ゼロの奇妙な使い魔 まとめ

第二十二章 過去

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第二十二章 過去

 キュルケ、タバサ、そしてリゾットは馬車に揺られ、魔法学院から延びた街道を南東へ下っていた。馬車はタバサの実家から派遣されてきたもので、タバサのシルフィードはキュルケのフレイムを背に乗せ、馬車の上空を旋回しながら飛んでいる。
「イーヴァルディは竜の洞窟の中に入っていきました。付き従うものはありませんでした。松明の明かりの中に、コケに覆われた洞窟の壁が浮かび上がりました。たくさんのコウモリが、松明の明かりに怯え、逃げ惑いました。
 イーヴァルディは……」
「怖くて」
「怖くて泣きそうになりました」
 リゾットの絵本を読む声が馬車の中に響く。タイトルは『イーヴァルディの勇者』。ハルケギニアでは一般的な英雄譚を絵本に綴ったものだ。といってもリゾットに絵本を読む趣味があるわけではない。タバサの実家への道中、リゾットがどれだけハルケギニアの言葉を覚えたかを知るために、タバサが渡した教材がこれだったのだ。リゾットはそれを音読し、たまに分からないところがあると、すぐ隣で耳を傾けているタバサに教えてもらっている。
 外は晴れ渡り、穏やかな日差しが車内に降り注いでいる。窓からは青い牧草地がのぞき、そんな中で絵本が音読されるのは随分とのどかな光景だった。
 向かいに座るキュルケと、その隣に立てかけられたデルフリンガーはそんな光景を面白そうに見ている。二人にしてみればリゾットが絵本を四苦八苦しながら読むというのはなかなか見られない、興味深い光景のようだった。
「あんなダーリンの可愛い姿が見られるなんて、学校に休暇届出してまで来た甲斐があったわね。タバサも楽しそうだし」
「楽しんでるのか? あの娘っ子、表情がかわらねーから分かりづれぇや」
 デルフリンガーの言葉に、キュルケはタバサの顔を見て、クスリと笑う。
「とても楽しそうよ。例え一時でも気が紛れてくれるなら、惚れ薬も悪くはないわね」
「そういうもんかねえ。まあ、相棒が字が読めるようになって、あの娘っ子が楽しいなら、こりゃもう俺に言うことはないがね」
 確かにタバサの微妙な感情の機微は簡単には読み取れない。だが、キュルケには分かるのだった。タバサが実家に帰ることに対して、不安と哀切と期待とが絡み合った複雑な思いを抱いていることや、今はその気持ちが紛れていることが。
 そんなキュルケはもちろん、リゾットも、デルフリンガーも、タバサの実家については何となく察している。タバサの実家というのは決して幸せな環境ではないのだろう。DIOの館でケニー・Gがタバサをおびき寄せるために使った幻影はどこまで真実を映したか、タバサ以外には分からない。だが、「母親らしき人物がタバサらしき少女を庇うように食事に口をつける」という幻影を見た途端、常に冷静なタバサが取り乱した。
 光景こそ描写されなかったが、その後、何が起きたのかは想像に難くない。地位が上の人物に命を狙われるような家は大抵、没落せざるを得ない。タバサもそれ相応に過酷な運命を通ってきたはずだ。
「ところで、俺たちはどこに向かってるんだっけ? 随分遠そうだが」
「ガリア王国よ。タバサはそこの留学生らしいの。あたしも初めて知ったわ」
 タバサがキュルケとリゾットに、国境を越えるための通行手形の発行をオスマンに頼むように指示したことでそれが判明した。キュルケは『タバサ』という、まるで飼い猫につけるようなふざけた名前が偽名であることをうすうす感づいていたが、今までその理由を尋ねることを控えていた。
 キュルケは館での映像を見て以来、タバサを、何かの事情で没落し、世を忍ぶようになったトリステイン名門貴族の出だと当たりをつけていたが……、それは外れていた。トリステイン、ゲルマニアと国境を接する古い王国、ガリア王国の出だったのだ。
 ハルケギニアは大洋に突き出たゆるやかな弧を描く半島だ。地球で言う、オランダとベルギーを合わせたぐらいの国土のトリステインを挟むように、キュルケの母国、北東のゲルマニアと、南東のガリアが位置している。二国の国土面積はトリステインの十倍ほどもある。トリステイン人が自嘲気味に『小国』と母国を呼ぶのはそんなわけがある。
 さらに南の海に面した小さな半島群には、かつてのゲルマニアのような都市国家がひしめき、覇権を争っている。そのような都市国家の一つに、始祖ブリミルと神に対する信仰の要であるロマリアもある。ちなみに枢機卿のマザリーニはロマリアの出身である。
 ハルケギニアを東に進むと、蛮族や魔物が住まうという未開の地があり、さらにその先の砂漠では、砂漠を切り開く能力を持つエルフたちが『聖地』を守っている。さらに東へ向かえば、ロバ・アル・カリイエ……、『東方』とひとくくりにされた地がどこまでも続いている。
 大洋とハルケギニアの上を行ったり来たりしている浮遊大陸アルビオンはまた別だ。あれはあくまでアルビオンであって、厳密にはハルケギニアではないのだ。
 ガリアは歴史の古い国であり、魔法についても進んだ国である。わざわざトリステインに行かずとも魔法学院はあるのだが、タバサは留学してきている。その理由と今回の帰国の理由について、キュルケは尋ねることを自分に禁じていた。タバサが話したくなれば自分から口を開くだろう。ルイズの同行を退けた時の頑なな雰囲気のわけも、そのときに分かるはずだ。
 性格も年齢も違う二人が友達になれたのは、妙にウマが合うからというだけではない。聞かれたくないことを、お互い無理やり聞いたりしないから友達になれたのだ。タバサはそのあまり開かれることのない口によって、キュルケは年長の気配りで。国境を越えてトリステインにやってきたことに関して、二人ともそれなりの理由があるのだった。
 そういう意味では異世界からやってきたリゾットも似たところがある。他人の過去について余計な詮索をしないし、自分自身の過去についてもあまり話したがらない。どうやら裏の世界で生きてきたらしいということが分かる程度である。
(あたしの周りは難しい人ばかりね……)
 そう思いながらそれを楽しんでいる自分に苦笑を浮かべ、キュルケは各国の政情を思い返した。政治に興味がないキュルケでも、昨今のきな臭いハルケギニアに住んでいれば、いやでも耳に入ってくる。
 今から向かうガリア王国は、アルビオンのトリステイン侵攻に関して中立と沈黙を保っていた。アルビオンの政変と新政府に脅威は感じているだろうが、なんら声明さえ発していない。トリステインからの同盟参加への申し入れについても、これを拒絶している。自国の国土が侵されぬ限り、中立を保つだろうというのが大方の予想だった。噂によるとガリアは内乱の危機を孕んでいるとのことだった。外憂より、内患で頭が一杯なのだろう。
 そんなガリアへの訪問である。最初は観光気分だったが、何だか忙しいことになりそうな予感がした。
 しばらくそんなことに思いをはせながら、キュルケは窓の外をぼんやりと眺めていた。

 すると、前から馬車に乗った一行が現れた。深くフードを被った十人にも満たない一行であったが、妙にキュルケの注意を引いた。マントの裾から杖が突き出ている。貴族であった。
 杖の作りからいって一行は軍人であるようだ。今は戦時であるので珍しくもない。何か密命でも帯びているのだろうか、静々と馬を進めている。馬車の中には何か大きな荷物があった。荷運びの任務だろうか。
 先頭を行く貴族の顔が、フードの隙間からちらっと覗いた。涼しげな目元のいい男である。ふぅん、と思わずキュルケは唸った。
「いい男って、いるところにはいるものよね」
 腕を組んでうんうんと呟く。
「お前さん、相棒に惚れてるんじゃなかったっけ?」
 デルフリンガーが呆れてツッコミを入れると、キュルケはしれっと答えた。
「それとこれとは別よ。いい男はいつみてもいいものよ?」
「その貪欲さにおでれーた」
 男でも女でもないデルフリンガーとしてはそういうしかなかった。そんなデルフリンガーをよそに、キュルケは首をかしげた。
「それにしても……どこかでさっきの男、見たことあるのよね……。どこで見たのかしら……。というか、誰だっけ?」
 キュルケは熱しやすく、冷めやすい。いい男を見ればその瞬間は魅入ってもすぐ忘れてしまうのである。
「俺に言われてもわからんよ。でも、俺も見たことあるようなないような…」
 ちなみにデルフリンガーは自分の所持者、使用者以外の人間は割りとどうでもいいので一度や二度くらいしか会った事のない人間は忘却してしまう。

「……とさ。めでたしめでたし」
 そうこう考えているうちに、リゾットが絵本を読み終わった。
「簡単な本なら読めるようになった。貴方は覚えが早い」
 今まで聞いていたタバサが呟いた。リゾットもそれは疑問に思っていることだった。彼は語学に特別秀でているわけではない。複数の言語を習得してはいるが、それは単に努力した結果だ。だが、ハルケギニアの言語に関しては一度覚えさえすれば、見た瞬間に意味が浮かんでくるのだ。
「……そうだな。言葉も自動的に翻訳されている……。覚えた文字も自動的に翻訳されているのかもしれない」
「よく分からんが、『サモン・サーヴァント』で呼ばれたときにそういう魔法がかけられたんじゃねーの?」
 デルフリンガーが推測を述べた。確かにそれくらいしか考えられない。最もあって困るわけではない。便利なだけだ。
(今度、ルイズに訊いてみるか……)
 そう思い、リゾットは今まで読んでいた本に目を落とした。内容を強引に要約すると、次のような話になる。
 主人公の勇者イーヴァルディが旅の途中、立ち寄った村で村娘にパンをご馳走してもらう。
 その村はドラゴンに襲われていて、生贄としてその村娘が選ばれる。それを知ったイーヴァルディは単身、竜の巣に入り、娘を救い出す。
「不思議だ。こういう話は俺の世界にも伝わっている。世界が違っても、人間というのは考えるのは同じなんだろうか?」
「ダーリンの世界にもイーヴァルディの勇者がいるの?」
「主人公は違うが、似たような話はある。聖ジョージ、というが一番有名な主人公だったかな?」
 そこでリゾットはタバサが眼鏡の奥の澄んだ青い瞳をじっとこちらを向けていることに気がついた。
「私が……」
「ん?」
 聞き返すリゾットに、タバサは首を振った。
「……なんでもない」
 呟いて、タバサは目を伏せた。
 タバサは本当はこう言いたかったのだ。
『私が囚われた時、貴方は勇者になってくれる?』と……。
 だが、リゾットはあくまでルイズの使い魔だ。そのリゾットにこんなことを言っても困らせるだけだろう。それに、今の自分は惚れ薬の飲んでおかしくなっている。だからこんなことを思いつくのだ。そう考え、タバサはその言葉を呑み込み、心の奥深くに沈めた。

 国境まで二泊して、ゆるゆると三人は旅を続けた。教師のタバサが優秀なお陰もあり、リゾットはこの三日でかなり文字が読めるようになった。しかし、進むにつれ、タバサはその内心の不安を表すように元々少ない口数をさらに減らしていった。
 国境の関所でトリステインの衛士に通行手形を見せ、石の門を潜ると、そこはもうガリアだった。ガリアとトリステインは、言葉も文化も似通っている。『双子の王冠』と並んで称されることも多い。
 ガリア側の関所で手形を検査すると、大きな槍を掲げた衛士は言いにくそうに告げた。
「ああ、この先の街道は通れないから、迂回してください」
「どういうこと?」
「ラグドリアン湖から溢れた水で街道が水没しちまったんです」
 ラグドリアン湖はガリアとトリステインの国境沿いに広がる、ハルケギニア随一の名勝とその名も高い大きな湖だ。その湖底にはトリステインとの盟約を結ぶ、誓約の精霊とも呼ばれる美しき水の精霊たちが住んでいる。
「……嵐でもあったのか?」
「いえ、そういうわけじゃないんですが……」
 衛士の言い方にひっかかりを覚えつつも、街道をしばらく進むと、開けた場所に出た。街道のそばを緩やかに丘が下り、ラグドリアン湖へと続いている。湖の向こう岸はトリステインだ。

 確かにラグドリアン湖の水位はあがっているようだ。浜は見えず、湖水は丘の緑を侵し、湖底には花や草が沈んでいた。
「確かに、綺麗な湖だな……」
 外へと目をやっていたリゾットの傍らで、タバサもまた外を覗いていた。
「あなたのご実家、この辺なの?」
「もうすぐ」
 それだけ答え、後はじっと黙り込む。その片手はぎゅっとリゾットのコートの裾を掴んでいた。
 湖を離れ、森の中へと馬車は進む。大きな樫の木陰の空き地で、農民たちが休んでいた。その一人が持っていたリンゴの籠に目をとめたキュルケは、馬車を止めさせ、農民を呼んだ。
「おいしそうなリンゴね。いくつか売ってちょうだい」
 農民は籠からリンゴを取り出し、銅貨と引き換えにキュルケに渡した。
「こんなにもらったら、籠一杯分になっちまいます」
「三個でいいわ」
 キュルケは一個をかじり、タバサとリゾットに残りを一つずつ渡す。
「おいしいリンゴね。ここはなんていう土地なの?」
「へえ、この辺りはラグドリアンの直轄領でさ」
「え? 直轄領?」
 直轄領とは王が直接保有、管理する土地のことである。
「ええ。陛下の所領でさ。わしらも陛下のご家来さまってことでさあ」
 農民たちは笑った。確かに土地の手入れがよく行き届いた、風光明媚な場所である。王が欲しがるのも、無理はない。
 キュルケは目を丸くして、タバサを見つめた。
「直轄領が実家って……、あなたってもしかして……」
 タバサは答えない。それを見ながら、リゾットはリンゴをかじった。甘い味が口中に広がった。

 それから十分ほどして、タバサの実家の屋敷が見えてきた。古く、立派な作りもさることながら、キュルケは門に刻まれた紋章を見て息を呑んだ。交差した二本の杖と、"さらに先へ"と書かれた銘は間違いなくガリア王家の紋章だ。
 だが、その紋章には十字に傷がつけられていた。不名誉印である。この家の王族の権利は剥奪されているのだ。
 玄関前の馬周りにつくと、一人の老僕が近づいてきて馬車の扉を開けた。恭しくタバサに頭を下げる。
「お嬢様、お帰りなさいませ」
 他に出迎えのものはいない。それどころか、屋敷からはほとんど人の気配がしなかった。まるで死人の家のようだと感じながら、リゾットはタバサに続いて馬車を降りる。タバサが老僕に小瓶を渡すのが見えた。あの秘薬屋で手に入れた薬だった。
 老僕が先にたち、三人は手入れが行き届いた庭を歩いていく。だが、タバサの足取りは重かった。その表情から、リゾットはタバサの不安を僅かに読み取った。
 キュルケもそれを感じたのか、後ろから優しくタバサの肩を抱いて、いつもの楽天的な声で言った。
「大丈夫よ。何があっても、あたしたちがついてるわ」
 タバサは頷いたが、まだ表情は硬かった。
「…………」
 見かねたリゾットが手を差し出す。タバサは一瞬、驚いたような顔でリゾットを見たあと、頬を染めてその手を取る。そのまま三人は屋敷へと向かった。
 客間に通され、ソファに座ったキュルケは、タバサに言った。
「まずはお家の方にご挨拶したいわ」
 しかしタバサは首を振る。
「ここで待ってて」
「……大丈夫か?」
 リゾットが尋ねると、僅かに嬉しそうに頷き、客間から出て行った。残されたキュルケとリゾットは視線を交わし、頷きあう。
「やっぱり色々複雑そうね、タバサの家は……」
「あの紋章……、直轄領にあるということはガリア王家のものか?」
「ええ……。しかも、不名誉印……王族の権利を剥奪されていたわ」
 キュルケが眉根を寄せた。デルフリンガーも刀身をカタカタと揺らす。
「おでれーたな。只者じゃないとは思ってたが、まさか王族関係とはね」
 やがて、先ほどの老僕が入ってきてテーブルに各人の前にワインとお菓子を置いた。
 それには手をつけずに、キュルケは老僕に尋ねる。まずは外堀からだ。
「このお屋敷、随分と由緒正しいみたいだけど。なんだかあなた以外、人がいないみたいね」
 老僕は恭しく礼をした。
「このオレルアン家の執事を務めておりまするペルスランでございます。おそれながら、シャルロットお嬢様のお友達でございますか?」
 キュルケは即座に、リゾットはしばらく考えてから、頷いた。オレルアン家という家名に、キュルケは心当たりがあった。ガリア王の弟、王弟家がその家名を使っている。
「どうして王弟家の紋章を掲げずに、不名誉印なんか門に飾っておくのかしら」
「お見受けした所、外国のお方と存じますが……。お許しがいただければ、お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「リゾット・ネエロ。東方から来た。タバサにはいつも世話になってる」
「ゲルマニアのフォン・ツェルプストー。ところで一体、この家はどんな家なの? タバサはなぜ偽名を使って留学してきたの? あの子、何も話してくれないのよ」
 キュルケがそう言うと、老僕は切なげにため息を漏らした。
「お嬢様は『タバサ』と名乗ってらっしゃるのですか……。わかりました。お嬢様が、お友達をこの屋敷に連れてくるなど、絶えてないこと。お嬢様が心許す方々なら、かまいますまい。お話いたしましょう」
 それからペルスランは、深く一礼すると語りだした。
「この屋敷は牢獄なのです」

 タバサは屋敷の一番奥の部屋の扉をノックした。返事はない。いつものことだが、タバサは失望を感じた。この部屋の主がノックに対する返事を行わなくなってから、五年が経っている。その時、タバサはまだ十歳だった。
 タバサは扉を開けた。大きく、殺風景な部屋だった。ベッドと椅子とテーブル以外、他には何もない。開け放した窓からは爽やかな風が吹いてカーテンをそよがせている。
 この何もない部屋の主は自分の世界への闖入者に気付いた。乳飲み子のように抱えた人形をぎゅっと抱きしめる。
 それは痩身の女性だった。もとは美しかった顔が病のため、見る影もなくやつれている。彼女はまだ三十代後半だったが、二十も老けて見えた。伸ばし放題の髪から覗く目が、まるで子供のように怯えている。
 その前のテーブルのグラスが空になっているのを見て、タバサは絶望に近いような落胆を感じた。ペルスランに渡して飲み物に入れてもらった薬は、効を為さなかったのだ。スクウェアクラスが秘術を尽くして作った薬が効かないということは、叔父が盛った薬は先住魔法絡みなのだろう。そして先住魔法に対抗する方法をタバサは知らない。
「誰?」
 わななく声で、女性は尋ねた。タバサはその女性に近づくと、深々と頭を下げる。
「ただいま帰りました。母様」
 しかし、その人物はタバサの言葉に反応すら見せない。耳が遠いわけではない。心が遠いのだ。目を爛々と光らせて冷たく言い放つ。
「下がりなさい無礼者。王家の回し者ね? 私から、シャルロットを奪おうと
いうのね? 誰が貴方たちに、可愛いシャルロットを渡すものですか」
 タバサは身じろぎもしないで、母の前で頭を垂れ続けた。
「おそろしや……。この子がいずれ王位を狙うなどと……、誰が申したのでありましょうか。薄汚い宮廷のすずめたちにはもううんざり! わたしたちは静かに暮らしたいだけなのに……、下がりなさい! 下がれ!」
 母はタバサに、テーブルの上のグラスを投げつけた。タバサはそれを避けなかった。頭に当たり、床に転がる。母は抱きしめた人形に頬擦りした。何度も何度もそのように頬をすりつけられたせいか、人形の顔はすり切れてはみ出ている。
 タバサは悲しい笑みを浮かべた。それは母の前でのみ見せる、たった一つの表情だった。
「貴方の夫を殺し、貴方をこのようにした者どもの首を、いずれここに並べに戻って参ります。その日まで、貴方が娘に与えた人形が仇どもを欺けるようお祈りください」
 開けた窓から風が吹き込んでカーテンを揺らす。初夏だというのに、湖から吹いてくる風は肌寒かった。

 ペルスランが語ったのは、どこの王家の歴史にもありそうな、しかしどこで聞いても気持ちが暗くなるような話だった。
 先王が崩御した際、無能と称される現王ジョゼフよりも遥かに人望と才能に溢れた、弟のオレルアン公を王座へつけようという動きが持ち上がった。王宮は二つに分かれ、最後は弟が狩猟会で毒矢に射られるという形で決着がついた。権力争いの勝者が最初にすることはまずその残党を刈り取ることである。オレルアン公の娘であるタバサはその最たる者として、母親ともども宮廷に呼ばれ、その食事に精神を狂わす魔法の毒を盛られた。だが、それを事前に悟ったタバサの母親はタバサに代わってその食事を口にしたのだという。
「以来、奥様は心を病まれたままでございます」
 キュルケは想像を超えた経緯に言葉を失い、呆然と老僕の告白に耳を傾けていた。
「先の薬は母親のためのものか?」
「はい。お嬢様は奥様の心を治すための手段を、ずっと探しております」
 目の前で母親の心を壊されたタバサは、それまでの快活で明るかった性格が一変し、それ以来、言葉と表情をほとんど表さなくなった。
 そして自分の身を守るため、王家の下す生還不能と思われるような困難な任務に志願し、それを果たすことで王家への忠誠を証明しているのだ。
 だが、王家はその働きに報いることなく、タバサにシュバリエの称号だけを与え、トリステインへと留学させる一方、母親をこの屋敷に幽閉した。
「そして! 未だに宮廷で解決困難な汚れ仕事がもちあがると、今日のようにほいほい呼びつける! 父を殺され、母を狂わされた娘が、自分の仇にまるで
牛馬のようにこき使われる! 私はこれほどの悲劇を知りませぬ。どこまで人は人に残酷になれるのでありましょうか」
 キュルケはタバサが口を開かず、シュバリエの地位にありながらその証拠をマントに縫い付けぬ理由を知った。
 雪風……、彼女の二つ名だ。彼女は冷たい雪風に身も心も浸し、たった一人で生きてきたのだ。その冷たさ、孤独さはキュルケには想像できなかった。
 その時、音を立てて暖炉の上に飾られていた調度品が落ちた。
「……すまない」
 リゾットは謝ると、席を立って調度品を拾い上げ、元に戻す。
「?」
 ペルスランは不審そうな顔をした。リゾットとその調度品の間にはかなりの距離があり、手を伸ばしたとしても届くはずがない。キュルケは恐らくリゾットがスタンドで落としたのだとは予測できたが、何故そんなことをしたのかは分からなかった。
 まさか、能面のような無表情を保つリゾットが、怒りの余りスタンドの制御を誤ったなどということは、外からは分かるはずがない。
「続けてくれ……」
 呟くように言って、リゾットはまたソファに腰を下ろす。
「はい。お嬢様は、タバサと名乗っておられる。そうおっしゃいましたね?」
「ええ」
「奥様は、お忙しい方でありました。幼い頃、お嬢様はそれでも明るさを失いませんでしたが……、随分と寂しい思いをされたことでありましょう。そこで奥様は忙しさの合間を縫ってご自分で街へ向かい、手ずからお選びになった人形をお嬢様にプレゼントなさったのです。そのときのお嬢様の喜びようといったら! その人形に名前をつけて、妹のように可愛がっておられました。今、その人形は奥様の腕の中でございます。心を病まれた奥様は、その人形をシャルロットお嬢様と思い込んでおられます」
 キュルケははっとした。
「『タバサ』。それはお嬢様が、その人形におつけになった名前でございます」
「………」
 キュルケもリゾットも言うべき言葉が見つからないように黙り込んだ。ペルスランは二人に頭を下げた。
「先ほどから拝見しておりましたが、お嬢様はお二人に随分、心を許しておられる様子。どうか、シャルロットお嬢様をよろしくお願いします」
「ええ……、わかったわ」
「出来る限りのことはする」
 その時、扉が開いてタバサがあらわれた。
 ペルスランは一礼すると、苦しそうな表情を浮かべ、懐から一通の手紙を取りだした。
「いつごろ取りかかられますか?」
 まるで散歩の予定を答えるように、タバサは言った。
「明日」
「かしこまりました。そのように使者に取り次ぎます。ご武運を」
 そういい残すと、ペルスランは厳かに一礼して退室した。
 タバサはリゾットたちの方を向いた。
「ここで待ってて」
 これ以上はついてくるな、と言いたいのだろう。タバサの実力を持ってしても命がけになるということから、その危険さは容易に知れる。だが、キュルケは首を横に振った。
「ごめんね。さっきの人に全部聞いちゃったの。だからあたしもついていくわ」
「俺は元々お前の任務のためについてきた。だからついていく」
 リゾットはこともなげに答え、キュルケに同意した。
「……危険」
「気にするな。チームが危険を分かち合うのは当然だ」
「そうよ。危険ならなおさら貴方を一人で行かせるわけにはいかないわ」
 タバサは答えない。ただ、軽く下を向いた。

 その夜、リゾットはタバサをベッドに運び、寝かせてやった。タバサはずっと不安そうにリゾットに抱きついていたのだが、気が張り詰めていたせいもあり、そのまま眠ってしまったのだ。その手の中にはリゾットの頭巾がある。
 眼鏡を外した寝顔をみる限りでは、復讐を胸に秘め、数々の困難な任務に挑んできた戦士には見えない。どこにでもいる、あどけない少女のようだった。
 リゾットが立ち上がると、タバサが寝言を呟いた。
「母様……、母様、それを食べちゃだめ、母様」
 苦しそうに、悲しそうに何度も母親を呼ぶ。額にはじっとりと汗が浮かんでいた。
 汗をぬぐってやると、うっすらとタバサは眼を開ける。起きたかと思ったが、リゾットの姿を確認すると、安心したように、また目蓋を閉じた。
 タバサの眼差しを受けてリゾットの胸中に僅かに痛みのようなものが走る。タバサの父親は暗殺されたという。母親も毒を盛られて心を壊された。手段としては暗殺のようなものだ。
 リゾットは暗殺者として、組織の命令で数多くの人間を血に沈めてきた。命の奪い合い、または怨恨の結果として相手を死に至らしめたというならともかく、戦意や殺意のない者の命をも一方的に奪ってきた。当然、殺した人間に家族や友人がいることも認識していたし、彼らから復讐される覚悟も、地獄に堕ちる覚悟もしていた。自分を拾ってくれた組織のためならそれで構わない、と思っていた。
 これからも必要があればリゾットは人を殺すだろう。だが、組織からを抜けた今、タバサのように理不尽に両親を奪われた者を見ると、眠らせた罪悪感のような感情が疼くのだった。
 反逆に失敗したリゾットは、世界に死を撒き散らすだけで、何も為しえなかったも同然だ。その事実が罪悪感を促進する。
(俺たちのしてきたことは無意味だったのか?)
 そんならしくもない疑問が頭を掠める。

「……タバサは、寝た?」
 キュルケは眠れないらしく、ソファに片肘を突いて物憂げにワインの杯を傾けている。
「ああ……」
 リゾットもソファに座り、自分の杯にワインを注ぐ。任務が待ってはいるが、酔いたい気分だった。
「安請け合いしちゃったけど……、こりゃおおごとね」
「……そうだな」
 二人は先ほどタバサから聞いた任務のことを話した。どう考えても命がけの任務である。一つの失敗で命を落とすかもしれない。おまけにタバサは惚れ薬のせいで本調子とはいえない。
 だが、二人とも任務から降りるつもりは毛ほどもなかった。暗殺者のリゾットは言うに及ばず、ゲルマニア貴族のキュルケにとっても、死はそれほど遠い世界ではない。そんなありふれたものよりも、今はタバサが心配だった。
「でも、あたしはそんなに心配してないわ。タバサもダーリンもいるもの。友人と愛する人が一緒なら、どんな任務もなんてことはないわ」
 いつものように楽天的にキュルケが言う。
「……愛する人、ね……」
 リゾットの暗い呟きを聞いて、キュルケは拗ねたような顔をした。キュルケがこんな顔を他人に見せるのは珍しい。
「何よ。ダーリンったら、あたしの愛を疑うの?」
「そういうわけじゃないが……、お前がどこまで本気か、俺には分からない」
「本気よ、全部」
 それからちょっとおどけた感じで付け加える。
「そうね。でもタバサにならダーリンを譲ってもいいわ。ダーリンのことを愛してるのと同じくらい、タバサのことも大切に思ってるもの」
 そこまで言うと、キュルケは照れ笑いを浮かべ、髪をかきあげた。
「ベッドの上ではタバサに負けない自信があるしね」
 リゾットはその冗談に取り合わなかったが、キュルケがタバサのことを本当に想っていること、そしてリゾットの沈んだ雰囲気を感じ取って気を使っているらしいことは感じ取った。
「……タバサが大切なんだな」
「ええ、タバサもダーリンも、あたしにとってかけがえのない人よ。だから、明日からの任務も皆で終わらせましょう」
「……そうだな。さっき作った装備もある。勝算は十分だ」
 リゾットはキュルケの気遣いに感謝する意味で笑みを返そうと思ったが、上手く笑えなかった。
「……気を使わせて、すまない。いや……ありがとう、というべきか」
「どういたしまして」
 明るく笑うキュルケに吊られ、リゾットも僅かに笑った。ほんの僅かだが、今度は笑えた。
 杯を飲み干し、立ち上がる。
「明日から任務だ。そろそろ寝ろ。俺も自分の部屋に戻る」
「あら、一緒に寝ないの? あたしもタバサも構わないけど……」
 からかうように笑みを浮かべるキュルケに、リゾットは首を横に振る。
「そう? 遠慮しなくてもいいのに」
「そういう問題ではないだろう」
 不意にキュルケが笑みを消し、真顔になった。
「貴方は強い人だけど、強いばかりだとはあたしは思わないわ。無理はしないでね、ダーリン」
 キュルケがそれを心から言っていることが表情から読み取れたため、リゾットも頷いた。
 習慣的にリゾットは弱みを他人に見せない。つけこまれるということもあるが、リーダーという立場から、仲間を動揺させないために常に動じない態度を見せるよう、心がけていたからだ。キュルケは自由奔放で大雑把に見えるが、繊細さを持ち合わせている。リゾットの習慣に気付いたのだろう。
「覚えておこう……」
 呟いて、リゾットは部屋を出た。キュルケに励まされた自分に苦笑する。
「……俺も焼きが回ったか。プロシュートが今の俺を見たら即説教だな」
 窓から見える二つの月を見上げ、元の世界の仲間たちに誓う。
(見ていろ。俺たちのしたことは、俺たちが生きてきたことは無意味ではない……。それを俺が必ず証明してみせる……)
 答えはない。だが、リゾットには答えなど必要なかった。水の精霊に誓うまでもなく、心に誓ったことは自分だけが知っていれば十分だ。
 ラグドリアン湖からの風がリゾットのコートの裾を僅かに揺らした。


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