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“Representer”

三“記号の表象作用 (La Representetion Du Signe)”


古典主義時代における記号 (signe) の変化の重要性(p.83上)

17c.前半に変化し、その変化がきわめて長い期間に影響を与えたものこそ signe の存在 d'etre に他ならない。この時期 signe は類似とは違うものとなる。

古典主義時代の、signe を規定 (difinir) する3つの可変要素 (variables)

1. 結合関係の起源  ― 自然的 or 約束による〔人為的〕
Ex)鏡の中の反映と実物との結合(自然的)⇔ある集団にとってのある観念とそれを指示する特定の語との結合(人為的)
2. 結合関係のタイプ ― 指示対象に属する or 指示対象と切り離されている
Ex)良い顔色と健康との結合(指示対象に属する)⇔旧約聖書の象徴とキリストの化肉と贖罪(l’Incarnation et du Rachat)との遠い結合(指示対象と切り離されている)
3. 結合関係の確実性 ― 確実〔必然的〕 or 蓋然的〔偶然的〕
Ex)呼吸と生命との結合(確実)⇔蒼白い顔と妊娠との結合(蓋然的)

※これらの結合関係はいずれも『相似関係を必然的に含む』ものではない
Ex) 叫びは恐怖を指示するが、二つは似てはいない
この3つの可変要素が、類似関係にかわって経験的認識領域における signe の有効性を規定する。 (p.83下)

一) 結合関係の確実性 (3.) から(pp.84上~85上) signe の配置は世界から認識の内部へ そして知は占いと切り離される

signe はつねに確実もしくは蓋然的なものであるから、認識の内部になければならない。(p.84上)

16c.では signe は物のうえに置かれていた〔signe は認識の外部にあった〕。(p.84上)

17c.以降 signe は確実なものと蓋然的なものとに分割される。(p.84上)

ここにおいて知は 占卜(divinatio) との古い関係を断絶する。(p.84上~下)
占卜のつとめは神によって世界のうちにあらかじめ配分された言語(langage)を拾い集めることであった。(devinatio >> deviner (見抜く) >> divin (神的な))
しかし今では signe が記号として働く(signifiant)のは認識の内部においてであり、signe はその確実性や蓋然性を認識から借り受ける。

二) 結合関係のタイプ (2.) から(pp.85上~86下) 距離の収斂から距離の拡散へ

16c.には相似は、適合と競合と共感、とりわけ共感によって空間と時間に対して勝利を収めていた。(p.85上) なぜなら signe は物を引き寄せ結びつける機能を持っていたから。
しかし古典主義とともに signe は〔結びつける機能とは〕逆に本質的な分散性によって特徴付けられることとなる。(p.85下) 収斂〔収束〕的記号の円環状の世界は無限に展開〔拡散〕する世界に代わることとなる。

signe は要素としてそれが指示する対象の一部をなすか、そのものから(現実には)切り離されるか、この2つのどちらかの立場をとるであろう。ただしこの二者択一は完全なものではない。なぜなら signe が機能するためには、signe は記号であるところのもの (signifie) に挿入される〔一部をなす〕と同時にそこから要素として区別され〔このとき全体全体は分割される〕、漠然と結びついていた全体的印象から取り出され〔切り離され〕なければならないからである。このようにSigne の成立は分析と不可分のものである。(pp.85下~86上)

さて、分析なしに signe が出現し得ない以上、signe は分析の結果である。しかし同時にまた、分析された signe が新しい印象〔全体〕にも適用される以上、signe は分析の手段でもある。精神が分析を行うがゆえに signe があらわれ、精神が signe を手にしているがゆえに分析は際限なく続く。(p.86上)

古典主義時代の思考における signe は距離を消滅させもしなければ時間を廃絶しもしない。逆にそれらをくりひろげ、一歩一歩それらを踏破することを可能にする。Signe によって、ものはたがいに区別されるものとなり、それぞれみずからの同一性のうちにとどまりながら、ほどけ、そして結ばれる。西欧の理性は判断の時代に入るのである。(p.86下)

三) 結合関係の起源 (1.) から(pp.85下~88上) 自然と人為の逆転 要素探求と結合操作の相互依存

16c.にも自然によって与えられたsigneと人間に作られたsigneとの違いはあった。しかし人為的signeは自然的signeへの忠実性に支えられていた。〔人為的 signe < 自然的 signe だった。〕(p.86下)

しかし17c.以降自然的 signe はむしろ人為的 signe の未完成なものと捉えられるようになる。〔人為的 signe > 自然的 signe になった。〕自然的signeは、物から取り出された一要素で認識によって成立せしめられたものであり、強課された融通のきかない不便なものであるとされる。一方人為的signeはいつでも単純で、記憶しやすく、無数の要素に適応できそれ自体分割と合成が可能なように選べる(選ばざるを得ない)ものである。こうしたsigneが人間と動物を区別し、自然発生的想像力を意志的記憶に、注意力を反省に、本能を理性的認識にする。(p.86下~p.87上)

ところで signeを決めるものはその機能であり、signe の規則を決めるのも機能である。signe の恣意的体系は、物をそのもっとも単純な要素に分析しものの起源〔要素〕にまで分解する機能〔分析機能〕と、それらの要素の組み合わせ〔連結〕がいかにして可能かを示し物の複雑性の発生過程を観念の上で理解させる機能〔総合機能〕を持たなければならない。こう考えると、「恣意性〔人為, 記号〕」が「自然性」と対立するのは signe が設定された際の仕方〔要素〕を指示するときであって、結合combinatoireの空間においては対立するものではない。(p.87上)

古典主義時代においてsigneの体系とは、その完成された形において、要素的なものの命名を可能にする単純で絶対的に透明な langue であり、同時にすべての可能な連結を規定する操作の総体に他ならない。この二つの機能は我々からは両立しがたく見える。しかし要素的なものとの探求〔分析〕と普遍的計算〔総合,結合〕とが一つの人為的体系の内部で相互依存の関係におかれることが、古典主義時代を貫くエピステーメー(l'episteme)なのである。Signeを用いることはもはや永遠に語られ語りなおされる言説(discours)の原初的テクストをsigneのしたに再発見しようとこころみることではなく、自然を自らの空間の中で展開させることを可能にする恣意的言語(langage)、自然の分析における最終的な項、そして自然の合成法則を、発見しようと努めることである。知は古い言葉(parole)を未知の場所から掘り起こすのではなく、一つの言語(lange)を創りださねばならない。(p.87下~p.88上)


まとめ


今や signe の体系が古典主義時代の志向に対して指定する道具を規定することは明らかであろう。signe の体系が認識のうちに蓋然性、分析と結合(combinatoire)、体系の正当化された恣意性を導入する。起源の探究と計算可能性、可能な合成物を定める表(tableaux)と、もっとも単純な要素からの発生過程の復元を同時にみたすのもsigneの体系であり、すべての知を一個の言語(langage)に近づけ、既存のすべての言語(langue)に人為的記号(symboles)と論理的性格の操作との体系を置き換えようとするのもsigneの体系である。17c.初頭のSigneと類似との分離が 蓋然性、分析、結合(combinatoir)、体系、そして普遍的言語(la langue universelle)といった新たな形象を、必然性の単一な網目として出現させた。(p.88上~下)

四. 二重化された表象


signe の二元性


三では述べなかったが、古典主義時代のエピステーメーにとって最も基本的なものは signe の二元性である。

signe の二つの要素とは、あるものの観念(signifiant) と 他のものの観念(signifie)のこと。 (pp.88下~89上)

cf.ルネッサンスにおける signe についての理論――三元論
  • 標識 (represente) によって示されるもの〔signifie に対応〕
  • 標識となるもの〔signifiant に対応〕
  • 後者のうち前者の標識を認知することを可能にするもの〔後の表象作用に対応 ルネッサンス期の類似の象徴でもある〕(p.89上)

二元性の条件 能記 signifiant の二重性


けれども signe がこのような二元的存在となるにはひとつの条件がある。signeifiant は、signifie との関係をも明示しなければならない。つまり signifiant は要素として何かを表象しなければならないだけではなく、表象作用も自身の中に表象しなければならない。(p.89上~下)

これは三元的体系への回帰ではない。実際 signifiant は、それが表象しているもの以外、一切の内容・機能・決定因を持たない。その内容は、自らを表象として示す一つの表象のうちにしか示されない。
cf)ポールロワイヤル論理学があげている signe の最初の例は図である
(pp.89下~90上)

ある観念が他の観念の signe となりうるのは、両者の間の表象関係が表象するほう(signifiant)の観念の内部に常に表象されうるからである。表象作用はそれ自身に対して垂直であり、《指示》であると同時に《自己呈示》、他の対象との関係であると同時に自己の検事だからである。signe とは、《表象可能な》ものとしての表象作用のもつ《表象性》となるのにほかならない。(p.90上)

このことはきわめて重要な帰結をもたらす。

第一の帰結 signe の重要性

signe は知を得るための鍵から、表象作用すなわち思考のすべてと同一の広がりを持ち、それを全体として超えるものとなった。(p.90上~下)

第二の帰結 意味作用 signification の理論の可能性の排除


意味作用は意識の中で限定された形象ではない。(p.91上)

signe の外部に意味はなく、signe に先立って意味 sens はない。〔ここでは signifiant = signe, signifie = sens となっているように思える。〕体系は、意味の分析よりも signe の理論の側に、ある種の特権を与えている。そのため意味は、signe の完全な《表 tableu》のうちに与えられるはずである。(p.91上~下)

だが一方、signe の《表》は物の〔signifie の?〕《模像》に他ならない。意味の存在 l'etre が完全に signe の側にあるとしても、機能は完全に signifie の側にある。〔ここでは意味の存在と signifie が違う意味?〕

第三の帰結 signe の二元的理論が、signe にかかわる一般的理論だけではなく、表象の一般的理論と根本的関係によって結ばれている


関係は表象の一般的な場の内部に設定されるほかない。すなわち、signifiant と signifie が結ばれているのは、両者がともに表彰されている限りにおいて、しかも、一方が現に他方を表象している限りにおいてなのだ。〔signifie が signifiant を表象することもあるということ?〕従って、signe に関する古典主義時代の理論が、それを哲学的に基礎付け正当化するものとして何らかの「観念学」、すなわちすべての表彰形態の一般的分析、を持ったのは当然のことであった。



『言葉ともの』3章5節 類似性の想像力

2006/11/17 フーコー会                        佐々木思郎

ルネサンス時代後=古典主義時代/記号
「世界にひしめきあうものの上に分布させられていた記号は、こうしてそこから解放されたのである。5節p92
=以後記号は、表象作用の内部、観念の間隙、観念がみずからを分解し再合成してみずからとたわむれるあの厚みのない空間に宿ることとなる。

⇒表象作用の分析と記号の理論とは完全に浸透しあっている。
※18世紀の末のデスチュット 
観念と記号(signe)との直接的な相互依存関係が乱れはじめ、両者が互いに他に対してまったく透明であることをやめようとしていること。4節p90

ルネサンス時代後/相似=関係の原基 
 認識の外に転落するより他にない。最も粗雑な形態における経験的対象である。
① 類似性という不正確さの消滅
② 知によって相等なり秩序なりの関係に(類似が)変形されるのでなければ「哲学  の一部と見なせない」(※相似/相等・秩序の微妙な関係)
③ 2つのものの類似が少なくとも両者を比較する機会を提供しなければ、両者の間  に相等性も秩序関係も設定されえない。
④ ヒューム「あらゆる抽象概念が、類似という手段なしで形成されうるかどうか?」
◎ 相似 認識に覆われるべきものでありながら、認識の下にとどまるもの。

その変化
◎ 16世紀と同様、類似と記号は呼び合っているが、新たな容態においてである。

16C 相似に必要とされるのは、秘密を解き明かすための標識(marque)ではなく…
17C 相似は認識が関係と計量と同一性(identité)とを設定する場。
⇒2重の逆転 記号と共に言説的認識全体が相似という背景を要求する
       認識の諸形態に適用の場を提供しうるような内容を提示することが問題
       (認識に先立つ内容を顕在化することではなく)

表象が認識されうるのは、相似であるかもしれぬものと比較され、要素(他の表象と共通な要素)に分析され、部分的同一性を呈示しうる他の表象と組み合わされ、最後に秩序ある表(tableau)のかたちに配分されうる。(いずれも類似によってなされる。)
類似⇔想像力 2重の必要条件p94
類似は想像力の力によってしかあらわれず、想像力は類似を支えとすることなくしては作用しない。
表象の切れ目ない連鎖の中で、類似しない印象を想定したときには、区別ということのために常に必要なかすかな同一性すら与えられていない。
⇒表象の中に過去の印象を現前させる力が潜んでいなければ、いかなる印象も先行するある現象と似たもの/似ていないものとしてあらわれることはないであろう。

=表象されるもののなかには類似の執拗な呟きがなくてはならない。表象作用の中には想像力の常に可能な重ねあわせがなければならない。=2重性

古典主義時代全体つうじて続けられ、
最終的には18C後半の<観念学>の中に共通の真実をみつける。
一方には 継起する表象の系列を、非顕在的だが同時代的な比較の表に、いかにして換位しうるかを説明する分析
   ○無意識的基盤全体≪想像力≫の分析 無意識的想起、想像力、記憶などを対象とする

他方には 物の類似(秩序づけられ、同一の要素とあい異なる要素とに分解され、その無秩序な相似が表の形に配分される以前に物がもっていた類似)を説明する分析
   ○物が部分的に重なり合い、混じりあい、交錯している状態で与えられるのはなぜか。類似関係、漠然とした相似、暗示的機会の形で、秩序が透視されるほど目に付きやすいのはなぜか。(≪自然)の分析)

対立するこれら2つの契機は 「発生過程」という観念の内に統一を見出す。p95
①印象における自然の無秩序という消極的契機
無秩序の契機・漠然たる類似の契機が想像力それ自体のせいにされ、想像力は単独で2重の機能をはたすものと見なされる。
=表象を重ねあわせるだけで想像力が秩序を復元しうるとしても、想像力が物の同一性と相違性を直接その分析的真実を知覚するのを妨げる。
想像力の中に人間の有限性の烙印をみる(デカルト、スピノザ)
②印象からの秩序の再構成という積極的契機
自然は、それ自体の歴史や天変地異のゆえに、あるいはたんにその錯綜した多様性のゆえに、きわめて混乱した様相を呈しており、もはや表象行為に対して互いに類似したものしか提供することが出来ない。
⇒表象行為は、互いに近接した内容に常に束縛されることとなり、みずから繰り返し、みずから想起し、ひとりでにそれ自体の上に折り重なり、ほとんど同一の印象を再生せしめ、かくて想像力を生起させることとなる

○2つの解決法は、厳密な意味で正反対だが同一の問題に答えている。p96
発生論genèseは、正確に<創世genèse>の神話に変わるものとして機能したのである。
※最初の人間(ルソー)、他の世界からこの世界に落ちてきた観察者(ヒューム)
○自然(nature)、人間の本性(nature)という2つの概念は、想像力と類似との相互依存、両者を互いに結びつける紐帯を保障するものとして機能している。

●自然と人間の本性とは、≪エピステーメー≫の一般的布置のなかで、類似と想像力との調整を可能ならしめ、このことによって、秩序に関する全ての経験的学問は基礎づけられ可能とされるのだ。

まとめ
16C 類似 
記号の一体系と結びつき、記号を解釈することが具体的認識の場を開く。
17C以降 類似 
知の境界に追いやられ、想像力、不確かな反復、模糊とした類比に結びつく。同一性と相違性と秩序との形態にしたがって展開する知の表へとさかのぼる、一つの発生過程を含意する。秩序の学の企ては、認識の発生論によって裏打ちされることを含意した。

6「マテシス」と「タクシノミア」p97

古典主義時代に構成された経験性の空間
  • 秩序に関する一般的な学問。
  • 表象を分析する記号の理論。
  • 同一性と相違性との秩序ある表への配分。
※ルネッサンスの終わりまで実在せず、19C初頭には消滅する運命にある復元困難な空間。

○人々は、人間・自然・生命のどれ一つとして、知の好奇心に対して自然発生的かつ受動的に提供される領域ではないことを忘れている。→既存の18Cの学の再構成の批判

秩序と認識の関係 古典主義時代の≪エピステーメー≫を可能にしているもの
  • 単純な自然を秩序づけることが問題であるとき、<代数学>を普遍的方法とする≪マテシス≫に人は訴える。
  • 複雑な自然(経験において与えられるような表象一般)を秩序づけることが問題であるとき、≪タクシノミア≫を成立させる必要があり、そのためには記号の体系を設定しなければならない。

※経験的表象が単純な自然に分析されうるはずだという限りにおいて、タクシノミアはすべてのマテシスに帰着する。(特殊/経験的なもの→普遍 演繹)
⇔明証性の知覚が表象一般のなかでの特殊な場合にすぎない以上、マテシスはタクシノミアの特殊な場合に過ぎぬともいえる。(普遍→特殊 帰納)

思考がそれ自身で設定する記号は、いわば複雑な表象の代数学ともいえるものを成立させ、代数学は、単純な自然に記号をあたえ、それらに基づく操作を行う方法

タクシノミア 認識の起源を考察することの必然性 経験的分析p97-98
タクシノミア 物のある種の連続体と、存在しないものを出現させながら、まさにそのことによって連続体を明るみに出すことを可能にする想像力のある種の能力を前提にする。
→経験的秩序に関する学問の可能性は認識についてのある種の分析を必要とする。
  • 存在の隠された連続性が、不連続な表象の時間の中での結びつきを通じて、いかにして再構成されうるかを示す分析。

経験的分析は、普遍的<マテシス>の企てに対立するものではない。もはや<同一者>の経験ではなく<秩序>の設定となった知の必要条件の中にこの分析は含まれている。

マテシス・発生論の間 記号の分野(表の空間)
計算可能な秩序の学としてのマテシスと、経験的なものの列から出発していかにして秩序が成立するかを分析する発生論とが古典主義時代のエピステーメーの両端に位置する。
その間には 記号の分野/表の空間 が広がっている。
①同一性と相違性に対する可能な操作を表す人為的記号simbol   マテシス
②物の類似と想像力の遡行とによって次第に蓄積される標識marque 発生論

こうした知において、知覚、思考、欲望などのわれわれの表象行為がわれわれに提供しうるすべてのものに対して、記号を与えることが問題となる。

○ 記号は特徴として価値を持つ。表象の総体を明瞭に区別され、指定しうる特質によってたがいに分離された、いくつかの領界に分節化するものでなければならない。
○ 記号は表象相互の遠近と親疎を表す同時的な体系――時間継起の問題を離れて表象相互の近縁関係を明らかにし、それらの秩序関係を永続的な空間において復元する網目――の設定を可能にする。

相等性の計算と表象の発生論との間に古典主義時代に実在した3つの領域
表の基本的空間の創設により
博物学 histoire naturelle 分類の理論
自然の連続性と錯綜状態を分節化する特徴の学
貨幣と価値の理論 théorie de la monnaie et de la valeur 貨幣の理論
交換を可能にし人間の様々な必要や欲望の間に等価関係を設定する記号の学
一般文法 Gramaire générale 言語の理論
人間が個別的知覚を分類し思考の連続的運動を裁断するために用いる記号についての学

マテシス・タクシノミア・発生論という3つの概念は、古典主義時代における知の一般的布置を規定する緊密な相互依存の網目réseau,network を指示する。

タクシノミアはマテシスの中に宿り、それでいて区別されている。
タクシノミアもまた秩序ordreの学――すなわち質的マテシス――である。
→マテシス 相等性の学 真理の学
タクシノミア 同一性と相違性を扱うもの 分節化と分類階級の学 諸存在に関する知

発生論はタクシノミアの内部に宿り、少なくともそこに本源的可能性を見出す。
→タクシノミアは可視的相違性の表をつくる。発生論は継起的系列を前提としている。

タクシノミア
諸存在の一般的法則を規定し、同時に諸存在の認識が可能であるための諸条件を規定する。
⇒記号の理論が、自然そのものの認識と称する独断的様相を帯びた学問と、時と共に次第に唯名論的・懐疑論的になってゆく表象の哲学とを同時に担えたという事実の由来。
   →この破綻と共にこのような配置は消滅するという事実もここに由来する。
○カントの批判哲学・18世紀末に西洋文化に起った全ての出来事の後で新たな分割

新たな分割以降
①マテシスは再編成され、命題学と存在論を構成することになる
  ●今日まで形式的学問を支配してきたのはこのマテシスに他ならない。
②歴史と記号学とは、解釈に関わるあの諸学に合流する。
  ●シュライヘルマッハーからニーチェ、フロイトまでその力を発揮した。

○ すべての学問は、例え遠いものにせよ、常に網羅的秩序づけの企てを抱いている。
○ 学問は、単一な諸要素とそれらの漸次的合成過程の発見を目指している。
○ その中間地帯において、学問は表、すなわち認識をそれ自身と同時的な体系として展開したもの。
※17C、18Cの知の中心は表であり、諸説の次元における大論争は、システムの折り目に宿る
思考の歴史を書く事
  • 実定的な網目が、共存する一見矛盾した様々な諸説のたわむれを可能にしている、思考の一般的体系を再構成すべきなのだ。
  • 論争や問題の生じうる条件を規定するのはこの網目であり、知の歴史性をになうのもこの網目である。

西洋文化のエピステーメーは、記号と類似との際限のない円環を消滅させた後、因果性と歴史との諸系列を組織するのに先立って、表の形をした一つの空間を開き、この空間の中を、秩序の計算可能な形態からもっとも複雑な表象の分析に至るまで、絶えず往復し続けた。

経験的な知、すなわち、量的でない秩序の大きな網目が、いわば点線によって描かれていった。そしてリンネが自然あるいは社会のあらゆる具体的領域に同一の分布と同一の秩序を見出そうとするとき、「タクシノミア・ウニウェルサリス」の遠い、だが執拗な一貫性は、恐らくもっとも明瞭な形であらわれる。
知の極限は、全ての表象がそれらを秩序づける記号に対して完全に透明になることなのだ。