ゼロの奇妙な使い魔 まとめ

6 価値の無い選択 前編

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匿名ユーザー

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 ガリアの土地に暑さを感じさせる日が増えてきている。
 季節の変わり目に活気になった市場では夏物の服が出回り、春の収穫物も店頭に多く並んでいた。
 夏を迎える前に売り切らなければならないものが増え、買う側の人間も入用が増える。金の臭いが強くなる時期ともいえるだろう。
 しかし、この日の空は、生憎の雨模様。雨脚は強くないが、無視するには強過ぎる。露天の殆どが閉まっている様子が、王宮の窓からでも良く分かった。
 ホル・ホースの部屋では太陽の光がないからと、1人元気な少女がベッドを占領していたが、それに付き合っていられるほどホル・ホース自身の心情は良い状態ではない。
 トリステインから戻って、今日で三日が過ぎた。
 部屋の中央に置かれた円形ののテーブルの上には、一本のナイフと人形、それに、一抱えもある大きな鞄。
 それは、トリステインから戻る途中にシャルロットから渡された、ジョゼフ暗殺の依頼料の一部だった。
 ナイフの名前は地下水。人形はスキルニル。鞄の中身は、布袋に小分けにされた1万エキューもの大金だ。
 テーブルに足を投げ出して椅子を揺らしたホル・ホースは、体の力を抜いて視線を天井へと向ける。
 ジョゼフ暗殺のお膳立てが完了に近づきつつある。それはつまり、ホル・ホースが命を賭ける瞬間が近づいていることも意味していた。
 だが、今のホル・ホースの心は、気が乗らない、の一言に占められていた。
 ホル・ホースの信条は、長いものに巻かれること。保身こそが最大の行動理由である。
 その考え方を前提に置いた場合、ジョゼフとシャルロットのどちら側につくかと問われたなら、間違いなくジョゼフの傘下に収まるだろう。
 現在のシャルロットでは、ジョゼフを敵に回して得られるメリットよりもデメリットのほうが大きいのだ。
 王宮内にはシャルロット寄りの勢力も多数存在しているのは分かっている。ジョゼフを上手く暗殺できれば、彼らが味方につくだろう。
 そうすれば恐らく、ガリアは時期王位継承者としてイザベラとシャルロットの二人が王位争いを始めることになる。
 イザベラは王位に興味を示すだろう。王女という立場を利用して好き勝手を行ってきたのだ。
 王位を手に入れなければ、今まで鬱憤を溜めてきた者達に命を狙われる。選択の余地はないはずだ。

 逆に、シャルロットは王位に興味がない。あの少女の心にあるのは復讐だけで、それが成されれば母親と共に隠匿生活でも送るのではないだろうか。
 王位争いなど、父親の代で十分だろう。
 そう考えると、更にやる気が削がれる。
 仮に、ジョゼフを暗殺した後を考えた場合、ホル・ホースはジョゼフ暗殺の実行犯として指名手配されることになるだろう。
 捕まれば、拷問の後に死刑となるのは間違いない。
 そんな最悪の結末から逃れるには、シャルロットに王権を手にしてもらい、罪を帳消しにしてもらうか、ほとぼりが冷めるまで匿ってもらわなければならない。
 一国の王を殺した暗殺者の身の安全など、どこへ行っても存在しないのだから。
 最終手段として砂漠を渡るという選択肢もあるにはあるが、再びあの砂漠に足を踏み入れるのは勘弁して欲しいというのがホル・ホースの本音だ。
 今は任務に出かけているシャルロットに、そのことを話す必要がある。しかし、あの少女はそれを承諾するだろうか。王という存在を無意識のうちに嫌っている気がする。
 しっかりやる気を見せてもらわないと、イザベラに王位を取られてしまう可能性も十分にあるのだから、頑張ってもらわなければ。
 だが、そんなことをいちいち確認しなければならない自分の状況が、何故だか無性に悲しくなる。
 自由人たるホル・ホースの姿は、いったいどこへ行ったのか。
「いい気なもんだ」
 視線を横に移して、ベッドの上で寝息を立てるエルザを見る。
 いつまた日が射すか分からないために布を被ったままではあるが、朝方に少しだけ外の空気を吸えたお陰か、エルザの顔色は良く見えた。
 幸せそうに毛布に包まり、時折ベッドの上でころりと転がる。
 いい夢を見ているのか、涎でべたべたになった口元には笑みが浮かんでいた。
「おにいちゃぁん、うふ、うふふふふぅ」
 寝言と共に手が毛布の塊を抱きしめて、体をくねくねと悶えさせている。
 夢の中でも脳味噌がピンク色に染まっているのは間違いないようだ。
 はあ、と息を吐いて、視線をテーブルに戻す。
「お疲れのようだな、ホル・ホースの旦那」

 ナイフがテーブルの上でカタカタと体を揺らして言った。
 意思を持ったこのナイフは、地下水という立派な傭兵の1人だ。
 どこの誰が作ったかまでは分からないが、手に取った他人の体を奪う力を使い、無限に近い寿命に刺激を与えようと名声や金を欲したらしい。
 裏ではそこそこ知られた存在だったようだ。
 つい最近までイザベラを雇い主にしていたが、ある事件をきっかけにシャルロットに屈したため、現在はホル・ホースの手にある。
 目的はもちろん、ジョゼフ暗殺の道具としてだ。
「テメエを見てると、アヌビス神を思い出すんだよなあ」
 ホル・ホースが嫌そうに呟いた。
「会ってからずっとそればかりじゃないか。いい加減、慣れてくれよ」
 地下水の文句を無視して、ぼうっと天井を見上げる。
 アヌビス神とは、本体を亡くしながらも実物の刀剣をスタンドとして残してきた珍しいタイプのスタンド使いだ。
 敵の攻撃を覚えて成長し、斬りたい物だけを切るといった能力を持つ。その鋭さは相当なもので、切れないものは存在しないと言ってもいいくらいだ。
 ただし、スタンドの強度は物理法則の外側にあるため、いくら鋭いとは言ってもスタンド自体が切れるかどうかは別の話である。
 喋る刃物、という点において、アヌビス神と地下水は実に良く似ている。
 手に持った相手の体を乗っ取るという点も同じである分、余計にホル・ホースは昔馴染みの存在を意識してしまうのである。
 血に飢えたあの刀剣を、ホル・ホースはあまり好きではなかった。
「で、どうするんだ。ジョゼフ暗殺の件は」
 やる気を見せる地下水に少しだけ視線を移して、ホル・ホースは再び天井を見上げた。
 正直に言えば、ジョゼフ暗殺自体は難しくない。地下水やエルザの力がなくても、やろうと思えば今すぐにでも出来るのだ。
 だが、前述の通り、逃げ道の確保が難しい。そのリスクが何とかならないと、動きたくても動けないのが実状だった。
「なあ、地下水。テメエ、適当にその辺歩いてる奴らの体乗っ取って、ジョゼフぶっ殺しに行ったりしねえのか?」
 それならホル・ホースが動く必要もないし、手間も省ける。いや、いっそのことジョゼフの体を乗っ取ってくれれば最高だ。
 最大の敵が味方になり、生殺与奪の権利まで手に入る。逃げる必要だって無い。

 実に効率的で無駄のない作戦だ。と思ったホル・ホースだったが、地下水は否定の言葉を返した。
「無理だね。王様の傍にいる変な女。アレがヤバイ。俺みたいなマジックアイテムの知識が半端じゃない。一秒で正体がバレる自信があるね」
 その言葉に、ホル・ホースの脳裏に1人の女の姿が浮かぶ。
 額に変な模様を入れた、ジョゼフがミューズと呼ぶ女。その存在を失念していたことを思い出して、元々ない気力が更に失せていく。面倒ごとが増えた気がした。
「アヌビス神ならこういう時、後先考えずに突っ込みそうなのに。テメエ、微妙に小賢しいな。面白くねえ」
「それは酷えよ、ホル・ホースの旦那。オレだって命は惜しいさ」
 酷く自分勝手な考え方で地下水をこき下ろしておいて、ホル・ホースが窓の向こうに目を向けた。
 空が黒くなっている。雨の勢いが強まるだけでなく、風も出ているようだった。
 閉じられた窓が風に煽られてガタガタと揺れる。
 昼中だというのに、部屋の中が少しずつ暗くなっていった。
 じとりと背中が湿るのを感じて、ホル・ホースは理由の分からない不安感が強まるのを感じる。
 朝から時々襲う、妙な気持ち悪さ。それが、頻度が増しているように思えた。
 気分が悪くなったホル・ホースは、暗いことをいいことに、一眠りしようと椅子から立ち上がった。
 ベッドの中央で丸くなっているエルザを抱え、入れ替わるようにベッドに転がる。
 エルザの体温が微妙に暖かくてホッとしたのも束の間、部屋の扉がノックされて伝令係の馴染みある声が届いた。
 イザベラの嬢ちゃんがまた呼んでいるのかな。と思い、体を起こす。
 だが、その考えは即座に否定された。
「ホル・ホース様。王が御呼びです」
 胸騒ぎが、急速に強くなった。


 荘厳美麗な調度品に囲まれたジョゼフの私室の一つに呼ばれたホル・ホースは、中庭でよく訓練を行っている兵隊達に囲まれて不貞腐れていた。
 テーブルを挟んだ向かいにはチェスの盤面を熱心に見つめるジョゼフが居る。傍らには愛人のモリエール夫人の姿も、ミューズという女の姿も見えない。酷く珍しい光景だ。
 いつもと違う軽装で笑みを張り付かせたジョゼフの手には、クイーンの駒がある。
 今、ホル・ホースとジョゼフはチェスの対局をしている真っ最中だった。
 盤面に並ぶのは、あちこちのマス目に散らばった黒の駒ばかり。白の駒は、ジョゼフの手にあるクイーンと、初期位置からピクリとも動いていないキングだけだ。
 使っている駒の色は、ホル・ホースが黒で、ジョゼフが白。だが、別にホル・ホースが勝っているわけではない。
 軽い音を立てて、白と黒のマスの一つにクイーンが移動する。
「ふむ。チェックメイトだ」
「だろうな」
 ジョセフの言葉に、ホル・ホースが面倒くさそうに返事をした。
 チェスの相手として呼ばれたホル・ホースだが、ここ二時間に及ぶ対局で一度として勝利を収めていない。
 いや、正確には一度勝ったのだが、ハンデとしてジョゼフはキング以外の駒を落としているので、勝って当然だろう。
 駒を並べ直す傍ら、ホル・ホースは周囲に視線を這わせる。
 ガリアの魔法衛士隊の一つ。東花壇騎士とかいう、メイジの部隊のさらに精鋭。それが今、ジョセフの部屋の中に並び、ホル・ホースに杖を向けている。
 暗殺防止のためらしい。一度前科がある以上、警戒もなしに私室に呼びはしないということだろう。
 だというのに、チェスの相手をさせる。そんなジョゼフの精神構造を、ホル・ホースはまったく理解できなかった。
「クイーンではハンデにならぬな。今度はビショップかナイトにするか」
「……好きにしてくれ」
 駒を入れ替え、白いキングの隣にあったクイーンが、馬を模ったナイトの駒と交代する。
 ホル・ホースにチェスの経験はない。ルールくらいは知っているが、実際に動かすのは今日が初めてだ。

 ハルケギニアにもチェスがあるのだなあ、と感心しつつ、初めての駒を動かしてあっさり敗北してから、ムキになって5敗したころには、ホル・ホースのやる気は完全に失われていた。
 それでも何が面白いのか、ジョゼフは一向にチェスを止める気配を見せない。
「よし、並べ終わったぞ。お前が先攻だ、駒を動かせ」
「あいよ」
 ホル・ホースの手が端のポーンに伸びて、前に一つ進ませた。
 適当である。既に負けた回数が三桁に達しているホル・ホースに、真面目にチェスをする気力など存在しないのだ。
 このまま負け続けて、またキングだけとか、キング以外にはポーン1駒だけとかの状態になったら全力で叩き潰す気はある。というか、それを待っている。
 さあ、さっさと殺して次のゲームに移ろうぜ。と言わんばかりのホル・ホースに、ジョゼフは真剣に盤面を見つめて暫く熟考した後、ナイトの駒に手をかけた。
「飽きているようだな」
 ホル・ホースにはまったく理解できない戦略でナイトを動かしたジョゼフが口を開く。
「当然だろ。負けの分かっているゲームが面白いなんていうヤツはいねえよ。例えいたとしても、そいつは真性のマゾなだけで、ゲームを楽しんでるわけじゃねえ」
 テーブルに頬杖をついて、盤面の外に除け者にされたジョゼフの駒の一つを手に取る。
 材質はいまいちよく分からないが、見た目よりも重く、頑丈に出来ている。細工の細かさを見て、やはりこれも魔法で作られているのだろうかと考えた。
「お前に一つ聞きたい事がある」
 唐突に切り出したジョゼフに視線を合わせることなく、ホル・ホースは盤面を確認する。
 自分の番であることに気付いて、先程動かしたポーンを更に前進させた。
「お前がここに来て、もう一ヶ月以上の時間が過ぎた」
 ジョゼフの手がナイトの駒の頭に触れて、止まった。
「ふむ。確かに、最初はそれなりに期待をしておったし、余の想像を超えて中々面白く動いてもくれたようだ」
 しかし、と続けて、ナイトから手を離したジョゼフが立ち上がる。
 窓辺に寄って、閉められたカーテンに手にかけると、窓の向こうに強く振り続ける雨と空を潰す黒い雨雲の姿が映った。
 今日はもう、一日中が雨だろう。エルザは布を被らなくて済むと喜ぶかもしれない。

 呑気にそんなことを思うホル・ホースに、ジョゼフが振り返って小さく笑った。
「実はな。つい先日、長年待ち望んできた物の行方が分かって、そちらが忙しくなりそうなのだ。つまり、退屈しのぎに雇ったお前は、もう用無しということになる」
 周囲を囲むメイジたちの杖が掲げられ、ホル・ホースの頬が引き攣った。
 魔法の詠唱を行っている声が耳に届いて、汗が全身にびっしりと浮かび上がる。
 なるほど、暗殺防止と言っておいて、実は処刑の準備だったということか。
 耳を吹き飛ばされたことを、まだ根に持っているのかもしれない。
 無理に笑みを浮かべて、ホル・ホースの右手がゆっくりと持ち上がる。今ならまだ衛士たちを殲滅することも可能だ。やるなら、詠唱が終わっていない今しかない。
 そんなホル・ホースの心理を読み取ったかのように、ジョゼフが首を振った。
「しかし、だ。このまま殺すのもつまらぬ。だから、チャンスをやろうと思うのだ」
 大げさに腕を広げたジョゼフが、指を鳴らした。
 気を逸らされたホル・ホースの後方で部屋の扉が開き、何処かの民族衣装のような服装を身に纏った痩せた男が現れる。
 ホル・ホースの目が大きく開かれた。
 つばの広い羽のついた異国の帽子を脱いだ下から、癖のない長い金髪とそれを掻き分けるように伸びた耳が現れる。
 その男は、エルフだった。
「て、テメエ、耳長のビダーシャルじゃねえか!」
 かつてエルフの町で自分を拘束した男を前にして、ホル・ホースが声を上げた。
 杖をホル・ホースに向けていた衛士達が、慌ててビダーシャルに体を向ける。エルフの存在までは、この衛士たちも聞いていなかったようだ。
 ホル・ホースの物言いに少し眉根を寄せて、透き通るような青い瞳を向ける。
「その呼び方は止めろと、何度も言ったはずだ」
 ビダーシャルは衛士達を無視して、扉の横に置かれていた椅子に腰をかけ、露骨に嫌そうな表情を見せるホル・ホースを見て、小さく溜息を吐いた。
 そんな二人にジョゼフが笑い声を上げる。
「はっはは、知り合いか。ふむ、なるほど。以前より不思議に思っていたが、衣服も異質なら性格や価値観まで異質であるのは、ロバ・アル・カリイエの出身であったからというわけだな」

 納得したように首を縦に振ったジョゼフは、チェスのテーブルに戻ってホル・ホースの正面に座った。
 ロバ・アル・カリイエとはハルケギニアの東に横たわる砂漠の更に東にあるという土地の名称だ。
 エルフと年中戦争をしていて、エルフのことを一番良く知っている連中とも言われている。もちろん、ホル・ホースの故郷とはまったく関係が無い。
 勝手な思い込みだが、わざわざ直す必要も無いだろうと、ホル・ホースは口を閉じる。
 中途半端に進められていたチェスの駒を元に戻し、盤面に綺麗に駒が出揃った。
 コツ、と音を立ててクイーンが倒れる。
「まあ、出身地などどうでもよい。本題に入ろう。チャンスというのは他でもない。余の弟、シャルルの忘れ形見であるシャルロットとその母の暗殺だ」
 その言葉にホル・ホースが反応するよりも早く、後方でビダーシャルを警戒していた衛士たちに緊張が走る。
 ホル・ホースが手を振ってヒヒと笑った。少しだけ、声が震える。
「おいおいおいおい、冗談はよせよ。シャルロットはテメエの姪御だぜ?それに、その母親はヤバイ薬で頭がおかしくなってるそうじゃねえか。なにも、殺す事はねえだろ」
 悪い冗談だ。そう、冗談であって欲しい。女子供を手にかける趣味は持ち合わせていないのだから。
 そんな期待を裏切って、ジョゼフが真顔で答えた。
「冗談などではない。余は本気だ」
 ホル・ホース側に並ぶチェスの駒を一つ一つ盤面から取り除き、クイーンとナイトだけ残すと、その周囲に自分の駒を並べる。
 ナイトがシャルロット、クイーンは母親を表しているつもりらしい。
 ジョゼフの兵に包囲された親子の姿が浮かび上がった。
 しかし、チェスのナイトは、一つの陣営に二つある。もう片方が意味するものがなんなのかわからず、ホル・ホースは眉根を寄せた。
「とは言え、殺すという表現には少々語弊があるな」
 手を止めて、ジョゼフが視線をビダーシャルに向けた。
 小さく頷いたビダーシャルは、懐に手を入れて二つの小瓶を取り出す。
 ゆっくりと椅子から立ち上がり、音もなく歩み寄ってホル・ホースの隣に立つと、小瓶をそっとテーブルに置いた。


「約束されていたものだ。一つは毒、一つはその解毒薬だ」
 シンプルなガラスの小瓶に入れられた不思議な色の液体。それが意味するものを悟って、ホル・ホースはビダーシャルを横目で睨み付けた。
「なるほどな。確かに暗殺じゃあねえ。だが、死んだも同じなんじゃねえのか」
 いや、死んだほうがマシだろう。
 この液体がシャルロットの母が飲んだ毒と同じものだと、直感が告げていた。
 心を狂わせる薬。これを一口飲めば、廃人となって生き続けなければならなくなる。
 シャルロットの母が生き地獄を味わっているのは、ビダーシャルが一枚噛んでいることを知って、ホル・ホースは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。
「そうかも知れぬ」
 小さく頷いて、チェスの盤面に視線を戻す。
「だが、もう十分であろう。最愛の弟であるシャルルの妻が、何時までも1人狂気に耽るのを見るのは忍びない。そろそろ、シャルロットも楽にさせてやろうと思うのだ」
 当たり前のように言い切るジョゼフに、ホル・ホースは目を細めた。
「ホル・ホース。お前に頼みたいことは、正確に言うなら、シャルルの妻をシャルロットの目の前で殺すことと、その手でシャルロットに直接毒を飲ませることなのだ」
 今度の生き地獄の生け贄はシャルロットらしい。幼い少女が両親を失って復讐のために生き続けてきたことも地獄かもしれないが、今度は救いなど存在しない。
 シャルロットが倒れれば、ガリアに潜在するシャルル派と呼ばれる、ジョゼフ排斥を画策する勢力は消える事になる。
 それはつまり、心を狂わせたシャルロットを救う人間がいなくなることを意味していた。
 シャルロットの母のように、無心で尽力してくれる存在は期待できない。
 コツ、とジョゼフの手が黒のナイトを掴んだ。そして、もう一つの黒のナイトを打ち転がす。倒れたナイトが、そのままテーブルの下へと落ちていった。
「お前とシャルロットが余の暗殺を計画していたことは知っている。それが、もうすぐ実行に移されることもな。しかし、あの塞ぎこんだ娘が、奇跡的に協力関係を築くことの出来た相手に土壇場で裏切られたなら、どう思うであろうか。余はそれが知りたいのだ」
 二つのナイトの片方はホル・ホースを意味していたようだ。
 これは、裏切りを暗示なのだろう。ジョセフにとって、ホル・ホースとシャルロットの関係は、こんな卓上で弄ばれる程度のものでしかないらしい。

 苛立ちを強めるホル・ホースを見て、ジョゼフは高く笑い声を上げた。
「お前の雇い主は余だ。まさか断るとは言うまい。だが、断っても構わぬぞ。その時はここに並ぶ騎士達がお前を串刺しにするがな」
 ホル・ホースの首筋に、衛士たちの杖が当てられた。
 魔力で淡く光る杖の先端で、ホル・ホースの首筋に小さな傷跡が生まれる。断れば、一息で殺されるだろう。
 魔法の詠唱を終えたメイジが相手では、今のホル・ホースに生き残る術は無いだろう。
 こんなことなら、先程動こうとしたときにさっさと殺してしまえばよかったと、つくづく思う。
 しかし、もう選択の余地は残されていない。
 断れば、死ぬだけだ。
 心の中でシャルロットに詫びて、ホル・ホースは帽子を深く被りつつ首を縦に振った。
「よかろう。では、お前に一任するとしよう」
 ジョゼフの言葉に、ホル・ホースは小さく舌打ちしてテーブルの上に置かれた小瓶を手に取った。
 ポケットにしまって部屋を出ようと立ち上がるホル・ホースを、ジョゼフが止める。
「待て。解毒薬のほうは置いていけ」
 今度は強く舌打ちする。どさくさ紛れに解毒剤も手に入れてやろうと思ったが、そう簡単にはいかないらしい。
 ポケットに入れかけていた小瓶をテーブルに戻して、指を彷徨わせる。
「……どっちが解毒薬なんだ?」
 小瓶の外観には殆ど違いは無い。僅かに、中に入った液体の色が違うくらいだ。始めてこれを見るホル・ホースに、判別がつくはずが無い。
 ビダーシャルが溜息をついて、ホル・ホースの体に近いほうを手に取って告げた。
「こちらが解毒薬だ」
 そう言って、小瓶をジョゼフに差し出す。
 ジョゼフが解毒薬を受け取って懐にしまったのを確認して、ホル・ホースは残った瓶を掴み取り、乱暴にポケットに突っ込んだ。
「じゃあ、行って来るぜ」
 一分一秒でも長居したくないという気持ちがホル・ホースの足を早くさせる。


 油断なく杖を構える衛士たちを掻き分けて、扉の取っ手に手をかけると、そこで一度だけ振り返って、ジョゼフを睨み付けた。
「テメエ、まともな死に方はできねえぜ」
 精一杯の悪あがきだ。この程度の悪態では、ジョゼフはなんとも思わないだろう。
 それだけを言い残して、ホル・ホースは部屋を出て行く。
 扉の閉まる音と遠ざかる足音。
 少しの間を置いて、ジョゼフが腹を抱えて笑い始めた。
「ああ、ああ、そうであろうとも。余が死ぬときには地獄のような苦しみが共にあることは、シャルルをこの手にかけた時に既に決まっているのだからな」
 無邪気に笑う王の姿を呆然と見つめる東花壇騎士の面々を気にする様子もなく、ジョゼフは一頻り笑った後、涼しい顔で佇んでいたビダーシャルに視線を投げかけた。
「手筈通りに行え」
「承知した」
 短い命令に更に短い返事をして、ビダーシャルは羽帽子を頭に被った。
 チェスボードの上に転がるナイトとクイーン、そしてキングの周囲を囲う無数の駒。それが、このガリアの姿を如実に現しているかのように、ビダーシャルには見えた。

 雨は降り続けている。
 部屋の中の湿気を不快に思ったエルザが眠りから目を覚ましたとき、部屋の中は暗闇と静寂に包まれていた。
 体を覆っていた毛布の温もりにもう一度包まれたい気分だったが、何故か躊躇われる。
 テーブルに放置された地下水が声を発して挨拶をしたことにも気付かずに、エルザはそのまま窓の外へ視線を向けた。
 夜ではないかと思えるほど、厚い雨雲が視界一杯に広がっている。風は強く、雨は上がりそうに無い。
 太陽に縁の無い体だが、それでも、この闇を見ていると憂鬱な気分になった。
「お兄ちゃん、どこ行ったのかな……?」
 夢の中でホル・ホースに抱き上げられた感覚がはっきりと思い出せるのに、気分は盛り上がらない。
 太陽が見えない日は何時だって最高の気分だったはずなのに、今だけは最悪の気分だ。


 ベッドの端に追いやられていた大きな布を手繰り寄せて、体を覆う。
 何か嫌なことが近づいているという漠然とした感覚は、この部屋を覆う黒い闇のようにはっきりとしているのに、形が無い。
 なのに、それが足音を立てて自分に近づいている気がして、あの幸せな夢の中に戻りたいと強く思った。
 部屋の扉が乱暴に開かれた音に、怯えるように身体がビクリと震える。
「エルザ。支度をしろ」
 部屋に入ってきたホル・ホースが短く告げて、部屋の中に置いた私物を片付け始めた。
 ハルケギニアにやってきてからずっと使っている旅行鞄を開いて、衣服や小物を詰め込み、テーブルの上に置かれた地下水やスキルニルも無造作に放り込んでいく。
 ホル・ホースの表情が険しくなっていることに気付いて、エルザは自分の予感が的中している可能性を感じて不安を募らせた。
 いつも飄々としているホル・ホースに余裕が感じられない。
 重苦しい雰囲気に影響を受けて、ただでさえ憂鬱になっていたエルザは、更に気分を落ち込ませていく。
 少しでも場を和まそうと、口を開いたものの、それは短い言葉でしかなかった。
「お仕事?」
「そうだ。それと、多分、ここには二度と戻らねえ」
 エルザの言葉に平坦に返したホル・ホースは、テーブルに置かれた大量の金貨が入れられた鞄に手をかけて、逡巡した。
 これは、ジョゼフ暗殺の依頼料だ。前金の一部とは言え、支払われている以上はシャルロットが雇い主である証である。
 ホル・ホースには仕事に対するプライドはない。雇い主に義理立てもしないし、金さえ手に入るのなら何がどうなろうと関係ないとすら思っている。
 しかし、気に入ったヤツを助けたいと思うくらいの人情は残っていた。気に入らないヤツを撃ち殺してやりたいと思うくらいの感情もある。
 シャルロットは殺したくない。ジョゼフは打ち殺してやりたい。そうは思っても、現実は非常だ。まったく逆のことをさせられている。
 ちくしょう。と悪態をついて、金貨の入った鞄を旅行鞄の隣に並べた。
 その様子を少しだけ複雑な表情で見つめたエルザが、片づけを始める。
 エルザの私物は少なく、被っている布と趣味で購入したヌイグルミ、それと下着の替えが数点あるくらいだ。


 それらを集めて、まだ隙間のあるホル・ホースの旅行鞄に詰め込んでいく。圧迫された地下水が悲鳴を上げているが、気にしないことにした。
 ホル・ホースとエルザの二人の私物を全て詰め込んで、初めて一杯になった鞄の蓋を閉じると、もう旅支度は完了してしまった。
 あっという間に、部屋の中が寂しくなったように思える。
「行くぜ」
 そう言って、旅行鞄と金貨の入った鞄の二つを持ったホル・ホースが部屋を出て行く。
 エルザもそれに倣って扉の取っ手に手をかけた。
 もう、帰れない。
 両親を失ってから、初めて安らぎを感じられた家。それが失われてしまうことが、例えようもないほど寂しさを感じさせる。
 楽しい夢は終わりを迎えたのだ。幸せに笑うことは、もう出来ないのかもしれない。
 一度だけ振り向いたエルザは、暖かかった部屋に向けて小さく手を振った。
 別れの挨拶が静かな部屋に響いた。
「ばいばい」
 扉が閉まった後、部屋は雨の音だけが支配するようになった。

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