ、って言ったらどうする?」
「勿論、君には痛い目にあってもらう」
そんな体でどうやって?と聞きたくなるほど、ワルドの体は酷い状態だ。
シャルロットが放ったウィンディ・アイシクルの氷の矢は、普通なら一撃で人間の命を断つのに十分な破壊力がある。矢の先端を丸めて殺傷力を落としたのか、切り傷のようなものは一つも見当たらないが、服の下は内出血で酷い有様だろう。今、こうして立っているのも奇跡に近い。
それなのに人を脅そうとは、見上げた心意気だ。
強者には弱いが、弱者には滅法強いホル・ホースは、そんなワルドに向かって更に挑発を繰り返した。
こういう時だけは、この男は生き生きとする。
「痛い目?OK。やれるもんならやってみろ。オレはここを一歩も動かねえからよ」
余裕タップリに両腕を広げてワルドを待つホル・ホースを、キュルケと落ち込みから立ち直った才人が見詰める。
シャルロットに破れたとはいえ、それは殆ど不意打ちだ。満身創痍でもワルドが魔法衛士隊の隊長であることに変わりはない。その実力は張りぼてなどではないのだ。
練兵場に嫌な空気が漂う。
気味の悪い笑みを浮かべたワルドは、杖をもう一度振り上げて魔法の詠唱を行った。
「後悔するなよ、騎士崩れが!」
杖に紫電が奔る。
「ライトニング・クラウド!」
空気が弾け、別の何かも同時に弾けた。
宙を走る雷光は不安定な杖の動きに押されて地面を駆け抜け、誰に影響を与えることもなく霧散する。唯一、空気の焦げる匂いだけが鼻につく。
自分の魔法が無力化されたことに驚いて、ワルドが声を上げた。
「な、何をした!」
ワルドの手にあった杖が一枚岩で出来た床に転がって金属音が鳴り響く。
両腕を広げたままの状態であるホル・ホースが何かをしたようには見えない。だが、その右手には間違いなくエンペラーが握られていた。
見えも聞こえもしない上に、使用者の意思で自由に弾道を変えられる銃なんて誰が想像するのか。例に漏れず、ワルドもスタンドという存在に翻弄されていた。
「さあて、なんだろうねえ」
薄っぺらい笑みを浮かべたままのホル・ホースを憎々しげに睨み付けて、ワルドは床に転がった杖に手を伸ばす。
しかし、体が言うことを聞かないのだろう。足がふら付き、倒れこんでしまう。
それでも杖に手を伸ばそうとするワルドを見て、ホル・ホースは面倒くさそうに溜息をついた。
「なあ、嬢ちゃん。こいつ、殺しちゃダメか?」
「……だめ」
やたらと真剣に反応してくる相手に疲れを見せ始めたホル・ホースに、シャルロットは少し間を置いて首を振った。
一応、これでもトリステインが誇る魔法衛士隊の隊長だ。殺してしまうのはイロイロと問題があるだろう。
任務の途中であるため、殉職と言い張ればそれで納得されそうだが、ホル・ホースはガリアだけでなく、トリステインでもお尋ね者になってしまう。
それはあまり好ましい事態ではなかった。
帽子の上から頭を掻いたホル・ホースは、うーんと唸って店に続く扉を開く。
「おーい、エルザ!ちょっと頼むわ!」
面倒臭いから、エルザの先住魔法で眠らせてしまおうという魂胆だ。
何事かと姿を見せる布の塊を視界に入れたワルドは、少しずつだが、確実に重くなっていく瞼と全身の痛みと戦いながら、手を伸ばし続ける。
指先から肩の付け根まで、痛みの無い場所は一箇所として無い。既に限界を迎えていることくらい分かっているのだ。だからと言って、投げ出すことは出来ない。プライドが許さないのだ。
この屈辱、忘れはしない。
かつてない程の黒い感情を胸に抱き、やっとのことで杖の柄に手が届いたとき、もうワルドには、手を握る力すらも失われていた。
エルザの声が子守唄のように響く。
ワルドは意識が暗く閉じていくのを自覚しつつ、怨嗟の声を心の中で上げた。
ホル・ホース。そして、タバサ。その名前、覚えたぞ。
王家に対する不満や母への想いよりも遥かに強い、殺意と復讐の意思が芽生えている。
だが、彼は忘れていた。
その発端が、自身にかけられたロリコン疑惑という情けない事実にあることを。
杖を手に間合いを計りながら、ワルドはシャルロットを前にして口を開く。
同じように間合いを確かめるシャルロットは、周囲に視線を這わせて右へ左へと身体を揺らした。準備運動のつもりらしい。
聞いている様子の無いシャルロットに苛立ちを強めながらも、ワルドは口上を続けた。
「僕の名前は、ジャン・ジャック・フランシス・ド・ワルド。魔法衛士隊グリフォン隊隊長を務めている。風の系統を得意とする、スクウェアクラスのメイジだ」
そう言って、まるで自分の力を示すように杖を振るう。
つむじ風がシャルロットの服とマントを煽り、あまり整えられていない髪を乱した。
観客席が小さく盛り上がり、幼女が一人立ち上がった。
「この変態!こんなところでおねえちゃんのスカートを捲ろうなんて、やっぱりロリコンのペドフィリアじゃないの!」
さっきのつむじ風でシャルロットのスカートが捲れたのだ。
「だから、違うと言っているだろう!!」
横合いからエルザの横槍が入って、ワルドが怒声を上げた。
しかし、観客はムキになったのが逆に怪しいと見て、冷たい視線を投げかけてくる。決闘に敗北した才人も、このときだけはちょっと哀れみの目だった。
ワルドの胸にあった勝利の余韻は、既に完全に過ぎ去っている。
「ぐ、ぬうぅ!」
魔法衛士隊でも屈指の実力を誇り、『閃光』とまで称される自分が、なぜこんな謂れの無い誹謗中傷を受けなければならないのか。
歯を食い縛って言い出しっぺの少女と、それに悪乗りする幼女を睨みつけ、ワルドはこの決闘は決して手加減をしない事を心に決めた。
一瞬でけりをつける。出し惜しみも、相手の実力を測るのも、今回は無しだ。
全身の魔力を立ち上らせ、杖に魔力を奔らせる。
今のワルドに、少女を相手にする負い目など欠片も無い。
「開始の合図をするぜ」
観客席のホル・ホースがドニエ銅貨を一枚取り出して、それを宙に放り投げた。
ワルドとシャルロットが身体を軽く屈めて、いつでも動き出せる状態になる。
互いに魔法の詠唱は既に終わっている。合図と同時に、自身の最も得意とする魔法が相手を襲うだろう。
雷撃を放つ、ライトニング・クラウドの魔法を準備して、ワルドはニヤリと口元に笑みを浮かべた。
速度と破壊力において、比類なき力をもつ自分の魔法を回避する手段は無い。魔法の打ち合いだろうとなんだろうと、勝利は変わることはないだろう。
その確信を持って、ワルドは開始の合図を待つ。
銅貨が回転しながら上昇し、頂点に到達する。その下で、放り投げた張本人が右手を構えて狙いをつけていた。
人差し指が曲げられるのとほぼ同時に銀貨が空中で弾け、ガラスが割れるような高い音を立てた。
「え?」
予想と違う合図の仕方にワルドが戸惑いの声を上げる。
それに構わず、シャルロットは自分の最も得意とする魔法を発動させて、ワルドに対して攻撃に移った。
魔法を発動させる最後のキーワードが放たれる。
ウィンディ・アイシクルの魔法が作り出す冷たい風と無数の氷の矢。それらが一瞬にしてシャルロットの周囲に浮かび上がり、目標に向かって突撃する。
一歩遅れたワルドも、それに反応して杖を突き出した。
「ライトニング・クラウド!」
空気の弾ける音と共に、稲妻がレイピア状の杖の先端から飛び出した。
雷撃の魔法はシャルロットの魔法よりも早く宙を走り抜けて、目標に辿り着いた。青白い光が空気を焼く瞬間を誰もが目にし、それが直撃したことをはっきりと確認している。
だが、シャルロットはまったく意に介した様子も無く、氷の矢をワルドの身体に容赦なく叩き付けた。雷撃は宙を舞う氷に散らされて、威力を失っていたのだ。
選択した魔法の相性が悪かったとしか言いようが無い。ワルドの失態だった。
全身が凍て付き、衝撃が走り抜ける。
ワルドはシャルロットの魔法を受け、そのまま後方へと吹き飛ばされて積み上げられた樽に激突した。10メートル以上も吹き飛んだ大人の体は、樽の幾つかを破壊し、生み出された瓦礫に埋もれて足だけが覗き込んでいる。
ふらふらと、まだ衝撃に倒れていなかった樽の一つがゆっくりと瓦礫の上に落ちる。
「ぐえ」
カエルが潰れたような声が響いて、それっきり、ワルドはピクリとも動かなくなった。
シャルロットが杖を高々と掲げて胸を張る。
勝利宣言だった。
わー、と疎らな拍手が響く客席側に、ちょっと得意気にシャルロットが戻ってくる。
「凄いじゃない、タバサ!魔法衛士隊の隊長に勝つなんて!」
出迎えたキュルケが小柄な体を撫で回し、豊満な胸に抱き締めている。その横では信じられないといった様子で、才人がシャルロットとワルドを交互に見詰めていた。
「よぉし!オレの勝ちだ!!ほれ、金出せ。金」
勝敗なんて気にした様子も無く、ホル・ホースがエルザと地下水に手を出して催促する。
「ちぇ」
「まあ、大体予想通りの結果だな。仕方ねえ」
渋々といった様子でエキュー金貨をホル・ホースの手に乗せて、エルザと地下水はやれやれと呟きながら立ち上がった。
決闘が一瞬で終わってしまったので、十分に盛り上がることも出来なかったのだ。見世物に対する興奮は一瞬で冷めて、早く食事を再開したいという欲求だけが残っていた。
賭けに勝ったホル・ホースの機嫌だけが妙に良くなり、満面の笑みを浮かべている。
「嬢ちゃんもグッドだ!勝った金でなんか奢ってやるぜ!」
ヒヒと陽気に笑うホル・ホースが、キュルケからシャルロットを奪い取ってその頭を撫で回す。シャルロットの頬が少しだけ赤く染まった。
その様子を見て、タバサも春を迎えたのかしら、とキュルケが呟き、才人は小さい女の子に負けるような奴に自分が敗北したことにショックを受けていた。
「ま、待て……」
いつの間にか瓦礫から体を抜いて荒く呼吸するワルドが、杖を支えに立ち上がろうとしていた。額からは血が流れ、左腕が不自然な方向に曲がっている。
ウィンディ・アイシクルの氷の矢は、容赦なくワルドを痛めつけたようだ。
「アレ食らって、良く立てるもんだなあ。すげえ根性」
そんな感想を抱いたホル・ホースにシャルロットは視線を向けて、小さく呟く。
「手加減した」
才人が何故かその場に四つん這いになって項垂れた。
とりあえず、理由も分からず落ち込んでいる才人をキュルケに任せて、ホル・ホースは生まれたての子牛みたいな状態のワルドを困ったように見詰める。
なにか言いたいことがあるようだが、見ていてあまり気分の言い見た目ではない。肉料理なんかが不味くなりそうなのだ。
「なんだ。何か用か?決闘しかけといて負けた、情けないロリコンワルドさんよ」
ロリコンやペドフィリアであることを否定するための決闘だ。それに負けた時点で、ホル・ホースの脳内では、もうワルドの名前は変態とイコールで結ばれている。
一月ほど前にホル・ホースもロリコン呼ばわりされた時期があるのだが、ワルドに対しては仲間意識なんて欠片も芽生えていなかった。
ふら付く体を必死に支え、なんとか背筋を伸ばして立ち上がったワルドは、帽子が瓦礫の下に置き去りになっていることにも気付かずに、杖をホル・ホースへと向ける。
その目には、シャルロットに決闘を挑んだときよりも強い怒りの感情が浮かんでいた。
「卑怯だぞ!開始の合図をあのような不意打ちで行うなど、貴族の風上にも置けん!」
いや、貴族じゃないし。なんて反論は聞いては貰えそうに無い。
それほどまでにワルドの怒りは強く激しいものだった。
「そうは言ってもよお。別にオレは、コインが地面に落ちたら開始だ、なんて言っちゃいねえぜ?実際、シャルロットの嬢ちゃんはキチンと反応したわけだし」
その言葉に同意するようにシャルロットも頷く。
根拠の無い言いがかりだと言うホル・ホースに、ワルドは杖を振り上げた。
「その様な言い訳を聞いているのではない!僕は、貴様に謝罪する気があるのかどうかを聞いているのだ!」
杖が振り下ろされると同時に、風がホル・ホースと傍にいたシャルロットの体を叩いた。
魔法とも言えない魔法だが、攻撃であることに違いは無い。
シャルロットが一歩前に出て魔法の詠唱を始める。それをホル・ホースが手で制した。
帽子を深く被り、ヒヒと笑う。
「謝る気はねえ、って言ったらどうする?」
「勿論、君には痛い目にあってもらう」
そんな体でどうやって?と聞きたくなるほど、ワルドの体は酷い状態だ。
シャルロットが放ったウィンディ・アイシクルの氷の矢は、普通なら一撃で人間の命を断つのに十分な破壊力がある。矢の先端を丸めて殺傷力を落としたのか、切り傷のようなものは一つも見当たらないが、服の下は内出血で酷い有様だろう。今、こうして立っているのも奇跡に近い。
それなのに人を脅そうとは、見上げた心意気だ。
強者には弱いが、弱者には滅法強いホル・ホースは、そんなワルドに向かって更に挑発を繰り返した。
こういう時だけは、この男は生き生きとする。
「痛い目?OK。やれるもんならやってみろ。オレはここを一歩も動かねえからよ」
余裕タップリに両腕を広げてワルドを待つホル・ホースを、キュルケと落ち込みから立ち直った才人が見詰める。
シャルロットに破れたとはいえ、それは殆ど不意打ちだ。満身創痍でもワルドが魔法衛士隊の隊長であることに変わりはない。その実力は張りぼてなどではないのだ。
練兵場に嫌な空気が漂う。
気味の悪い笑みを浮かべたワルドは、杖をもう一度振り上げて魔法の詠唱を行った。
「後悔するなよ、騎士崩れが!」
杖に紫電が奔る。
「ライトニング・クラウド!」
空気が弾け、別の何かも同時に弾けた。
宙を走る雷光は不安定な杖の動きに押されて地面を駆け抜け、誰に影響を与えることもなく霧散する。唯一、空気の焦げる匂いだけが鼻につく。
自分の魔法が無力化されたことに驚いて、ワルドが声を上げた。
「な、何をした!」
ワルドの手にあった杖が一枚岩で出来た床に転がって金属音が鳴り響く。
両腕を広げたままの状態であるホル・ホースが何かをしたようには見えない。だが、その右手には間違いなくエンペラーが握られていた。
見えも聞こえもしない上に、使用者の意思で自由に弾道を変えられる銃なんて誰が想像するのか。例に漏れず、ワルドもスタンドという存在に翻弄されていた。
「さあて、なんだろうねえ」
薄っぺらい笑みを浮かべたままのホル・ホースを憎々しげに睨み付けて、ワルドは床に転がった杖に手を伸ばす。
しかし、体が言うことを聞かないのだろう。足がふら付き、倒れこんでしまう。
それでも杖に手を伸ばそうとするワルドを見て、ホル・ホースは面倒くさそうに溜息をついた。
「なあ、嬢ちゃん。こいつ、殺しちゃダメか?」
「……だめ」
やたらと真剣に反応してくる相手に疲れを見せ始めたホル・ホースに、シャルロットは少し間を置いて首を振った。
一応、これでもトリステインが誇る魔法衛士隊の隊長だ。殺してしまうのはイロイロと問題があるだろう。
任務の途中であるため、殉職と言い張ればそれで納得されそうだが、ホル・ホースはガリアだけでなく、トリステインでもお尋ね者になってしまう。
それはあまり好ましい事態ではなかった。
帽子の上から頭を掻いたホル・ホースは、うーんと唸って店に続く扉を開く。
「おーい、エルザ!ちょっと頼むわ!」
面倒臭いから、エルザの先住魔法で眠らせてしまおうという魂胆だ。
何事かと姿を見せる布の塊を視界に入れたワルドは、少しずつだが、確実に重くなっていく瞼と全身の痛みと戦いながら、手を伸ばし続ける。
指先から肩の付け根まで、痛みの無い場所は一箇所として無い。既に限界を迎えていることくらい分かっているのだ。だからと言って、投げ出すことは出来ない。プライドが許さないのだ。
この屈辱、忘れはしない。
かつてない程の黒い感情を胸に抱き、やっとのことで杖の柄に手が届いたとき、もうワルドには、手を握る力すらも失われていた。
エルザの声が子守唄のように響く。
ワルドは意識が暗く閉じていくのを自覚しつつ、怨嗟の声を心の中で上げた。
ホル・ホース。そして、タバサ。その名前、覚えたぞ。
王家に対する不満や母への想いよりも遥かに強い、殺意と復讐の意思が芽生えている。
だが、彼は忘れていた。
その発端が、自身にかけられたロリコン疑惑という情けない事実にあることを。
そんな感じでワルドが心を黒く染め上げている頃、“女神の杵”亭では、一人の少年が無言でパンを貪る地下水を相手に戸惑いの声を上げていた。
「で、えーと。貴方はどちら様?ここに居たはずの僕の連れを見なかったかい?」
このテーブルについていたはずの二人の少女の姿が見えず、代わりに存在する妙な青年。
パンを延々と食べ続け、視線だけを向けてくる。それが妙に恐い。
カールを巻いた金髪の少年は、薔薇を手に視線を彷徨わせつつ、誰かに助けを求めた。
だが、残念ながら、それに答えてくれる人間は、この場には一人も居なかった。
「で、えーと。貴方はどちら様?ここに居たはずの僕の連れを見なかったかい?」
このテーブルについていたはずの二人の少女の姿が見えず、代わりに存在する妙な青年。
パンを延々と食べ続け、視線だけを向けてくる。それが妙に恐い。
カールを巻いた金髪の少年は、薔薇を手に視線を彷徨わせつつ、誰かに助けを求めた。
だが、残念ながら、それに答えてくれる人間は、この場には一人も居なかった。