ゼロの奇妙な使い魔 まとめ

忘れえぬ未来への遺産-1

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匿名ユーザー

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 面白い噂を聞いた。
 何でも王都トリスタニアで、魔法の力を使わずに人々を治療する医者の存在が評判になっていると言う。
 無論例外はあるにせよ、このハルケギニアで医者とは、その多くは『水』系統のメイジのことを指す。
 人体の構造を詳しく学び、患者の容体を正確に把握して、それに適した薬を調合する。
 少なくとも、そうした一連の所作に『水』系統のメイジが最も向いているのは間違い無い。
 我がヴァリエール家が昔から世話になっている係り付けのお医者様もまた、優れた『水』のメイジだ。
 それなのに、よりにもよってハルケギニア随一の魔法国家であるトリステインの王都で魔法とは無縁の治療を行っている医者がいるとは。
 面白い、トリステイン王国が誇る王立魔法研究所(アカデミー)に勤める一研究者としても、その医者の行う治療とやらには興味がある。
 折角だから、一度ぐらいはその医者とやらの顔を拝みに行ってやろうでは無いか。

 次の休日が訪れると共に、早速私はその医者が居を構えていると言う病院へとやって来ていた。
 だが、まずその段階で私は驚かされることとなった。
 とにかく、人が多い。
 その医者に看て貰う為にやって来た大勢の患者が、家の前で長蛇の列を作っているでは無いか。
 しかも順番を待つ客の中には、貴族と思しき身なりの良い人物もちらほらと混ざっている。
 成る程、その医者とやらは余程腕が良いのだろう。
 貴族の客が取れる程に繁盛しているならば、噂が私の耳にまで届いて来るわけだ。

 しかしこれには参った。
 ただの様子見で来てみたはいいが、これでは何時まで経っても噂の医者当人には会えそうに無い。
 平民達を押し退けて強引に入るか?
 不可能では無いだろうが、あまり好ましい行為とは言えないだろう。
 何しろ待っている客の中には貴族らしき連中も何人か紛れ込んでいるのだ。
 誇り高きヴァリエール公爵家の長女ともあろう者が、礼儀正しく待っている彼らを差し置いて、この行列に割って入るのでは、彼らに対して示しというものがつかない。
 気は進まないが、やはり一人で並ぶしかないのだろうか。
 暫くの間、私がその場で逡巡していると、後ろから突然誰かから声を掛けられる。
「おや、貴女様はもしかして、エレオノールお嬢様では?」
 驚いて後ろを振り向いてみれば、そこには見知った顔があった。


 大きな帽子と長く伸ばした髭。そして怪我でもしているのか、右腕に包帯を巻いた長身の男。
 ジャン・ジャック・フランシス・ド・ワルド子爵。
 最近は会ってなかったが、ヴァリエール家の隣に領地を持つ貴族であり、昔からの知人の一人だ。
 確か魔法衛士隊に入隊して、今は隊長を務めていると聞いたが、こんな所で会うとは意外だった。
「これはこれは……お久しぶりですわね、ワルド子爵」
「やはりそうでしたか。いや、本当にお久しぶりです。こんな所でお会いするとは奇遇ですな。
 やはりエレオノールお嬢様も、彼の噂を聞いてこちらまで?」
「ええ、噂の名医に少し興味があったもので。しかし、その言い方では、もしかして貴方も?」
「はい。お恥ずかしながら、先日の任務の際に少々油断をしてしまいましてね。この通りですよ」
 軽く肩を竦めて、ワルド子爵は包帯の巻かれた右手を見せる。
 よく目を凝らすと、うっすらと血が滲んでいるようにも見える。結構な深手のようだった。

「しかし子爵?城には軍専属の医師がいるはずでは?」
「ははは。確かにそうなのですが、それよりもあの医者の治療を受けた方が早いのですよ。
 それに私が怪我をしていれば、彼に会う為の名目も立つ。
 メイジでは無いとは言え、あれ程の医療の技を持つ者ならば、是非とも我がグリフォン隊専属の医療班としてスカウトしたい。以前から何度も話をしてはいるのですが、中々首を縦に振って貰えませんでな。実は今日私がここに来たのも、寧ろ今度こそは!という、そちらの方が目的でして」
 鷹揚に笑うワルド子爵の言葉に、私は内心で結構な驚きを覚えていた。
 若くして実力で魔法衛士隊の隊長になっただけのことはあり、この男は中々にプライドの高い人物だ。
 そんな彼にここまで言わせるとは、その医者とやらは一体どんな人物なのだろう。
 私の中の好奇心が益々膨れ上がって行くのが、自分でもはっきりと実感出来ていた。
「っと、ここで立ったままでは埒が空きませんな。我々も列に並びましょう。
 不肖このジャン・ジャック・フランシス・ド・ワルドめが、お嬢様をエスコートさせて頂きますぞ」
 思い出したようにそう言って、軽く頭を下げたワルド子爵が左手を差し出して来る。
 確かに彼の言葉通り、新しい客が次々に行列へと加わって来る。
 これでは冗談を抜きにして、医者当人に会えるのは日も暮れた後になるかもしれない。
 私はワルド子爵の面子を守ってやる為に、一応差し出された彼のその手を取ってやった。

 行列に並んで時間を潰す間中、ワルド子爵はずっと私の末の妹であるルイズの話題で盛り上がっていた。
 私は適当に相槌を打ちながらも、その大半を聞き流しておく。
 別に私はこの男のことが嫌いな訳では無かったのだが、ルイズが大きくなった頃――
 いや、今でも私にとっては泣き虫で意地っ張りなちびルイズのままなのだが、ともあれ互いの両親が、冗談半分であの子とワルド子爵との婚約話を持ち上げて来た辺りから、この男の話題はルイズのことばかりだった。 
 それ以降、この男は私の中で特に顔を会わせたくない人間の一人に含まれることとなった。
 顔を会わせればルイズ、ルイズ、ルイズ、ルイズ……喧しいにも程がある。
 何よりも、私を差し置いてルイズが男にもてると言うのが気に食わない。
 この私など、相手の男に「もう限界だ」と言われて婚約を解消されたばかりだと言うのに。
 まったく、腹立たしいことこの上ない。
 だが勿論そんな私の苛立ちなど通じる筈も無く、ワルド子爵は上機嫌に話を続けている。
「……それでですね、その時僕は言ってやったのですよ。
 貴族たる者、誇りを忘れるな。メイジであるならば自らの技の全てを用いて戦え、って。
 いやあこの言葉、実は昔ルイズを慰める時に言った言葉そのままなんですよね。
 だけど当然皆はそんなこと知らないから、もう皆は大感激の坩堝でしてねえ。
 あれは本当にルイズのおかげですよ……そうだ、今頃ルイズはどうしているんだろう。
 ああ、僕の可愛いルイズ。魔法学院での一人暮らしの中で、泣いていなければいいのだけれど。
 そうそう、一人暮らしといえばですね、僕が実家を出て衛士隊に入った頃……」
 ええい、うるさい!うるさい!うるさい!
 良くもまあ、こうまで一人でペラペラと喋り続けられるものだわ!
 正直に言って、行列に並ぶ以上に、ワルド子爵の長話の方が我慢ならなかった。
 だからこの男と顔を会わせるのは嫌なのだと、私は改めてその認識を確かなものとする。
 何だか私まで別の意味で気分が悪くなって来た。
 良くも今この場で逆上しなかったものだと、自分で自分を誉めてやりたいくらいだった。

「はーい。次のお客さんどうぞー」
 いい加減辟易して来た所に、ようやく天の助けとばかりに若い娘の声が聞こえて来る。
 その言葉だけで、何だか救われた気分になった気がするのはただの錯覚だろうか。
「ようやく順番が回って来ましたな。……おや、顔色が優れぬようですが、大丈夫ですかな?
 やはりエレオノールお嬢様には、このような場所で長時間待たれるのは酷だったかもしれませんな。
 少しの間、中で休ませて頂くのも良いかもしれません。さあ、参りましょう」
 誰のせいだと思っているんだ。怒鳴り散らさなかっただけ良かったと思え。
 私は能天気に笑みを浮かべるワルド子爵に殺意すら覚えながら、彼と共に家の中へと入る。
「いらっしゃいませー。あ、ワルド様。またいらっしゃったんですか?」
「やあ、久しぶりだね」
 ぱたぱたとこちらに駆け寄って来た黒髪の娘が、ワルド子爵の顔を見てそんなことを言って来た。
 どうやら知り合いらしい。彼の方も慣れた様子で娘に向けて軽く会釈する。
「ええと、確か君は……」
「ジェシカです。酷いなぁワルド様、あたしのこと忘れちゃったんですか?」
「いやすまないね。毎回、手伝いの者が変わるから中々覚えられなくてね」
「あー。なんかもっと酷いこと言ってるー。……っと、そういえばワルド様、そちらの方は?」
 それまで快活に喋っていた娘は声のトーンを落として、遠慮がちに私の方を見て尋ねて来る。
「ああ。この方は私の古い知人さ。ところでジェシカ、先生はいらっしゃるかな?」
「はい、勿論です。ジョジョ……じゃなくて先生ー?次のお客さんですよー」
「おーう。連れて来てくれー」
 良く通る声で叫ぶ娘の言葉に、これまた若い男の声が奥の部屋から響き渡って来る。

「ではお二人とも、こちらへどうぞ」
 私の方にチラチラと視線を送りながら、妙に畏まった様子でその娘は私達を奥の部屋へと案内する。
 恐らく私のことを貴族だと判断して、それで機嫌を損ねないよう慎重に対応しているのだろう。
 実際、私が貴族なのは間違い無いのだ。
 平民ながら、この娘は人を見る目や他人への配慮が良く出来ていると感心する。
 出来ていないのはこのワルド子爵だ。しかもこの男、平民の娘に気さくに話し掛けられても全然気を悪くした様子を見せないとは、どうやらかなり頻繁にこの場所へと通い詰めているらしい。
 この間抜け面に魔法の一つでも叩き込んでやろうかしらん。
 そんなことを心の底で思いながらも、私達はドアを潜り抜けて噂の医者と対面する。
「よお。誰かと思ったらワルドの旦那じゃないですかい。アンタも懲りない人だね」
「ははは。君を我が隊にスカウトするまでは、決して諦めないつもりだよ、ジョースター先生」
 その人物は先程の娘に負けず劣らず、いやそれ以上に砕けた様子でワルド子爵に声を掛けた。
 椅子に座っているが、それでもかなりの長身で筋骨逞しい大男であることが見て取れる。
 短い黒髪。端整に整った顔立ちには、それとは対照的な野性味に溢れた魅力が感じられた。
 そして私が聞いた噂通りに、左の手首を失っている――若い男。
 間違いない。この男こそが今トリスタニアを賑わせている平民の医者なのだ。
「……おや、旦那が女連れとは珍しい。ハハァ~ン、もしかして旦那のコレかい?憎いねェこのこのッ」
 ジョースターと呼ばれた医者は、右手の小指を立てながらニヤけた表情を作って言う。
 それが意味する所まではわからなかったが、何か非常に不愉快なことを言われている気がする。

「いやいや。この人はそんなんじゃないよ。
 昔からの知人であることには違いないが、今日はたまたま偶然そこで会っただけだよ」
 この人の妹さんとそういう関係になるのはやぶさかでは無いがね、と付け加えるワルド子爵。
 いちいち一言多いのよ、貴方と言う男は。
「あ、そーなんスかい?まあ、無理もねーか……ここまでペッタンコな姐さんじゃあなァ。
 やっぱこー、女はジェシカみてぇーにボインッ!と来ねーとな。こうボインッ!とさ」


 ぷつん。


 切れた。今、その男が口にした言葉によって、私の中で決定的な何かが、切れた。


「ジ……ジョジョ!!」
 顔面を蒼白にして、ジェシカと呼ばれた娘が悲鳴のような叫びを上げる。
 気が利く上に聡い。出来るならば、我がヴァリエール家にメイドとして欲しいくらいだ。
 だが、もう遅い。彼は禁忌に触れてしまったのだ。
 この私、エレオノール・アルベルティーヌ・ル・ブラン・ド・ラ・ブロワ・ド・ラ・ヴァリエールにとって、決して触れてはならない禁断の扉。
 それを今、この愚かで哀れな平民の男は、自らの手で開いてしまったのだ。罰を犯した者には裁きを与えねばならない。
 それが世の理であり、この男に訪れるべき運命なのだ!
「こッ……こッ………この無礼者ぉぉぉぉぉぉーーーーーーーッ!!!!」
 咆哮と共に放たれた私の鞭の乱舞が、その男に向けてしたたかに打ち込まれる。
 それらをまともに受けた彼は、もんどりうって椅子の上から思い切り転げ落ちた。
「オーノー!なんてことしやがるんだこのアマァァァーーーッ!?」
 慌てて上半身を起き上がらせて、男は非難がましい視線をこちらの方に向けながら叫び出した。

「お黙りなさい!平民の分際でよくぞ言ったわこの痴れ者がッ!そこになおれ!手討ちにしてくれる!」
「ンなコト言われて素直にホイホイ従う奴ぁーいねぇぜ!
 ったく、そんなにピリピリしてちゃ男が寄って来ねーぞ?折角の美人なのに勿体ないぜ!」
「なんですってぇぇぇぇ!!!」
 再び、この男は触れてはいけない私の傷口に触れてしまった。
 一応最後は誉められた気もするのだが、怒りで頭に血が上った私には、そんな言葉は耳に入らない。
 殺す。絶対に殺す。明確な殺意を胸に秘めて、私は男に向けて第二撃、三撃を振るう。
「ヌゥゥ、こりゃ参ったぜ。相手はお客、しかも女と来た…ハデにブッ倒すのは流石に気が引けるぜ…。
 ならばここはジョースター家に伝わる伝統の戦法!それは……『逃げる』!!」
「お待ちィィィッ!!」
 その巨体から想像出来ない程の俊敏な速度で、男は私の鞭を逃れて言葉通りに逃げ出して行く。
 最早その一挙手一投足の全てが、私にとっては神経を逆撫でする物にしか映らなかった。
「あああ…ジョジョってばぁ…!貴族の方になんという無礼を……!
 終わりだわ、もうお終いよぉ。『魅惑の妖精亭』の皆も首を刎ねられちゃうのよぉ」
「いや、流石のエレオノールお嬢様でもそこまではしないと思うが…」
 頭を抱えて呻く娘に向けて、呆れたように、しかしどこか自信なさげにワルド子爵が口を開く。

「甘過ぎるわワルド様!女の子にとっておっぱいは誇り!そして武器なんです!
 ジョジョは今、あの方の女と貴族、両方のプライドに障ることを言ってしまったんです。
 あたしだって同じ立場であんなこと言われたら、きっと凄く怒ったと思いますもん」
「君が胸の話を語ってもあまり説得力が無い気もするが……
 それに中には胸の大きくない女性の方が好みの男もいるだろう。例えば私のようにな。
 やはり女性の胸は無い方がいい…背も低ければなお良い…更に10歳ぐらい年下ならば最良だな。
 ああ、ルイズ。僕の愛しい人よ。
 幾ら胸が薄くて顔立ちが似ていても、僕より年上である君の姉君では全然違うよ。
 うら若き乙女へと成長したであろう君に、僕は今すぐ会いたブゴォ!?」
「わーっ!?ワルド様ーッ!?」
 好き放題言ってくれたワルド子爵の顔面に、私は魔法で大男が座っていた椅子を叩き付けてやる。
 馬鹿者め。激情に駆られているからこそ、自分に対する悪口は良く聞こえるのよ。
 目を回して昏倒するワルド子爵の介抱はジェシカという娘に任せて、改めて私はしつこく逃げ回る大男の方へと意識を向ける。
「ヒェ~、おっとろしい女。リサリサ先生とはまた違った迫力があるぜ……」
 壁際に追い詰められながらも何やら呟いている大男に向けて、私はじりじりと近寄って行く。
 右手に鞭。そして左手に魔法の杖。
 もう男に逃げ場は無い。少しでも動いたらその瞬間に魔法を叩き込んでやる。
 私達が暴れたせいで、診察室としての体裁を整えていた筈の部屋の中は滅茶苦茶だ。
 特に、テーブルに置かれていた洗面器も見事なまでにひっくり返され、中に浸してあった水も今では派手に床へとぶち撒けられている。そのせいで一歩進む度にぴちゃりとした水音が室内に響き渡り、その感触と共に、私の靴底にもじんわりと水が染み込んで来るのが実感出来た。
 今にも泣きそうな表情でこちらの様子を見やる手伝いの娘には、少しだけ申し訳無いことをしたかとも思うのだが、目の前の大男に対する同情心は一切湧かない。
 あらゆる意味で私のプライドを傷付けてくれたこの男だけは、断じて許す訳にはいかない。

 男は少しだけ考え込むようにして、やがて意を決したように口を開いて来る。
「……なあ、姐さん。一つ聞きたいんだが、ここで素直に謝りゃー許してくれるのかい?」
 愚問だった。聞く価値も無い。慈悲を請うならば、その者に赦されるに足る資格が必要だ。
 そしてこの男には、掛けてやるべき同情や憐れみなどあろう筈も無いのだ!
「ウフフフフ。許すとお思い?お前のような愚かな平民如きに、そんなうまい話があるとでも?」
 ひゅん、と虚空に向けて鞭を一閃。今日もいい音で啼いている、私の頼もしき相棒。
 気分はまさに絶好調。この鞭が再びこの男を捉えるのも時間の問題だ。
「あー、やっぱ駄目か……ま、だったらしゃーねーか」
 壁を背にする男は、そう呟いてから頭をぼりぼりと掻き始める。
 妙に余裕綽々なその態度が、私の更なる怒りと――そして妙な不安感を、同時に掻き立てる。
 いいや、ただの平民に過ぎないこの男に何が出来る。
 自分の中の不安感を無理矢理打ち消して、私は男に向けて更なる一歩を踏み出す。
「さて姐さん、気付いていたかい?俺の左手の様子をさ。包帯しか捲かれてねーだろう?」
 言われるがままに、私は男の左手に注意を向ける。やはり腕の先の手首が無い。
 そして傷口を庇うように捲かれていた包帯が今は解けて、水がぶち撒けられた床へと触れている。

「そして!次にあんたは『その包帯がどうした』と言う!」
「一体、その包帯がどうしたと言うの……ハッ!?」
 自信に満ち溢れたその男が宣言した通りに、私は口を開いてしまう。
 彼の言葉にはこちらに有無を言わせない程の『凄み』すら感じられた。
「それがイイのさ!この包帯が解けてるからイイんだぜェーッ!」
 会心の笑みを浮かべて、男はコォォォォ…と独特の音を立てながら深く息を吸い込み始める。
 常人と比べても桁外れの呼吸量だった。
 そして私が身動きをするよりも早く、男は無事な右手を自分の左腕に叩き付けて一喝する!
「波紋疾走(オーバードライブ)!!」
 男の右手に得体の知れない光が輝いたと思った瞬間、その光は左手に捲き付いていた包帯を通して、床にぶち撒けられていた水溜まりに向かって流れて出す。
 そのまま水溜りを通して、男が生み出した光はまっすぐに私の足元へと伸びて行き、やがて光が私の体に触れると同時に、私の全身に痺れるような感触が走った。
「な……あっ!?」
 たまらずに、私は手に持っていた鞭と杖を同時に取り落としてしまう。
 地に落ちたそれらを拾うべく、慌てて体を傾けようとするが、私の体はまったく言うことを聞いてくれない。
 まるで別の誰かに自分の体を操られているかのようだ。
 そうか。これこそが、この男の持つ『力』。
 この『力』を利用して、彼は今まで大勢の人間を『治療』して来たのだろう。
 私がそのことを理解すると共に、男は弾かれたように猛然と私の方へと駆け出して来る。
 そして身動きの取れないままでいる私の顔に手を伸ばし、その顔を近付けて来て――


 ズキュウウウウウン!!


「や……やった……ッ!」
 今度こそ絶望の表情を浮かべながら、ジェシカと言う娘が天を仰いだ。 


 名状し難い衝撃が、私の全身を駆け抜ける。
 互いに深く触れ合う私と男の唇。私の口の中に熱い塊が入り込み、私の舌を絡め取る。
 男の吐息が私の顔に触れる。その感触の熱さが私の思考を溶かして行く。
 既に頭の中は真っ白だ。何も考えられない。体に力が入らなかった。


 どれだけの時間、私達はそうしていたのだろうか。
 やがて男の方が私の顔から唇を離して、そのまま彼は深く息を付いた。

「フーッ……さっき俺が『男が寄って来ねーぞ』って言ったらプッツンしたってコトは
 つまりこの姐さんには今、男がいねーワケだ。それにこんだけ気が強けりゃあ、並の男じゃあマトモに付き合えねーハズ。と来ればこの姐さん自身もあんま男に慣れてねーだろうから、ここは一発シタ入れてキスでもしてやりゃあ大人しくなるかと思ったんだが……どうやら上手く行ったよーだぜ」
「なぁーにが上手く行った、よぉぉぉ!!」
 叫び声を上げながら、目に涙を浮かべた娘が男の許へと駆け寄って来る。
 そのまま彼女は男の襟首に手を伸ばして、がくがくと力一杯に揺さぶり出した。
「貴族のお客とケンカするだけならまだしも、こんなコトまでしちゃったら間違いなく死刑よ!?
 もうお終いだわ、あたし達みーんな殺されちゃうわ。
 ねえジョジョ、こうなったらパパやあたしと一緒に遠くへ逃げましょう?
 今のお店も畳んでさ、どっかの田舎でお医者様やってのんびり暮らすの。そうよ、それがいいわ。
 そうしましょう?ねえ、いいでしょうジョジョ、それでいいって言って。言ってってばぁ!!」
「ウゲッ、離せジェシカ!苦しいって!オーノー、息が出来ねーっ!」
「うわあああん、ジョジョのバカーっ」

 目の前で大騒ぎする二人の声などは、今の私の耳には全く入っていなかった。
 唇を、奪われてしまった。
 誇り高きヴァリエール公爵家の娘が、こんな場所で、よりにもよって平民の男に。
 思考が纏まらない。今の行為の意味を正しく認識することを、頭の方が拒否しているようだ。
 やがてそのショックに耐えられなくなった私は、最も安易な、意識を失う道を選んだのだった。

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