ゼロの奇妙な使い魔 まとめ

忘れえぬ未来への遺産-3

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だれでも歓迎! 編集

「ちぃーッス。久しぶりだなぁ姐さん、御招待に預かってやって来やしたぜ」
 その男と再会の約束を交わしてから三日後。
 左の手首を失い、唯一無事で残っている右手で小さな鞄を持って、我がヴァリエール公爵家の
邸宅に姿を現したジョセフ・ジョースターは、屋敷の入口で待っていた私の姿を確認すると共に
開口一番に軽い調子でそう挨拶して来た。
「ごきげんよう。本日は我がヴァリエール公爵家へようこそ、ジョセフ・ジョースター先生」
 私は必要以上にたっぷりと優雅な仕草を作りつつ、来訪者である医師に向けて歓迎の言葉を
述べてやる。
 本来ならば、貴族であるこの私に対して、単なる平民風情が今みたいな口を聞こうものならば、
それだけで何かしらの罰が下されて然るべきなのだが、ごく自然に、全く物怖じした様子も無く
振舞うジョセフの姿を見ていると、最早そんなことでいちいち神経を磨り減らす方が馬鹿みたいに
思えてくるから不思議なものだ。
 そもそも、初めてこの男と出会った時に、既に散々な目に遭わされたおかげで、今更口の利き方が
なっていない程度では怒る気にもなれない。

 そう、思い返せば実に散々な目に遭わされたものだ。
 三日前の初対面の際に、私は不覚にもこの男に対してとんでもないことを許してしまった。
 だからこそ彼のにやけた顔を見ているだけで、何とも腹立たしい気分になって来るのも
また確かだった。
 そのおかげで、こちらはどんな顔をして彼に会えば良いのか、まともに相手の顔を見ることが
出来るのかどうか、彼がこの屋敷にやって来るまでの間ずっと悩み続けたと言うのに。


 恐らく私は生涯、その記憶を忘れることは無いであろう。
 ヴァリエール公爵家の娘であるこの私が、このような平民の男に唇を奪われてしまった、あの瞬間を。
 今でも思い出す度に、あの時の感覚が蘇って来るかのようだ。
 それは私にとって、男性に激しく口付けを求められた、数少ない経験のひとつだったのだ――

「どーした?ボォーっとしちまって」
「ぁわぅッ!?」
 いつの間にやら至近距離まで近付いて来ていたジョセフの顔が目の前に広がり、私は思わず
動揺の声を上げてしまう。
 確かに、こうして改めて見ると、この男が端整な顔立ちをしているのは間違い無い。
 一言で言えば美形だとさえ思う。
 だが、それをこんなに近くで見せられると、否が応でもあの時の記憶がまざまざと呼び起こされてしまう。
 私の胸は緊張で高鳴り、心拍数と共に体温が急激に上昇して行く。

 ああ、やはり恐れていた事態が起こってしまった。
 敗北感にも似た苦い感情に襲われて、私は何かが完膚無きまで打ちのめされたような気分に陥る。

 この男に唇を奪われてしまったのは、確かに私の人生において致命的な汚点の一つだ。
 だが、彼と顔を会わせる度にそんなことをいちいち思い出していたら、こちらの身が持たない。
 この三日間悩みに悩み抜いた挙句、私はようやく一つの決断を下した。

 即ち、あの忌まわしい記憶は全て無かったことにして、彼に対しても単なる一人の医者として扱い、
こちらもあくまで客として、毅然とした態度で応対してやろうということだった。
 だからこそ、先程も平民相手でありながらも、不必要なまでに礼儀正しく挨拶してやったつもりだ。
 しかしそうした私のささやかな目論見も、今まさに脆くも崩れ去ってしまった。
 おかげで余計にあの時のことを意識してしまい、私は彼の顔を直視することが出来なくなる。
 一方、当のジョセフはそんな私の胸中など全く意に介した様子も無く、うろたえる私の姿を見て首を傾げ、訝しげな表情を浮かべる。
「何だよ、もしかしてあんたまで風邪か何かにでも罹っちまったのか?
 オイオイ、そりゃいけねーぜ。
 そんなコトじゃあ、逆にあんたの方が問題の妹さんとやらに心配されちまうだろ」
「よ、余計なお世話よっ」


「……まあ、とにかく妹の為にここまで来て下さったことには感謝するわ、ジョースター先生」
「おう。あんたの妹さんが病気だっつー話は、どうもマジな話っぽいからな」
 頷いて、普段から調子の良い笑みが張り付いているその顔に、彼は少しだけ神妙な表情を作ってみせた。
「妹さんを治すのに俺の『波紋』が役に立つって言うんなら、喜んで力を貸してやるぜ。
 折角の美人のお嬢様がお屋敷の中で飼い殺し、っつーのは幾らなんでもアンマリだもんな」
「………そうね」
 そう、彼の言う通りだ。しかし飼い殺しとは上手いことを言ってくれる。
 家族としてそんな言い方をされるのは腹立たしいが、彼の言葉を否定する術を私は持たない。
 今日この男に診察して貰うべき私の妹カトレアは、生まれた頃から病弱で、満足に屋敷の外を
歩くことが出来ないくらいに体の弱い子だ。
 私達メイジが用いる魔法の技術では、あの子の体を治してやることは出来なかった。
 もう私には、カトレアを救う為には彼が持つ不思議な『力』に縋るしか無いのだ。
 このハルケギニアに存在する魔法とは全く異質な『力』――『波紋』と、彼は言ったのだろうか。
 その力で以って、本当にカトレアの体をどうにかしてやれるのかどうかは、これからわかる。
 私は期待と不安に押し潰されそうになりながらも、精一杯に毅然とした態度を取り繕って言葉を続ける。

「ともあれ、こんな所で無駄話をしていても始まらないわね。妹には自分の部屋で待ってるように
 言ってあるわ。これからあの子の部屋まで案内するから、付いて来なさい」
「オッケー。まあ、やるだけやってみるさね」
 頷いて答える彼に私はそれ以上は何も言わず、側にずっと立っていた使用人の一人に視線を送る。
 その召使いは私の意図を瞬時に読み取って、静かに屋敷の中へと通じる扉を開いた。
 私はそのままジョセフを促して、彼と共に屋敷の中へと足を踏み入れる。
 客人として呼び寄せた物の、彼に対して挨拶する必要は無いとあらかじめ釘を刺しておいた為に
その場で待機していた使用人達は、屋敷の中へと入って来た私達の姿を確認しても無言のまま。
 屋敷の主の一人である私に向けて深く頭を下げた後は、ただ胡散臭げな視線をジョセフに向けて
送るだけだ。私はそんな使用人達の態度は気にせず、ジョセフに彼の持って来た鞄を
誰かに代わりに持たせようかとも提案したのだが、彼は自分で持つと言って断って来たので
結局私達はそのまま二人で、カトレアの部屋へと向かって行く。
「ほーお。いやしかし、バカでっかいお屋敷だとは思っていたけど、中も大したモンだね。
 スピードワゴンのじいさん家よりもスゲエかもしれねーな。貴族の屋敷ってのは皆こんなモンなのかね」
 無遠慮に屋敷の中を見回しながら、感心を通り越して呆れが来たとでも言いたげにジョセフが呟く。
 一体、彼のこの余裕は何処から来ると言うのだろう。
 単なる平民風情をこうしてヴァリエール公爵家の客人として招待すること自体が
異例中の異例だと言うのに、当のジョセフは畏まった様子一つ見せずに、無駄口を叩きながらも
堂々とした態度で私の後を追って来ている。

 本当に、ここまで貴族を恐れない平民がいるとは思わなかった。
 そして、それと共に私は、そんな彼の態度に少しだけ違和感を覚える時がある。
 貴族と平民を区別する決定的な要因は、魔法の力を行使出来るか否かだ。
 このハルケギニアにおいて、平民は貴族に対して畏敬の念を抱くべしとされているのは、
貴族は自らの持ち得ない魔法の力を自在に操ることが出来る為というこの一点に尽きるだろう。
 中には魔法の力を全く制御出来ない私の末の妹ルイズみたいな例外もあるが、ともあれ平民にとって
自分達を遥かに超える魔法という超常の力の持ち主である貴族――メイジは恐怖の対象であり、
だからこそ先日このジョセフの手伝いをしていた平民の娘も、必要以上に貴族である私に対して
怯えたような態度を取っていたのだろう。
 そしてあの時に彼女が見せたような仕草こそ、正常な平民の姿であると今でも私は思う。


 あの娘に比べて、このジョセフという男の態度や物腰などはあまりにも違う。違い過ぎる。
 彼が患者の治療に用いている『波紋』とか言う能力といい、これではまるで――

「……まさか、ね」
「ン?マサクゥル?何を言い出すかと思えば、そりゃ『皆殺し』って意味じゃねーか。
 相変わらず物騒な姐さんだな、一体誰を皆殺しにするっつーんだ?あんたをフった男共か?」
「何ですってぇ……?」
 聞き逃すことの出来ない言葉を耳にして、私はピタリとその場で足を止めて彼の方へと向き直る。
 私につられて律儀にその場に立ち止まったジョセフの方を振り返り、普段から持ち歩いている
愛用の鞭をこの手に握り締める。
「誰が誰に振られたと言うの!この無礼者め、そんな口を聞くのはこの口か!この口かぁーッ!!」
 つい先日、相手方に婚約解消を言い渡された時の怒りが蘇り、それはそっくりそのまま不用意な
発言で私の心の傷に触れたジョセフへと転嫁される。そして私は自らの思いのままに、彼に向けて
容赦無く鞭の連撃を見舞ってやる。
 小気味の良い音を立てて、彼の顔面に私の鞭が直撃していく。
「HOLY SHIT!!あんた一体どっからそんなモン出したんだよ!?
 っつーか、そんなこったから男にも逃げられるんじゃねーのか?
 怒ってばっかだと老けるのも早いぜ?」
「きぃぃぃぃぃッ!うるさい!うるさい!うるさぁぁぁーーーいッ!!」
「オーノーッ!リサリサ先生だのスージーQだのジェシカだのこの姐さんだの!
 気の強い女も嫌いじゃねーが、こーゆー女ばっかだとタマにゃあ
 優しくておしとやかなお嬢様にも会いたいぜェーッ!」
 最早我慢の限界だった。私は一切の容赦を捨てて、気の済むまでただひたすらに全力で鞭を振るう。
 ジョセフがわけのわからない悲鳴を口走っている気もするが、完全に頭の血が上った私には
何も聞こえない。
 そのおかげで、先程ふと思い付いた考えも、今や私の頭の中から完全に消え去っていた。

 ――まるで、このジョセフ・ジョースターは何処か別の世界からやって来たようでは無いか。
 それはあまりにも突飛で、馬鹿馬鹿しい考えだった。
 だから私は、自分がそんな考えを思い付いたことなど、それから長い間ずっと忘れ去ってしまっていた。

「ここよ。少し待っていなさい」
 途中、意味の無い紆余曲折があった物の、ようやくカトレアの自室の前まで辿り着いた私は
全身を痣だらけにしたジョセフをその場に一旦待たせておく。
「イテテテ……なんか俺の方が医者を呼んで欲しいカンジ」
 不満有り気な呻き声を上げる彼のことは無視して、私はドアを軽く叩いて中にいるであろう妹を呼ぶ。
「カトレア、私よ。前に話した新しいお医者様をお連れしたわ。入ってもいいかしら?」
「はい、エレオノールお姉様。どうぞお入りください」
 ドアの奥から妹の声が聞こえて来る。それを聞いて、私は鍵や『ロック』の魔法が掛けられていない
ドアを無造作に開いて、待たせておいたジョセフと共に妹の部屋へと入る。
 私達の気配に反応して、カトレアがどこからか拾って来て、そのまま部屋の中で飼っている動物達が
一斉に面を上げてこちらを見つめて来る。
 普段ならばこの私に対してもあまり警戒した態度を見せない動物達だったが、やはり初対面である
ジョセフのことが気になるのか、どことなく緊張した面持ちでじっとこちらの様子を窺っている。
 そうした動物達に囲まれながら、カトレアはベッドの脇に立って礼儀正しくこちらに向けて一礼をする。
「はじめまして、ジョセフ・ジョースター先生……でしたかしら?
 カトレア・イヴェット・ラ・ボーム・ル・ブラン・ド・ラ・フォンティーヌと申します」
「おおッ。こりゃ御丁寧にどーも、ジョセフ・ジョースターっス」
 カトレアの姿を眺めながら、ジョセフはいつもの調子の良い笑みを浮かべて会釈する。
「本日はお忙しい中、わざわざお越し頂いて本当にありがとうございます」
「いやあ、病気の患者と聞けば放っちゃおけませんでね。お呼びとあらばどこまでもってヤツでさァ。
 しっかし話にゃあ聞いていたが、こりゃマジで別嬪さんだぜ!
 スタイルもグンバツ!物腰穏やか!ついでにいいトコのお嬢様と来た!
 完璧だぜ、いる所にはいるモンだ……これぞまさしく究極の生命体ってヤツだァーッ!」
「うふふ……ありがとうございます。そんなことを仰られると、何だか照れてしまいますね」

「……カトレア。立ったままでは体に障るわ、ベッドにお掛けなさい」
 二人の会話を遮って、私はカトレアにそう命令する。それは本当にこの子の体が心配だというのも
あったし、またジョセフに妹のことをあれこれと言われるのも気に食わなかった。
「エレオノール姉様」
「いいから座っていなさい。それと椅子を一つ借りるけれど、構わないわね?」
「……はい、わかりました。ジョースター先生、失礼致します」
 申し訳無さそうな表情を浮かべて、カトレアは私の言われるままに静かにベッドに腰を下ろした。
 そして私は魔法の杖を手に取って、化粧台の前に置かれていた椅子を魔法で浮かべる。
 そのままゆっくりと動かしてベッドに座るカトレアの前へと降ろす。
「ほォ……確かにこりゃ魔法だわ。今まで信じちゃいなかったが、実際この目で見ると便利なモンだな」
「お掛けになって頂いて構わないわ。ジョースター先生、妹のことをどうか宜しくお願いするわ」
「ああ、任せてくれ」
 ジョセフは頷いて、私が動かした椅子へと近付いて、それに遠慮無く腰を掛ける。
 大柄な彼の体重を受けて、カトレアの為に作られたその椅子はギシリと小さな音を立てる。
 ジョセフには少しサイズが小さそうだが、それは我慢してもらうしか無いだろう。
 そして右手に持っていた鞄を膝の上に乗せた辺りで、ふと気付いたようにジョセフは椅子に座ったまま
私の方へと顔を向けて来る。
「どうかしたの?早く診察を始めなさい」
「ああ、いや……やっぱ姐さんも同席すんのねって思ってな」
「当たり前でしょう。貴方をここまで連れて来たのはこの私よ。
 私には貴方がどういう診察をするか見届ける義務があるわ。この子の姉としても、ね」
「ウーム、そりゃそーだよなァ。だが、ちっとばかし残念だぜ……」
 当然の話ではないか。一体何を言っているのだ、この男は。
 腰を下ろす二人の側に立って、私は妹達を見下ろすような形で口を開く。
 しかしジョセフは、あからさまに残念そうに肩を落として、深く嘆息して言って来る。

「折角おしとやかで美人のお嬢様と一対一でハッピーな診察時間を過ごそーかと思ったんだが
 世の中そこまでウマい話があるわけねーのな」
「フフフフ……それじゃあもう一つ理由を教えてあげましょうか?」
 私は先程したたかに彼の体を打ち付けたばかりの鞭を再び握り締めて、虚空に向けて一閃。
 まだまだ血が足りない、とばかりに私の相棒は吼える。
 次またこの一撃を振るえば、再びいい音を立ててこの男の体に食い込むことだろう。
「それは貴方が、私の目の前でそーゆーことを臆面も無く言える男だからよ!」
「オーノー!ギブギブ、そのムチは勘弁!これ以上そいつを食らったら、俺の方が病院送りだぜ!」
「いっそのこと、その方が良いのかもしれないわね!妹におかしなことをしたら只じゃあおかないわ!」
 妹を好色な目で見られるのは、自分自身に対する侮辱よりも腹立たしい。 
 片手で必死に防御の姿勢を取ろうとするジョセフに、私は再び手にした鞭を突き付ける。
「……くすっ。お二人とも、仲がお宜しいんですのね」
 穏やかに微笑みながら口を挟んで来たカトレアの言葉に、思わず私達はお互いの動きを止める。
 この子が今言ったことの内容を理解するまで、暫しの時間を要する。
 そして、ようやくその意味を把握した私は、それを大慌てで否定する。
「なッ…何を馬鹿なこと言っているの!私がこんな平民如きと仲が良いですってぇ!?
 そ、そ、そんなことある訳が……」
「ウーム。確かにこの姐さんは美人だとは思うが、お近づきになりたいかっつーとまた別だよなァ。
 ペチャパイなのはともかくとしても、所構わずスゲーキレまくるし、付き合ってて身が持たねーっつーか、
 寧ろぼいんぼいんで且つ優しそーな妹さんの方がタイプっつーか」
「貴方と言う男はぁぁぁッ!何処まで減らず口を叩けば気が済むのかしらぁッ!?」
「ほら、やっぱり仲がいい。姉様がこんなに気さくに殿方とお話しされるなんて、とても珍しいことですもの」
 カトレアの言葉に再び毒気を抜かれて、私はつい鞭を握り締める手の力を緩めてしまう。
 長年、家族としてこの子と付き合ってはいるが、妹のこういう所には敵わないといつも思う。

 私は深く嘆息した後、ジョセフの口走った暴言は一旦忘れてやることに決めた。
 だが、それでもやはり私とこの男の仲が良いなどと思われるのは心外だ。
 この件についてだけは、後できちんとカトレアにも良く言い含めておかねばならないだろう。
「……これ以上鞭で打たれたくなかったら、早く妹のことを診てやって頂戴」
 その一言が、私に出来る最大限の譲歩だった。
 ジョセフも今度こそ黙って頷いて、椅子に座りながら改めてカトレアの方へと向き直る。
 私もその場に立ったまま、鞭や魔法の杖をしまいつつ二人の様子を見守ることにする。
 そしてようやく目の前のジョセフは真剣な表情を浮かべて、カトレアに対して色々な質問を始めた。

 カトレアの体の弱さが生まれ付きの物であることや、この子の体力の限界点、古くからの
ヴァリエール公爵家の係り付けの先生に処方して頂いている薬の種類など、ジョセフの問い掛けは
至って真面目な診察に関わる質問であった。
 彼の質問にしっかりした口調で答えて行くカトレアと、途中途中で頷きながらも次々に質問を続ける
ジョセフの様子を、私は口を挟まずに黙って眺めていた。
 やがて最後の質問を終えた後、ジョセフは考え込む仕草を浮かべながら、ふうと息を吐いた。
「フム……やっぱり妹さんの体の弱さは体質的な物らしいな。そして医者の先生から貰ってる薬も
 一時的な発作を止める為の対症療法的な代物に過ぎねぇってワケか。
 なるほど、こいつは厄介な話だぜ」
「ジョースター先生。この子の体……治せそうかしら?」
 少しだけ身を突き出して、私は難しい表情を浮かべるジョセフに向けて尋ねる。
 気の早い質問であることはわかっている。それでも私は、早く彼の口から答えを聞きたかった。

 無論、不安はある。
 彼の持つ『波紋』という能力を以ってしても妹を救うことが出来なければ、今度こそ打つ手は無いのだ。
 このまま一生、この子を屋敷に閉じ込めておかなければならないなど、あまりにも残酷過ぎる。
 そんな仕打ちを家族として、カトレアの姉として、許すことなど出来よう筈も無い。
 祈りにも似た想いで、私はジョセフの回答を待つ。
 まるで一秒にも満たない時間が、果てしなく長いもののように感じる。
 やがてジョセフは、私の抱いている不安感を知って知らずか、真剣な表情を崩さぬまま口を開いた。

「そうだな……結論から先に言わせて貰えりゃあ、不可能じゃねえとは思うぜ。
 だが、ちっとばかし手間が掛かる上に、時間も要るだろうな。
 悪ぃとは思うんだが、確実に治せるかどうかはちょいとばかり断言出来ねーな」
 珍しく歯切れの悪い口調で、ジョセフはそう答えた。
「………そう」
 彼の語った内容は、決して希望に溢れた内容では無かったが、私にとってはそれでも充分だった。
 今まではどんな方法を試みても駄目だったのだ。少しでも可能性があるならば、それに賭けてみたい。
 本当にカトレアが元気になるならば、どんな方法だっていい。
 カトレアに、この子の思うがままに外の世界を自由に歩けるようにしてやりたい。
 それは私だけでは無い、このヴァリエールの家で暮らす者、全員の望みでもあるのだ。
「それでも、方法が無いわけでは無いのね?」
「ああ。正直、一度や二度くらい『波紋』を流した程度じゃあ、生まれ付きの体質を変えるのは難しいぜ。
 だが何度も定期的に『波紋』を流し続けた上で、更にこの妹さんの体に合った薬とかを使っていけば
 何とかなるかもしれねぇ。そうだな、ちょっと試してみるか」
 そう言って、ジョセフは膝に乗せた鞄を片手で器用に開いて、中から小さな小瓶を取り出した。

「こいつは安物の強壮剤で、効果もあまり強くはねーんだが…
 俺の『波紋』を使えばその効果を高めることも出来る。
 正確に言やぁ、飲んだ人間の体が最大限にその薬の効果を吸収出来るように
 『波紋』で調整するってカンジだな。
 それで普段も患者に飲ませてる薬代を安く上げてるってワケなんだが……
 まあ論より証拠とも申しますことですし、妹さんにはちびっとだけこいつを飲んで頂きますかね」
 何か薬を注ぐ為のグラスはあるかと言われて、私はこの部屋に常備されている薬箱の側から、
まさにカトレアが薬を飲む際に使われているグラスを一つ取って来る。
 そのままジョセフに渡そうと思ったが、彼が左腕を失っていることを思い出して、逆に私の方が
彼から薬瓶を受け取って、中の薬をグラスに注ぐことにする。
「マジでちびっとでいいんだぜ。あまり沢山飲ませて妹さんの体に合わなかったりしたらマズいしな」
 彼の言う通りに行動するのは少し癪だったが、これもカトレアの為だと思えば苦にはならない。
 それに彼の言葉も尤もだった。
 こんなことでカトレアの体調を崩してしまっては、それこそ本末転倒と言うものだ。
「はい、カトレア」
「ありがとうございます、姉様」
 私からグラスを受け取ったカトレアは、そのままゆっくりとグラスを口元へと近付けて行く。
「んっ」
 そのまま小さな声を上げて中の薬を飲み干すのを見届けた後、私はカトレアに手を差し出して
空になったグラスを受け取る。
「これでよし。それじゃあ、いよいよ俺の『波紋』をお見せする時が来ましたかねェ」
 右手の指をポキポキと慣らしつつ、ジョセフはカトレアの顔を見ながら不敵な笑みを浮かべる。

「んじゃ妹さん……あーっと、確かカトレアさんだったな。大変失礼ながら、御手をば拝借」
「あ、はい」
 差し出されたカトレアの手を、ジョセフが岩をも連想するような大きな右手で握り締める。
 目の前で妹の手を若い男が掴んでいるという光景に、私は眉根を顰める。
 だがこれも全てはカトレアの治療の為だ。
 彼の能力は直接相手に触れなければ効果が無いようなので、この程度のことは致し方無い。
 私が多少我慢の気持ちを抑えながらも黙ってその様子を見つめていると、ジョセフは軽く
カトレアの手を揉みしだきながら、感心したように声を上げる。
「ウーム、真っ白で柔らけーぜ。やっぱり女の子の手ってのは野郎のモンとは全然違うよなァ。
 あまりおかしな趣味にイッちまうのもアレだが、それでも触っててキモチイイのは間違いねーぜ」
「……ジョースター先生?貴方は何をしてらっしゃるのかしら?」
「うげッ」
 静かな怒りを孕ませながら、私はにやけた表情を浮かべて妹の手を取るジョセフのことを睨み付ける。
「おいおい、ちょっと待ってくれよ姐さん、そこまで怒るこたぁねーじゃねぇか。
 これはホレ、アレだぜ。ちょっとした患者とのコミュニケーションってヤツぅ?」
「うるさいわね!やるならさっさと始めなさい!このエロ医者!バカ医者!」
「うへーい。ったく、妹さんはこんなに優しいのに、どーして姉貴はこうもおっかねーのかね……」
 私の怒鳴り声に首を竦めながら、ジョセフは何やら不満そうにぶつぶつと言っている。
 少しでもこの男を信じた私が馬鹿だった。やはりこんな平民如きに甘い顔をしてはならなかったのだ。
 それと共に、やはり自分もこの場に同席していて良かったと心の底から思う。
 カトレアを守るのはこの私だ。この男を含めて、今後は誰であろうと妹には指一本触れさせるものか。
「ふふっ」
 そして当のカトレアは何が嬉しいのか、普段通りの穏やかな笑みに、少しだけ意地の悪さを
含ませながら、私とジョセフのやり取りをじっと見つめている。
 きっと今のこの子の頭の中には、私にとって何か非常に不愉快な考えが渦巻いているに違いない。
 先程の件も含めて、それが大変な誤解であることを後できちんと説明しなくてはならないだろう。

「……んでは、今度こそマジでやらせて頂きますか」
 そう言って、やおら真剣な表情を浮かべたジョセフは、そのまま深く息を吸い込み始める。
 数日前、初めて彼と出会った時にも見ることになった独特のリズムによる呼吸法だ。

 私がジョセフ・ジョースターをこの場に呼び寄せたもう一つの理由。
 それは、彼が操る『波紋』と言う不思議な力の正体を見極め、研究の一環とすることだった。
 コォォォォ…と不思議な音を立てながら息を吸い込み続ける彼の姿を、私は瞬きする暇すらも
惜しんでじっと凝視する。

「波紋疾走(オーバードライブ)!!」
 やがて限界まで息を吸い込んだ彼が鋭く一喝すると共に、その右手から眩い光が放たれた。
 まるで太陽の光を思わせるようなその光は、彼の右手が握り締めているカトレアの手を伝わって
そのまま妹の体全体へと伸びて行く。
「っ………あっ!?」 
 光が全身を駆け巡る感覚に違和感を感じているのか、カトレアが小さな悲鳴のような声を出す。
 そしてそのまま、カトレアの体に広がる光は次第に見えなくなって行き、そのまま完全に消滅する。
「……ふうッ。どうだい妹さん、体の具合は?」
 そう尋ねるジョセフの前で、カトレアは驚いたように目を瞬きさせて、自分の体を見つめている。

「不思議です……苦しくありません。それどころか、急に体が楽になったような気がします」
「そいつが『波紋』の効果さ。『波紋』で作り出した生命エネルギーを、あんたの体に送り込んだんだ。
 そんでもって、さっきちびっとだけ飲んでもらった薬の効果も、今は最大限に効いてるってワケだ。
 まあ、妹さんの場合は元々の体力が弱いから、あまり長い時間は持たないだろうが……
 それでも『波紋』の効果が切れるまでは、ちょっとはマシになる筈だぜ」
「すごい。何だか自分の体では無いみたいです」
 いつも落ち着いているこの子にしては珍しく、どこか興奮した様子でカトレアはその場で立ち上がる。
 確かに、普段だったらただ歩いているだけでも、何時倒れ込むかわかららないくらいに頼りない
足取りになってしまう筈なのだが、今のカトレアからはそうした危なっかしさは殆ど感じられない。
 こんなに元気そうな妹の姿を見るのは初めてだった。
 それだけでも、このジョセフ・ジョースターをここまで呼び寄せた甲斐があったとさえ思える。
 『波紋』とは生命エネルギーそのものを生み出す能力である。
 ジョセフが今言った言葉は、どうやら真実であるらしい。
「無理をしてはいけないわ、カトレア。ジョースター先生も仰っていたけれど、それはあくまで
 一時的なものでしか無いのよ。ここではしゃぎ過ぎて後で体を悪くしてしまっては、元も子も無いでしょう?」
「あ……は、はい。ごめんなさい、エレオノール姉様」
 そう私が嗜めると、恥ずかしそうな表情を浮かべてカトレアは再びベッドに腰を下ろした。
 素直に言うことを聞いてはくれたものの、妹は肩の力を落として明らかに残念そうにしている。
 折角、元気になったと思ったのに。そんなカトレアの無念が今にも聞こえて来るかのようだ。
 そしてそれは、この子を今まで見守って来た私自身の想いでもある。

 この男が持つ『波紋』の能力を詳しく知りたい。
 そして、その力をもっと妹の為に使ってやって欲しい。
 病弱な妹の身を案じる姉としての私、トリステイン王国が誇るアカデミーに所属する研究員としての私。
 その二つの立場から、私はどうしてもこのジョセフ・ジョースターという男を繋ぎ止めておきたくて
たまらなかった。それは結局、どんなに綺麗事を並べたとしても、結局はカトレアの体調を口実に
己自身の探究心を満たしたいだけだという、薄汚れた私のエゴに過ぎないのかもしれない。
 だけど、それでも目の前で無念の表情を浮かべるカトレアの姿を見せられてしまえば、
私はその言葉を口にせずにはいられなかったのだ。

「……ジョースター先生、少し宜しいかしら?」
「ン?なんだい姐さん、まだ何かあるのかよ」
「ええ。ちょっと、二人きりでお話ししたいことがあるの」
「話ィ?まあそりゃあ構わねーが、突然改まったりして一体どーゆー風の吹き回しだ?
 あ、もしかして俺への愛の告白ってヤツぅ?ナハハ、そりゃ参ったネ。モテる男は辛いぜ!」
「とにかく。大事な話なのよ」
「……どうやらマジな話らしいな。いいだろう。その話、聞いてやろうじゃねーか」
 自分の冗談にも全く動じない私の態度にただならぬ物を感じたらしく、真剣な表情でジョセフが頷く。
 私はそのまま彼に対して先に部屋の外に出るよう促した後、カトレアの方を振り向いて、言う。
「貴女はここで待っていなさい。あまり時間は掛からないと思うから。いいわね?」
「はい、わかりました。……うふふ」
 私の言葉に頷きながらも、カトレアは私の姿を見て何故か嬉しそうな笑顔を浮かべていた。

「……何よ、その笑い方は」
「いいえ、何でもありません。私はお邪魔にならないよう、ここでお待ちしていますから」
「カトレア」
「何でしょうか、姉様」
「言っておくけれど、貴女の今考えていることは大きな誤解よ。勘違いしないで頂戴」
「あら……エレオノール姉様には、何か私が誤解するようなことがおありなのでしょうか?」
「……とにかく、少しでも変わったことがあったら、すぐに私達を呼ぶのよ」
「はぁい」
 一応、釘を刺してはみたつもりだったが、やはり無駄だったようだ。
 私の言葉にも全く動じた様子を見せずに、カトレアはまるで悪戯っ子のような表情で微笑む。
 まったく、気性の激しい者ばかりのヴァリエールの家の中にあって、一体この子の性格は
誰に似たと言うのだろう。
 あの泣き虫で甘えん坊な末の妹のルイズですら、中々に意地っ張りで気の強い所もあったと言うのに。
 そういえばルイズがまだ実家にいた頃は、私や両親が厳しく接していた反動か、家族の中で一人だけ
あの子に優しかったカトレアに随分と懐いていたものだ。このちびルイズへの態度一つ取ってみても、
少なくとも性格面においては、私とカトレアは呆れるくらいに似ていない気がする。

 別に私とて、ルイズが可愛くない訳では断じて無い。
 だが、あの子もまたヴァリエール公爵家の一員として生まれた以上、学ばねばならぬこと、
果たさねばならぬことが、それこそ山のようにある。
 例え満足に魔法を制御出来なくとも、いいえ、上手く魔法を使うことが出来ないからこそ、
それらは尚更ルイズの人生にとって絶対に必要となるものなのだ。
 私はそう信じてあの子に様々なことを教えてきたつもりだし、それが間違っていたとも思わない。
 その為にあの子には辛く当たったことも随分あったし、ルイズにとってはそれが耐えられないと
感じる時も一度や二度では無かっただろう。
 ルイズが一人前の貴族として、自分自身に誇りを持てる子になってくれればいい。
 その為ならば、私は少しぐらいあの子に恨まれたって構わない。
 カトレアとは違う形ではあるが、私もルイズに対して自分の愛情を精一杯に注いで来たつもりだ。
 あの子もまた、私の可愛い妹なのだから。

 体の弱いカトレアと、満足に魔法の使えないルイズ。この子達を守るのは姉である私の役目だ。
 妹達を脅かす存在があるならば、私はそれに全力で立ち向かってやる。
 そして今、ようやくカトレアの体を蝕む病魔を取り除く為の手掛かりを見つけることが出来た。
 その鍵を握っているのは、『波紋』と言う不思議な力を持つこの男、ジョセフ・ジョースターなのだ。 

「それで?話っつーのは一体何なんだ?」
 彼に遅れてカトレアの部屋の前の廊下に出た私に向けて、ジョセフはそう尋ねて来る。
 こうして改めて見ると、如何に彼が長身なのかが良くわかる。
 私は彼を下から見上げるような形で、はっきりと彼の目を見据えながら告げる。
「単刀直入に言うわ。貴方に、カトレア係り付けのお医者様になって頂きたいの」
「………なぬぅ?」
 思わず目を丸くしてこちらを見やるジョセフに構わず、私は訥々と話を続ける。
「勿論、相応の礼金はお支払いするわ。必要な薬などがあればこちらでも用意しましょう。それから…」
「オ、オイオイ!ちょっと待ってくれよ!」
 慌てた様子で、私が話している途中にも関わらずジョセフが口を挟んで来た。
「大事な話があるからって聞いてみりゃ、こりゃまた随分と大袈裟な話になって来たな。
 一体どーゆーつもりなのか、ハッキリ聞かせて貰いたいモンだぜ」
 確かに、彼にとっては唐突な話になってしまったかもしれない。
 こちらに対して胡乱な視線を送って来るジョセフに、私はふうと一旦嘆息してから答える。
「言葉通りの意味よ。貴方の『波紋』で、カトレアを助けてあげて欲しい。ただそれだけよ」
「………フム?」
 私のその言葉に、ジョセフは考え込むように声を漏らした。

 嘘では無い。カトレアの体を健康にしてやりたいというのは、私の心からの望みだ。
 だが、それが全ての理由と言う訳でも無かった。
 一人のメイジとして間近で『波紋』を観察し、それを研究したいという欲求もやはり捨て切れない。
 カトレアの体に関わる問題にも関わらず、自分がそんな背反する気持ちを抱いている事実に、
時折私は自分自身を許せなくなる時がある。偉そうな御題目を掲げながらも、結局は自分の
欲望の為に妹やこの男を利用しようとしているだけでは無いのかと、そう思えてしまうからだ。
 胸の底からじりじりと湧き上がる自己嫌悪に、私は必死になって耐えながらジョセフの回答を待つ。

「ま、いいだろ」

 そして、答えるジョセフの言葉は、あまりにもあっさりした物だった。
「わかったよ姐さん。あんたの言う通りにしてやってもいいぜ」
 ジョセフ・ジョースターはいとも簡単に、首を縦に振って来た。
 それは彼に断られた時のことを考え、身構えていた私の方が拍子抜けしてしまう程だった。
 一瞬、彼の言った言葉の内容を理解出来ず、私は思わず呆けたような表情を浮かべてしまう。
「……姐さん?」
「え、あ……ああ、そ、それでは引き受けて下さるのね、ジョースター先生」
「だからそうだって言ってるだろ。まあ多少面倒な条件は付けさせて貰うだろーけどな。
 しっかし、いきなりボケーッとしちまって一体どうしたんだ?
 やっぱ風邪でもひいてんのか?それとも俺があまりにイイ男過ぎて見惚れちまったのかい?」
「そ、そんな訳無いでしょうっ」
 私は寧ろ胸に秘めたままの手前勝手な葛藤を悟られたくなくて、慌てて彼の言葉を否定する。
 しかしまあ、このジョセフ・ジョースターという男が美形なのは否定するつもりは無い。
 それに長身で引き締まった肉体と言い、彼が女性にもてるらしいという話も比較的容易に信じられる。
 こうして間近で彼の姿を観察していると、尚更それが良くわかる。

 そして、ジョセフの顔を間近で見ていると、どうしても私はあの出来事を思い出してしまう。
 初めて彼と出会った時の、とても強引で激しかった、あのキスの記憶を――

 いや、駄目だ。思い出してはいけない。
 私は再び脳裏に蘇って来たあの忌まわしい事件の記憶を封印するべく必死の抵抗を試みるが、
下手に意識してしまったせいで、逆に余計にあの時の感触がまざまざと呼び覚まされてしまう。
 思わず顔が紅潮し、息が詰まる。満足にジョセフの顔を見ることが出来なくなって来る。

 いいえ落ち着きなさい、落ち着くのよエレオノール。
 あれはただの不幸な事故に過ぎないのよ。冷静になって頭をクールに保つのよ。
 そうすれば、例えこの男が何をしでかそうと、恐れるものは何も無い――

「……なんか顔が赤いな。オイオイ、こりゃマジで風邪なんじゃねーのか?」
「ぁうわぁぅッ!?」
 気が付けば、お互いの息が触れる程の距離からジョセフが私の顔を覗き込んで来ていた。
 全く心の準備が出来ていない状態にも関わらず、彼の顔を間近で見せられてしまったせいで、
私は思わず驚愕の声を上げて後ずさり、力の限り廊下の壁へと自分の背中を貼り付けてしまう。
「ぜー、はー、ぜー、はー……」
 驚きと緊張のあまり、思わず息まで上がって来た。
 自分の心拍数が急激に上昇しているのが、自分でもはっきりと理解出来る。
 そんな私の心の内など知る由も無いだろう当のジョセフは、呆れたように私の姿を見ながら言って来る。
「なあ、一つ聞いていいか?」
「な、な、何よ!?」
「さっきから一体、あんたは何をやってるんだ?」
「う……うるさいわね!何でもないのよ!何でもないから黙ってて頂戴!」
「そうは言うがな姐さん、正直ンなこと言われてもウソくせーってレベルじゃねーぞ?」
「ええいお黙りィッ!平民風情が貴族の言葉に口を挟むで無いわ!」
 その平民風情に振り回され、自分一人で勝手に動揺しているのだから世話は無い。
 だが完全に頭に血が上っている今の私には、その程度のことすらも省みる余裕は無かったのだった。
 そして、暫くしてようやく彼とまともに話せるぐらいに落ち着きを取り戻した頃、私はふと先程の彼の言葉を思い出して、言う。

「……そういえば貴方、さっき条件があると言っていたわね」
「まあな。っつーか姐さんよォ、あんたマジで大丈夫なのか?
 もし風邪だっつーなら、俺がいっちょ『波紋』でも流してやるぜ?単なる風邪程度ならそれで一発だぜ」
「その話はもういいわ!とにかく、あなたの言うその条件とやらを聞かせて御覧なさい」
「へいへい」
 それ以上はジョセフも余計なことは口に出さず、その条件とやらについて話し始める。
「まずそーだな、俺にこの家に引っ越して来いだとか、そーゆーのは実は無理なんだわ。
 この間あんたがワルドの旦那と一緒に来たあの病院、実は結構ややこしいシガラミってヤツがあってな。
 ハイそうですかと言って、ホイホイと引き払うってワケにはいかねーのよ」
 そう言ってジョセフは、自分があの病院で医者を営んでいる経緯を事細かに説明しだした。


 かつて、酷い怪我を負いながらもトリスタニアにやって来たジョセフは、とある酒場のオーナーに
拾われて、そこで手当てを受けたのだと言う。そして暫くの間その酒場で居候をしていた彼が、
ふとしたきっかけで従業員達に『波紋』の能力を披露したことで、彼の能力にいたく感銘を覚えた
その酒場のオーナーが出資して、ジョセフが医者を開業する為のお膳立てを整えたのだと言う。
 つまりジョセフは現在、そのオーナーとやらに借金をしている形になるらしい。
 我がヴァリエール公爵家で彼を雇う以上、多少の金額ならばこちらが肩代わりしても良かったのだが
ジョセフ曰く「借りたモンは自分で返すのが礼儀。敬意を払え」とのことで、自分の手で稼いで
借金を完済するまでは、あの病院から出るつもりは無いのだと言う。
 なお、先日ジョセフの病院を手伝っていたジェシカとか言う娘はオーナーの娘であり、また基本的には
夜半にその酒場が営業を開始する為、比較的時間の空いている昼間は、酒場に勤める従業員達が
善意でジョセフの手伝いをしているのだとか。
 だが彼が何故そんな怪我を負ったのか、そもそも何処からトリスタニアまでやって来たのかまでは
適当にはぐらかすだけで教えてはくれなかったが。

「それに、あそこにゃあ俺を頼りにしてくれてる患者も結構いるしな。
 悪ぃんだけどよ、そーゆーワケで俺にあそこを離れろって言うのは流石にカンベンしてくれや。
 まー俺に出来るのは、週に一日、二日の割合でこのお屋敷まで妹さんに会いに来るぐれーだな。
 それでもいいってんなら、喜んで毎週カトレアお嬢様に会わせて頂くぜ。
 あの美人の妹さんをこのままほっぽっといたまんまにすんのも、正直寝覚めがワリーしな」
 軽く頭を掻きながら、どこか申し訳無さそうな口調でジョセフが私に対しての説明を終える。

 普通に考えるならば、貴族の依頼に対して平民がここまで条件を出すのは異例の事態と言えるだろう。
 そもそも、貴族と平民が対等な交渉の場に立つこと自体、まず有り得ないことだ。
 だがこのジョセフ・ジョースターは、お互いの身分の違いなど全く気にも留めない男だった。
 そんな彼の態度を疎ましく思う時もある。人格的にも素直に受け入れるには難しい相手だ。 
 しかし、それでもカトレアの身を案じて、自らの出来る範囲で、あの子の為に力を貸してくれようと
してくれている彼に対して、私は今、深い感謝の気持ちを覚えていた。
 だから私も、その気持ちを素直に口に出して彼の言葉に答える。

「……ありがとう、ジョースター先生。妹のこと、どうか宜しくお願いしますわ」

 そう言って私は、彼に対して心から頭を下げる。
 平民である彼にそのような行為を取ることも、今の私は屈辱などとは感じなかった。

「オーケー、任されたぜ。……フム、となると、まずは妹さんに飲ませにゃなんねー薬を用意しねーとな」
 鷹揚に頷いた後、おもむろに考え込む仕草を作りながら、ジョセフはそんなことを言って来る。
「俺の貧乏病院じゃあ、あんま高けーヤツは買えないしな……
 かと言ってあの妹さんに適当なモンを飲ませる訳にもいかねーし。さてさてどーすっかな」
「それならば私が何とかするわ。我が家が昔からお世話になっている係り付けのお医者様とも
 相談するつもりだし、それにいざとなれば、私の職場の知人に手を回して貰うという方法もある。
 とにかく、薬に関する問題は貴方が心配しなくても大丈夫。この私に任せて頂戴」
 そう口に出しながら、私は早速頭の中で今言った内容を実践する為の予定を組み上げ始める。

 折角、彼がカトレアの為に力を貸すことを約束してくれたのだ。
 私も出来る限りのことを、精一杯にやって行かなくてはならない。
 自らの知識欲を満たす為に、妹やこの男を利用してしまうことへの罪悪感は、これからカトレアを
救う為の道程の中で贖っていくことにしよう。
 それもまた結局は私自身の下らない自己満足の為に過ぎないのかもしれないが、今の私には
この方法以外に今のジョセフの言葉に報いる方法を思い付かない。
 そして待っていて、カトレア。この私が、絶対に貴女のことを自由にしてあげるから。 

「ヘェー。さっすがは貴族、色々な人脈があるモンだ。色んな意味で有り難い話だぜ」
 そして、ジョセフは私の言葉に感心したように目を丸くして、こちらの方を見やって来る。
 それは確かに無遠慮な態度であった
 だが私は今、そんな彼の存在そのものが、少しだけ心地良くなって来ていた。
 一緒にいると胸が軽くなると言うか、何か救われたような気分になるとでも言えば良いのだろうか。
 軽口ばかり叩いて、いつも明るく笑うこの男には、自然と人を惹き付ける魅力があるらしい。
 そして医者としての腕も確かだ。だからこそ大勢の患者から慕われているのだろう。
 この男に出会って、そして妹のことを頼むことが出来て良かったと、私は素直な気持ちで思った。


 そして私はすぐに、その考えがただの間違いに過ぎなかったことを思い知らされることになる。

「しかし職場たぁね。姐さんがどっかで働いてるなんざ、こりゃちょっと意外だったな。
 貴族のお嬢様だっつーから、お屋敷の中に構えて花嫁修業でもしてるのかと思ってたぜ。
 ああ、だけど姐さんぐらいの歳ならもうとっくに結婚してるのか。
 仕事と家事の両立ってヤツぅ?ウーム、こうして言ってみると中々格好イイじゃねーか」


 ぷつん。


 私の中で、今はっきりと、何かが切れる音がする。

 今再び、ジョセフ・ジョースターは触れてはならない禁忌に触れてしまったのだ。
 それは果たして、彼にとっては不幸な偶然だったのかもしれない。
 だが、この世には如何なる理由があろうとも、決して贖うことすら許されない罪と言う物が存在する。
 そして今、この男が口走った言葉は、私にとってどうしようもない程に許し難い一言だった。

「……先に説明してあげるわ。私の所属するアカデミー……トリステイン王国が誇る王立魔法研究所は
 文字通り魔法技術の発展に寄与する為、一流のメイジ達が集まって日々研究を続けている場所よ。
 無論、その中には『水』系統の魔法を用いた医薬品に関する研究を行っている部署もあるから
 そこに所属している知人に話を通して、必要な薬を処方して貰ったり、
 あるいは薬を作る為の原料そのものを分けて貰うことも出来るということよ」
「ああ……そうなのか。丁寧な説明は感謝の至りだ」
 どうやら、きちんと私の言ったことを理解してくれたらしい。
 それならばこちらも、わかりやすく説明した甲斐があると言うものだ。
 私はジョセフのその答えに満足すると共に、これまでにも幾度と無く彼の体を痛め付けて来た
鞭をもう一度取り出し、それを力の限りに強く握り締めながら、ゆっくりと彼に向けて一歩を踏み出す。

「だが姐さん、どーしてあんたはそーゆーおっかねー声で喋ってるんだ?
 それに手に持ったお馴染みのムチと言い、今の姐さんからものスゲー迫力を感じるんだが。
 やっぱり女の子はにっこり笑った方が可愛らしくてディ・モールト(とても)イイと思うんですがね?」
「ウフフフフ……わからないのかしら?」
 例え相手が聖人であろうと、その言葉を口にした者は決して許すわけにはいかない。
 愚かにもこのジョセフ・ジョースターは、再び触れ得ざる禁忌の扉を開いてしまった。
 罪人には裁きを与えるべし。それが世の理だ。
 そして私は、今までゆっくりと、静かに燃え上がらせた怒りを、今、思い切り爆発させる。
「私にはわかるわぁ……あなたが次に『オーノー』と叫んで逃げ惑う姿がねぇぇぇぇッ!!」
 既に、先程カトレアの往診を承諾して貰った時の感謝の気持ちは極限まで薄まっていた。
 代わりに今の私を支配している怒りと憎しみに任せて、全力で以って振るわれた鞭が
再び小気味良い音を立てて、ジョセフの体に直撃する。
「オーッ!ノォーッ!いきなり何てコトしやがるんだこのアマァァァーーーーーッ!!?」
「お黙りィィィッ!自分の胸に手を当ててよぉーくお考えなさい!
 それまでに貴方の命があればの話ですけれどねぇぇぇ!!」
「HOLY SHIT(やっばァーい)!しかも俺のセリフが取られるなんてチョー最悪ーッ!!」
 悲鳴を上げて逃げ回るジョセフに、追い掛ける私は容赦なく鞭の第二撃、第三撃を振るって行く。
 そうこうする内に、やがてこの騒ぎを聞き付けたカトレアが部屋の中からひょっこりと顔を出して来る。
「……姉様?先生?何だか騒がしいですけれど、一体どうされたのでしょうか?」
「おお!妹さん、ナイスタイミング!最高の天の助けってヤツだァーッ」
 その姿を見て顔を輝かせたジョセフは、そのまま大慌てでカトレアの後ろへと回り込む。
「妹さん、あんたの姉さんがいきなり暴れ出して手が付けられねー!すまねーが何とかしてくれ!」
「え?あの…エレオノール姉様?」
 まるでジョセフに盾にされるような形となったカトレアは、状況が掴めずに目を白黒させている。

「どきなさい、カトレア。幾ら貴方の為とは言え、そんな男を呼び付けた私が間違っていたわ……。
 そいつは殺すわ。ええ、どうしても殺さなくてはならないの。今、この場で、この私の手で!」
「は、はい?……あの、ジョースター先生?もしかして、姉様のお気に触るような何かを……
 例えば、その、姉様の御婚約についてのお話とかをされてしまったのでしょうか」
 まさにその通りだ。相変わらず、このカトレアの勘の鋭さにはいつも驚かされる。
 そしてそれはジョセフの方も同感だったらしく、彼は目を大きく見開いてカトレアの方を見ながら答える。
「うは。妹さん、スッゲェーイイ勘だぜ。実はそーなんだよ、姐さんってばもう結婚してるのか?
 みたいなコトを聞いたんだが、そしたら突然プッツンしちまってな……
 どーやらその言い方だと、聞かれたくないよーなマズいコトでもあったんだな」
「や、やはりそのお話をされてしまったのですね……しかもエレオノール姉様御本人に……」
 ジョセフのその言葉に、どこか絶望の表情すら滲ませながらカトレアが呻く。
「そーいや、さっきも男にフラれてどーこーとかの話をしたら、ムッチャ怒り出してたな。
 妹さん、今婚約とか何とか言ってたみてーだが、ひょっとしてヤッパリ、アレか?婚約解消?」
「ええ……実は先日、先方からそのお話が届きまして……何でも『もう限界』とのことでして」
「カトレアァァァ!何か言いたいことがあるならハッキリとお言いィッ!!
 そもそも、貴女には部屋で待っていなさいと言った筈よねぇ!?
 それなのにノコノコと出てきて、挙句にこの男を庇うなんて!
 お姉様の言うことが聞けないと言うの!?この子は!この子はぁッ!!」
 これまた思い出したくない記憶の一つを目の前で穿り返され、今や私は完全に逆上していた。
 そして、私はその一端を担ったカトレアの前に立ち、そのまま妹の頬を掴んでぐいっと捻り上げる。

「ね、姉様。痛いです」
「うるさいわね!貴女という子は余計なことをペラペラと!ええそうよ、私の婚約は解消よ!
 解消って言ったら解消よ!それがそんなに面白いことだと言うのかしらァァァッ!?」
「そ、そんなことはありませんから……」
 幾ら頭に血が上っているとは言え、相手は体の弱いカトレアである。
 私はあまり力を込めずに、掴んだこの子の頬の肉が最低限に動く程度に止めておく。
 だが、もし相手がルイズだったら迷うことなく全力で抓り上げていただろう。
 例え相手が可愛い妹であろうとも、決して許しておく訳にはいかないこともあるのだ。
「オーノー、なんつーおっとろしい女だ……あの姐さん、マジでキレてやがる……。
 エシディシみたいに何がなんでも冷静さを忘れねぇヤローこそ恐ろしい敵だが、怒りに任せて
 形振り構わず突っ込んで来る相手ってのも、これはこれで厄介なモンだぜ」
 カトレアの陰で、ジョセフが何やらぶつぶつ呟いているようだが、今の私には彼の言葉の中身などは
耳に入らない。しかし、私がカトレアにお仕置きをしている隙に乗じて、こっそりとこの場から
離れようとしているのだけは、断じて見過ごす訳にはいかなかった。
「お待ちなさい、ジョセフ・ジョースター……一体どこへ行こうと言うの?」
 カトレアの頬を抓り上げる手を一旦離して、再び私はいつでも鞭を振るえる体勢を取りつつ
彼の側へと移動する。
 どうやら人は怒りや憎しみが頂点に達すると、逆にその感情を冷徹な意志へと変えることが
出来るらしい。私は自分でも驚く程に静かな声で、まるで処刑宣告を行う処刑人のような心持ちで
ジョセフに向けて言葉を告げる。

「……エレオノールの姐さんよォ。実は俺も結構あちこち色んな国を廻ったことがあるんだわ」
 だが生憎と、当のジョセフはまだ素直に諦めたりするつもりは無いらしい。
 どこか凛とした表情さえ浮かべながら、粛々と何かを語り始めている。
「その旅の中で、そりゃーもう色んな化け物を見て来たモンさ。
 吸血鬼だのそいつらに操られた屍生人だの全身機械のサイボーグだの、果ては不死身の究極生物だの。
 そんな連中と戦う中で、俺は一つの戦い方を身に付けたんだ……
 後世に残る伝統の戦い方ってヤツだな」
 言いながら、ジョセフは私の姿を見据えながらも、足を一歩だけ後ろへと回す。
「どーしようもねぇピンチになった時の必勝法!それは……『逃げる』ッ!!」
 そして、急速に体を反転させたジョセフは、そのまま全速力で廊下の奥へと姿を消して行く。
「おぉのぉれぇぇぇぇッ!逃がすものですかぁぁぁぁッ!!」
 逃げるですって?誰がそんなことを許すと言うのかしら。
 積もりに積もったこの怒りをあの男にぶつけなければ、私の気は決して晴れることは無いのだ。
 私は、さっき初めて私の名を呼んだジョセフ・ジョースターを追って、ひたすらに走り続けた。


「……喧嘩ばかりしているように見えるけど、あのお二人、やっぱり仲がいいかもしれないわね。
 だって、姉様があんなに生き生きとされている姿なんて、最近あまり見かけなかったもの。
 姉様ったら、ルイズが魔法学院に入学した時も随分と寂しそうにされていたし」

 姉と姉が連れて来た医者の姿が見えなくなるのを見届けてから、カトレアは部屋の中からこちらを
見つめていた動物達の頭をそっと撫でながら、優しく、しかしどこか寂しげな表情を浮かべて、
愛する家族達に向かって口を開く。

「それに、時々姉様が思い詰めたような顔をされているのは、
 もしかしたら、いつまで経っても私の体が弱いせいもあるのかもしれないわね。
 ふふ……私ってば本当に、姉様や皆に心配を掛けてばかりいる駄目な子ね」

 そしてカトレアは、ふと今日出会ったばかりのあの男性のことを思い出す。
 目の前で魔法とは違う不思議な力を操って見せた、ジョセフ・ジョースターというあの人。
 あれほど明るく振舞っているのに、どこか寂しげに見えたのは何故だろうとカトレアは思う。

 どこかに大切な物を置き去りにしてしまい、それを必死に探そうとしているように見えて。
 だけど、本当はそれを探すこと自体に、焦りと戸惑いを抱いているようでいて。
 どこか決定的な部分で、普通の人とは違う雰囲気を纏っている男だとその時のカトレアは思った。


 カトレアや、そして彼女の姉エレオノールらがその本当の意味を知るのは、もう暫く後の話となる。
 その時には既に、ジョセフの背負う眠れる『運命』が、再び目を覚ました後のことであった。


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