秋森良樹編 第三話『美人教師の秘密』(5)

 さっきの悪戯で少しだけ気分がすっきりした俺は、座ったまま動けない亮輔たちの所に
向かう。この三人は席が集まっているから、全員が座りっぱなしでも話ができる。
「…いい夢をみたぜ…」
 案の定、亮輔がにやにやとした表情で俺に話し掛けてきた。
「その顔を見ると、よっぽどエロい夢だった見たいだな」
 どんな『夢』だったのか俺はよ~く知っているが、あえて尋ねてやる。途端に亮輔は意地の悪い
笑みを浮かべた。
「そいつは秘密だ……まぁ、このクラスの女全員がかかわってるとだけ言っておこうか」
「…」
 俺は驚きが顔に出そうになるのを慌てて押さえる。こいつ……あの一瞬で女子の顔まで
把握したって言うのか? すごいのは、ビデオコレクションばかりじゃなかったんだな……。
 このAVマスターに、少しばかり戦慄を覚えた。
「そ、それより、なにか新しいネタは浮かんだか?」
 俺はごまかすように話を変える。ツッコミがない事に亮輔は不満そうな顔をしたが、
すぐに自信ありげな顔になって口を開いた。
「ああ! 時人とも話してたんだがな、『薬製造機』にエロ本ぶちこんで薬にするんだ」
「それで?」
「あの道具に虫取り網を入れると虫歯が痛まずに抜ける薬が出来るっていうからさ、
エロ本で薬作ったら、きっと媚薬になるぜ…それを女に飲ませりゃ、へへ、
すごい事になると思わないか?」
「ああ、そうだな」
 媚薬、か…悪くないな。
「けど、その薬を目当ての女に飲ませるのも問題だな」
「それならいい解決法があるぞ」
 時人がその長い足を組んだまま身を乗り出してくる。バランスが悪いと思うが……まだ
治まらないらしいな。

「せっかく『タンマウォッチ』や『石ころ帽子』があるんだ、使わない手はない。それに
せっかく作ったなら一人ではなく、もっと多くの……そうだな、町の一つや二つ分の人間に
まとめて飲ませるのも一興だな」
「そんな事できるのか?」
「不可能じゃないぞ、長久。媚薬に『バイバイン』を振りかけたあと、ダムに投げ込むんだ。
そうすればそのダムを水源としている町の住人は全員媚薬入りの水を飲むことになる。人間、
水なくては生きていけないからな」
「悪いやつだなぁ」
「どうせ実行も出来ない妄想だからな、いくらでも悪人になれるさ」
 いや、俺実行出来るし。
 思わずつぶやきそうになった言葉は、ギャングのボスを連想させるような凄みのある時人の笑いに
消滅させられてしまう。
 その笑みにすっかり飲まれて身動き一つ取れなくなった俺たちだが、気を取り直すように
亮輔が口を開いた。
「で、でもよ、それだと町中で乱交パーティにならないか?」
「そうだな。だがその方がいいだろう? 薬の効果が切れれば女たちも正気に戻るから、
一人だけに飲ませて事に及んだら後が大変だ。それなら町全体が狂っていたとすれば、
自分が疑われにくくなる。『忘れろ草』を使う方法もあるけどな」
「妄想とか言いながら、いやに現実的だなぁ」
「性分だな、気にしないでくれ」
 俺の突っ込みに時人は苦笑で答える。俺としては現実的な回答をくれた方が助かるから、内心で
こいつに感謝した。
 亮輔がうーん、と唸る。
「でも、俺はやっぱり女を独り占めしたいな……そうだ、なら女子寮の給水タンクに投げ込むか。
そうすりゃみんな性欲もてあましてオナったりレズったりするだろうから、その隙に
『石ころ帽子』かぶって乱入すりゃ、後のことなんて心配する必要ないぜ。
 そのついでにリアルレズの現場撮影して売り払うか」
 感心してうなずく俺の隣で、長久がぽん、と手を打った。
「いいなぁ。そうすりゃほんとに好き放題できる」
 本当にそうだ。ただ女の中に発散するだけなら、これが一番かもな。

 俺は想像する。
 寮のあちこちで、服を脱ぎきることもなく絡まりあい、あられもなく乱れあう女たち。
薬の効果で快楽以外何も考えられなくなった女の一人を捕まえ、しとどに濡れぼそった淫裂に
剛直を突き立てる。
 見えない誰かに貫かれる衝撃を味わいながら、自分が犯されているのも気付かずに、さらなる
快感を追い求めて自分を慰め腰を振りたてる女。その激しすぎる動きにモノが滅茶苦茶に
しごきたてられ、すぐに達してしう。
 精液が膣(なか)で放たれた感覚が伝わっても女は自慰をやめずに乱れつづける。その光景に
萎えかけたモノを回復させて次の女に向かう……。
「……」
 いい想像だ。実行したらさぞかし良い気分だろう。
「『石ころ帽子』って、かぶってる間はまわりの誰からも気にとめられなくなるんだろ?
そのままヤったら、透明人間にヤられてるようなものかな?」
 けど、なんだ? このどうしようもなく胸に渦巻いているイライラは?
「どちらかと言えば、幽霊に犯されるようなものだろう。透明人間は触れば認識されるが、
幽霊は実体がないんだからな。夢の中で犯す、夢魔などとかわらんだろうな」
 ……ああ、想像しきれないからだ。生身の女の、膣(なか)の具合が。
「幽霊に犯される、かぁ。そういやそんな企画のビデオあったなぁ」
 その気になれば、俺はいつでも女に襲い掛かる事ができる。早く女に挿(い)れたい。
挿(い)れてスッキリしたい。
「夢魔や幽霊に犯されると言うのは、実際にそう告白してきた記録が残っているしな。
シュチュエーションとしてもかなり面白い」
 でも、ひどい事は……心に深い傷を残すような真似はしたくない。
 その二つの思いが俺の中でせめぎあっている。
「そうなのか? なら、使った奴が幽霊になって好きに出来るって道具はない?」
「……そうだな……『うらめし頭巾』というのがあるが、あれは……」
 そんな俺に気付かず、時人たちは顔を寄せ合って楽しげに話をしている。その光景でさえも
今の俺にはわずらわしく感じられ、「トイレに行く」と言ってその場を離れた。

 時間を止めて地下室に行く。教室を出てすぐに『どこでもドア』を使った。
停止した女生徒たちが目に入ったが、悪戯する気になれなかった。
 俺は無表情のままに『カネバチ』の巣をひっくり返して、回収されたお金を確認する。
……二時間もかけて回収したにしては、かなり少なく見える。
”全部デ2257円デス”
 『フエール銀行』に持っていくと、案の定予想よりも少ない金額だった。
 多分、最初に近場から回収し尽くしてしまい、今度は遠い所まで探索に向かっているから、
今集まっている金が少ないんだろう。
 となると、効率よくお金を拾い集めるためには『カネバチ』と『どこでも窓』を増やして、
手ごろな場所に出入り口を開かなくちゃいけない。その出入り口は他の誰かに見つからないように
しなくてはいけなくて、そんな場所を知らない町で見つけるには……。
「……ああっ、頭がまわんねぇっ!」
 ワシッ、と乱暴に前髪をかきあげる。イライラが考えをまとめるのを妨げ、それがさらなる
イライラを生む……悪循環だ。
 『フエール銀行』の脇に山となっている下着類を一瞥する。今朝方クラスの女子全員から
回収した戦利品だ。これをオカズに一発出せば、少しは治まるだろうか?
 俺は一番上のパンティを一枚手にとるが、すぐに山に戻す。これを使って出したところで、
むなしさがつのるだけだと気付いたからだ。
「……ちっ」
 特に何もする事無く教室に戻る。4時間目が体育で、何も考えずに体を動かす事が出来たのは
幸いだった。
 ……まだブルマは見れなかった。今日ブルマを復活させたばかりだったので、用意が
出来なかったようだ。

 どんなにイライラしていようが頭がカラッポだろうが、昼になれば自然に腹が減る。
 俺たちは健全、育ち盛りの男子高校生。しっかり食わなくてはナニも出来やしない。俺たちは
チャイムと同時に着替える事無く購買に走った。

「カツサンド残ってる~?」
「ピ、ピザパンはっ」
「ハンバーガーとコーヒー!」
「苦しい……」
「つぶれる、つぶれる、つぶれちまう~」
 いつものごとく、大盛況だった。
「出遅れた……」
「……くっ、田中やつ、4限の体育だというのにチャイムが鳴るまで解散させないとは……」
 長久が悔しそうに、時人が苦虫を噛み潰したような顔で混雑する購買をにらむ。狭い通路に
二クラス分もの人数が押し合いへし合い、男子も女子も関係なく過当競争を繰り広げる戦場へは、
いまさら突入しても望みの勝利(昼食)を得るのは難しすぎる。
 だが、行こうか行くまいか迷っている間にも俺たちと同様に出遅れた生徒たちが次々と
無謀な突入を敢行していった。
「くっ! 俺の焼きそばパンとフルーツオーレは誰にも渡さんっ!!」
「カレーパンよ、残っててくれっ!」
 その後に続けと蛮勇を奮おうとする時人と長久の腕を取って止める。二人は「何をするっ!」と
言わんばかりの顔で俺をにらみつけた。
「……俺に任せろ」
 そう言い残すと二人を置いて戦場へと踏み入る。後続の精鋭(出遅れ組)に姿が隠れた所で、
俺は時間を止めた。
 一瞬にして静かになった戦場に立ち尽くす兵士たちを脇に押しのけ、ずんずんとパンの並ぶ
ショーケースへと進んでいく。やはり人を掻き分ける手間は、動く物より止まっている物を
相手にした方が楽だ。『タンマウォッチ』に感謝だな。
 ……おお、あるある。ピザパンにカツサンド、ハムカツバーガーと言った人気メニューが
まだ一通り残っている。もちろん、時人と長久の意中のパンもいくつか残っていた。俺は
それらを確保すると自分の食いたいものを物色する。と、その一角で珍しい物を発見した。
「! ……こ、これは、『カニクリームコロッケサンド・ブルゴーニュ風』っ!?」
 驚愕のあまりに叫んでしまう。
 それはカニクリームコロッケをサンドイッチしただけの、どこがブルゴーニュ風なのか
まるで分からない一品なのだが、一日に10個しか入荷しないため、学内で伝説となっている
代物だ。先輩たちの間でも、三年間の学生生活で一度は食いたいもののトップランキングを
独走していると言う。

 済まない、伝説は俺が頂くよ……。
 俺はそのたった一つだけしか残っていないコロッケサンドを取ると、そこに互いに邪魔をしながら
殺到していた複数の腕に向かって手を合わせた。
 金を置いてから二人の前に戻り、時間を動かす。人垣にもみくちゃにされているはずの俺が
いきなり目の前に現れた事に二人は驚いていたが、そんな事よりもパンが確保できたかどうかを
確認してきた。俺は偉そうにふんぞり返って、買って来たように見せるために一緒に持ってきた
ビニール袋に取ってきた物入れて渡してやった。二人はそれらを押し頂くようにして受け取る。
「しかし、よく買ってこれたよなぁ」
 長久がパンの代金を俺に渡しながら言う。
「背が低いからな、きっと足元を移動する幼稚園児のように気付かれなかったんだろう」
 時人も財布から小銭を探しながら続ける。
「なるほど、それで簡単に買って来れたわけだ」
「うむ。これから出遅れた時には良樹に買って来てもらう事にしよう」
「そりゃいいっ!」
 朗らかに笑いあう二人。
 ……取り合えず、殴っておいた。

「……ところで、裏切り者への報復は何がいい?」
 教室に戻る途中、ジュースを飲みながら時人が尋ねる。目の端にうっすらと涙が浮いているのは、
さっきどつき倒したダメージが抜けていないからだ。
「一人だけ弁当だもんなぁ」
 長久も頭を押さえながら頷く。
 そう、今日は亮輔だけが弁当を持ってきていたのだ。「じゃ、俺は一人平和に過ごすぜ」と
満面の笑顔でほざいたあいつに、憎しみを持つのは至極自然な事だろう。……例え、パンの争奪戦が
非常に楽な物だったとしてもだ。
「こんなのはどうだ?」
 三人で亮輔への報復手段を話し合う。その時、俺の視界の隅になにか白い物が横切った。
 目を向けると、真里菜先生が可愛らしい袋と水筒を持って中庭を歩いていた。
 『そっか……先生もこれから弁当なんだな……』
 そんな穏やかな思いと
 『犯れるかな?』
 そんな今まで考えたこともない危険な思いが同時に生まれて、俺は混乱する。

 そりゃ、真里菜先生綺麗だし、可愛いし、なんだか姉のような雰囲気が俺みたいな
一人っ子にとっては『理想のお姉さん』だ。汚そうとか、そういう気にはなれない。
 けど、男にとっては『美人で年上の女性とのH』、それも童貞卒業というのは夢の一つだろう。
その相手がもし先生だったら……。
 俺は真里菜先生に、そういった夢を見ているのかも知れない。それが、少し前から
感じつづけているこの欲求不満にも似たイライラから来ているとしても。
「わりぃ、今日俺別の所で食うわ」
「良樹?」
 不思議そうな二人を残して、俺は先生の後を追った。

 中庭では、春の暖かな日差しに誘われたように、女子がいくつ物グループを組んで昼食を
摂っていた。その中に先生の姿は……ない。いつもは女子に誘われて敷物を囲っている事が
多いのだけれど……。
 先生が歩いて行ったと思われる方向に向かってみた。
 中庭を横切り、校舎の影になっているフェンスとの間の狭い通路を抜け、小さな林に出る。
ここは職員室や科学室など特別教室のある校舎の裏手にあり、ひらけた中庭に比べて少し
日当たりも悪い。そのためか人があまり来ず、とても静かな場所となっている。一応ベンチなども
置いてあるあたり、学校としては中庭の一つとして考えていたのだろう。けど、特別教室から
眺めていた限り、俺はここを利用している生徒を見かけた事がなかった。
 だが、今日は校舎よりに設置されたベンチに一人だけ利用者がいた。真里菜先生だ。
空の色のように深い青色に塗られたベンチにチョコンと座り、ひざの上に弁当箱の包みを
乗せている。
 違和感を感じた。
 先生の歩く速さを考えれば、俺がたどり着くずいぶん前にここにいてもおかしくはない。なのに
なんで先生は弁当を開けてすらいないんだろう?
 それに先生の雰囲気がまるで違う。いつもの周りに元気をくれるような明るさはそこにはなく、
物憂げな――はっきり言えば、悲しみに暮れているような暗い物をまとっている。ほんの少し
つつくだけで泣き出してしまいそうな、そんなひどくもろい物を感じた。

「……弁当、食べないんスか?」
 どうするか迷った後、俺は意を決して声をかける事にした。このままにはして置けない、
そう思ったからだ。
 俺が近づいたのにも気付かなかったのだろう、先生の体がビクンッと震え、
恐る恐るといった風情で俺を見る。
「……秋森……くん?」
 途端に先生は安心したようにため息をつく。
「メチャクチャ暗い顔してしてましたけど、なにか悩み事ですか?」
 俺は眼鏡越しに先生の鳶色の瞳を覗き込む。
「そんなんじゃないわよ。心配してくれてありがとう」
 先生はふわりとした笑顔を浮かべて答えてくれた。その笑顔はいつも俺たちに見せてくれる笑顔と
変わらないように見えたけれど、俺は微妙な違和感を覚えた。
「あの何か……」
「秋森君こそ、こんなところにどうしたの?」
 俺の言葉をさえぎるように先生が聞いてくる。それが俺には、何かを隠したがっているように
思えた。
「時人たちとメシ買ってきたんですけど、帰る途中で先生見かけたもんで、
追っかけてきたんですよ」
 出来る限り普通に答える。先生だって人間だ、隠したい事の一つ位あるだろう。
話したがらない事を根掘り葉掘り聞くものじゃない。
「そうなの? ……でも、池内君たちは?」
「教室に戻りましたよ。今ごろ一人だけ弁当持ってきた亮輔をシバいてるころじゃないですかね」
「ふふふ、鷲山君も災難ね……購買って戦場だもの」
 先生は薄くルージュの引かれた口に手を当てて楽しげに笑う。……良かった、先生に
少しだけ残っていた暗い雰囲気が今ので消えた。
「それより、先生こそどうしたんですか? こんなところに一人で……いつもは女子たちと
一緒にメシ食ってるじゃないですか」
 先生は少しだけ困ったような表情を浮かべた。
「……あ……えっとね……今日はちょっと……一人で食べたい気分だったのよ」
 そう言って笑う。けど、その笑顔は無理して浮かべた事が分かるほど引きつっていた。
「……じゃあ、俺はお邪魔っすね」

 先生の言葉に、俺はその場を離れようとする。一人で居たい時は、誰にだってある。そんな時は
誰にも声をかけられたくないものだからな。
 ……もっとも、こちらに越して来た頃の俺みたいに、無理矢理近づいて立ち上がらされた方が
良い場合もあるが……。
「ま、待って!」
 真里菜先生が俺の制服の裾を掴んだ。
「最初は一人で食べるつもりだったんだけど、一人でいたらなんか寂しくなっちゃって……
だから、一緒に食べてくれないかしら?」
「いいっスよ」
 二つ返事で了解し、先生の隣に座る。先生はどこかほっとした様子で弁当の包みを開き始めた。
 二段重ねになった、女性らしい小ぶりな弁当箱の中身が見える。上の段には野菜をメインにし、
なおかつプチトマトや卵などで彩りも考えられたおかず類、下段には黒ごまを散らせたご飯が
入っていて、非常に美味しそうだ。俺の手の平くらいのサイズなのに、一切手抜きが
されていないように思える。
 ……ああ、最近家庭料理に餓えた胃がむずむずと……。
「手作りですか? 美味そうですね」
 俺は袋からパンを出す手を止めて先生の弁当に期待を込めて見入った。
「ええ……でも、あげないわよ?」
 けれど先生はひょい、と楽しげな笑顔で俺から弁当箱を遠ざけてしまった。
「えー」
「ダ・メ・よ。私の手料理を食べさせる男の人は、大切な人だけって決めてるんですから」
 べー、と、まるで子供がするみたいに舌をだす先生。それが大人っぽくなくて、でも
先生に似合っていてとても可愛らしい。
 しかし! 今はその可愛らしさに見惚れている場合ではない。最近コンビニ弁当続きの俺の体が、
先生の弁当を非常に欲しているのだっ!!
「センセー、俺は先生の生徒っスよ? 教師なら生徒は『大切な人』じゃないんスか~?」
「それとこれとはべ・つ。……うん、今日もいい出来ね」
 哀れっぽく言った泣き落としも軽くいなして、先生はおひたしを口に入れて満足げに微笑む。
 その微笑もすごく愛らしくて可愛いんですけど……先生ごめんなさい、ちょっとだけ憎しみを
感じてしまいました。

「……いいですよ~、俺は一人さびしく購買の『伝説』を食べる事にしますから~……」
 いじけた声を出して、俺はビニール袋からカニクリームコロッケサンドを取り出す。ううう、
俺の傷心を癒してくれるのは、反則技使って手に入れたお前だけだよ……。
「伝説……? ああっ!! それカニサンドじゃないのぉっ!?」
 先生の疑問符を浮かべた顔が、俺の手元を見た瞬間に驚愕に変わる。
「ええ、そうですよ」
 俺は自慢げに差し出すと、先生は目を寄せてじっ、と凝視した。
「これが伝説の……初めて見たわ」
「先生も見た事なかったんですか」
「ええ。私足が遅いから、いつも出遅れて……そっか~、これが実物なんだ~」
 話している間もサンドイッチから目を離さない。やっぱり、この学校の卒業生ともなれば、
このパンに対する思い入れも一際のようだ。
「あら、名前が『ブルゴーニュ風』なのね。私の時は『ニース風』だったのに」
「名前が違ってるんですか?」
「ええ、定期的に名前を変えているらしいのよ。『ニース風』だったのは私が2年の頃までで、
三年の頃には『パリ・ダカール風』になっていたらしいわ」
「ラリーじゃないんだから……」
「そうそう、オリンピックの年は期間限定でその開催地の名前を付けていたらしいわよ」
 命名者の顔を見てみたいぞ。
「なんにしろ、この学校に関わった人にとっては、思い入れのあるパンみたいですね」
「そうなのよ。私が在学中、このパンをめぐって流血沙汰が起きた事もあったし……」
「……マジっスか?」
「うん、あたり一面血の海だったわよ。でも原因は、買うときに転んだ弾みで頭を切ったって
だけらしいんだけどね。それでもパンを放さなかったって言うんだから、すごい根性よね」
「そうまでしても、食べたかっんでしょうね」
「そうよね~、ホントに憧れの食べ物だから……私も食べたかったな~」
 甘えるような声で、目線をついっ、と上げて俺の顔に移す先生。その意味が分からないほど
俺は鈍くはないつもりだ。

「それは残念でしたね」
 しかし、俺はつれなく言ってのける。途端に先生は泣きそうな顔になった。
「……くれないの?」
 細めの眉をへにょっとまげ、寂しげな声で、口をわずかに尖らせる。俺の手は包装をはがす途中で
止まった。
「……秋森君……聞いてる?」
「き、きいてますよ」
 上ずりそうになる声を押さえ、努めて平静を装う。
 ああ……言えない……見惚れていたなんて言えない……。
 上目遣いで泣きそうな表情のまま俺を見上げる先生はいつもの知的さが消えて、
ちっちゃな女の子が一人で寂しさを我慢しているような感じがして、ものすごく保護欲を
くすぐられると言うか、いつもとのギャップが大きくて非常に可愛らしく見えると言うか……
ともかく、俺の理性が音を立てて弾けてしまいそうなほどの破壊力がある。
 先生……大人のクセにその可愛らしさは反則です……。パンを全部
あげたくなっちゃうじゃないですか……。
「おべんと、少し分けてくれたらあげますよ」
「そ、それは……」
 俺の提案に視線をさまよわせて悩み始める先生。その迷いっぷりを見ると、自分がなにか
いけない提案をしたように感じる。俺は正当な取引をしようとしただけだよな?
「……分かったわ」
 自分の主義と欲望の葛藤に決着がついたのか、先生は小さくため息をついた。
「今回だけ、特別よ? 絶対内緒にしてね?」
「分かりましたよ。はい、どうぞ」
 不安そうな顔で念を押す先生に苦笑しつつ、サンドイッチを一つとって差し出す。にっこりと
笑う先生。当然、先生は手を伸ばして……
「じゃ、頂くわね」
 ぱくり、と俺の手から直接サンドイッチを頬張る。
 伸ばしてきたのは、手ではなくて口だった。
「せっ、先生っ!?」
「あら……コロッケまで届かなかったわ……」
 予想外の事に動揺してしまった俺を他所に、残念そうな顔でかじった痕を見つめる先生。そして
俺を見つめると。

「……もう一口、いいかな?」
 もちろん、俺に断る事など出来ない。……むしろ、こんな期待に満ち満ちた美女の視線を受けて
断れる男がいるなら見てみたい。
「じゃ、もう一口だけ……」
 ここでまたしても予想外の事が起こる。先生の手が、サンドイッチを持つ俺の手を、
包み込むように両手で捕らえたのだ。
「腕を空中で支えるのって、辛いもんね。震えてたわよ」
 震えていたのは辛かったからじゃないんです。
 そう口を突きそうになった言葉は、俺の手を包む先生の手の柔らかさと温もりに融かされて、
意味のないうめきに変わってしまい、優しい笑顔に心臓がランバダのような激しいステップを踏む。
頭が真っ白になって、何も考えられなくなる。
 時間を止めてあんな事までしたって言うのに、たったこれしきの事で自分を保てなくなるなんて
思ってもみなかった。
「あむ……」
 そんな俺の気も知らず、手ごと口に引き付けるようにして、再びサンドイッチを含む先生。
 赤い唇がわずかに開き、奥にぬらりとした舌があるのが見えた。美味しそうにくわえたパンが
一瞬、別のナニかに見えてしまい、生唾を飲み込む。
 ……もし、朝から何発も抜いていなかったら、このまま襲い掛かっていたかも知れない。俺は
テントを張り始めた股間を隠すように、空いた手でさりげなくビニール袋を動かす。
「ふーん……そっか……こんな味なんだ……」
 先生は念願叶った事をかみ締めるようにつぶやき、幸せそうな笑顔でぺろりと唇をなめる。
 そんな何気ない仕草にも、いろんな意味で興奮している俺はドキリとする。
 気付けば、俺は先生から目が離せなくなっていた。
 この五分ほどの間に、俺はいったいどれほどの先生の表情を見たんだろう?
 寂しげな横顔、俺を見て安心した微笑み、大人のくせにひどく子供っぽい無防備な仕草、
願いがかなって幸せそうな笑顔……。
 どれも俺たちの担任として、そして姉として振舞う教室では、一度も見たことのない先生だった。
 隣で、俺に向き合うようにして座る先生を見る。

 後味を楽しんでいるのか、先生は口元に指を置き、目を閉じて穏やかな微笑を浮かべている。
 その幸せそうな笑みに、俺はなにか道具を使うことも……時間を止める事すら忘れて
見入っていた。……彼女と別れた直後に俺はそれを猛烈に後悔する事となる。
「……秋森君……おーい、しっかりしろ~」
 正気に返った時、俺の視界に真里菜先生の白魚のような手が大写しになっていた。
「え……あ……へ?」
 意味不明な言葉を言いながら瞬きする俺に、先生は苦笑いを浮かべた。
「どうしたの、ぼんやりしちゃって」
「あ、あはは……ちょっと陽気に当てられちゃったみたいっスね~」
 視線をそらしてごまかし笑い。間違っても本当の事など教えられない。
「そうね……やっぱり、春の日差しって気持ちいいもんね……」
 ひざに弁当を乗せたまま、ぐっ、と伸びをする先生。生徒たちとは違う、成熟した豊かな胸が
ボレロを押し上げる。
「このまま眠ったら、気持ちいいんでしょうね……」
 それを横目で眺めながら、背もたれに肘を乗せて空を見上げる。抜けるような清々しい
青空だった。
「そうね……」
 先生も頷く。
「このままうたた寝して、目が覚めたら全部夢だったらいいのに……」
「先生?」
 俺は問い返す。その小さなつぶやきはほとんど聞き取れなかった。けれど、その中に深い悲しみが
含まれているのは分かった。
 先生はごまかすように慌てて言い募った。
「う、ううん、なんでもないの。それよりお弁当、どれが食べたい?」
「……そうですね……じゃ、たまご貰えますか?」
 俺は先生に合わせると、差し出された弁当箱から、いい焼き色のついただし巻きたまごに指を
伸ばす。
 ぺしり、とその手を叩かれた。見上げると、ちょっとだけ怒ったような顔の先生が
俺をにらんでいた。
「こら、手づかみなんて行儀の悪い」
「だって、俺箸もってないですよ」
「あ、そういえば。……そうね、じゃあこうしましょうか」

 先生は弁当箱を膝に戻すと、俺が取ろうとした卵焼きをつまみ、下に手をそえてにっこりと
微笑む。
「はい、口開けて」
「……はいっ!?」
 想像を絶する真里菜先生の言葉に、俺は固まった。けれど、先生はそれが当然の事であるように
たまごを差し出してくる。
「だから、口開けないと食べられないでしょ? だから、はい、あーん」
 ……マジっすか?
 真里菜先生って、俺のクラスどころか、教師たちまで含めた全学のアイドル的な存在なんスよ?
その人が手ずから「はい、あーん」ですか!?
 ……ばれたら、野郎どもの闇討ち覚悟だな。
「あ、あーん……」
「ふふふ……はい」
 少しばかりしてしまった怖い想像をかき消し、このまるで恋人同士のようなシュチュエーションを
思い出して、恥ずかしさを我慢しながら口を開く。途端に先生の優しげな笑みが
からかうようなものに変わった。
 ……先生、俺の反応、楽しんでますね?
 コロンと口の中に転がされた卵焼きを咀嚼する。……こっぱずかしくて、味なんて分かりません。
「どう?」
 先生はからかうような笑みを貼り付けたまま、期待するような声で聞いてくる。
「美味しいっすよ……いやぁ、最近誰かの手料理なんて食ってなかったから、新鮮だなぁ」
 大げさに言う俺に、先生は嬉しそうな笑いを見せてくれた。さっきの照れくささとあわせて、
なんだか頭がくらくらする。
「そう? うふふ、ありがとうね。……でも秋森君には料理を作ってくれる誰かさんがいるんだ~。先生、その人に嫉妬されちゃいそう」
「へ? そんな奴いませんよ」
「だって今、『手料理なんて食ってなかった』って」
「母親のですよ。ウチ共働きで、特に最近忙しいらしくてなかなか帰ってこないんですよ」
「そう……さびしくない?」
「昔からですから、慣れちゃいましたね」
「食事とか、どうしてるの?」

「コンビニ弁当ばっかっスね。小遣い限られてるからよく自炊もしますけど」
「そう……でも、コンビニ弁当ばっかりじゃ栄養が偏るわよ? 先生も一人暮らししてるんだけど、
最初の頃はコンビニに頼りっぱなしで、後でダイエットに苦労することになったわ」
「知ってますよ。だから母親が残していった料理の本片手に……」
 ……傍からみれば普通に会話が弾んでいるように見えるんだろうが、実は俺は自分が何を
口走っているのか分かっていない。げに恐ろしきは美女の微笑みというやつか……。
 俺がようやく自意識を取り戻したのは、昼休みも終わりに近づいたあたりだった。その頃には
俺も先生もすっかり食事を終えていて、そよそよとやさしく頬をなでていく春風の中で
ぼんやりと空を眺めていた。
「一つ……聞いていいですか?」
 いつのまにか感じていた満腹感と柔らかな春の日差しに、少しばかり睡魔を呼び起こされながら
隣で風になびく髪を押さえて行儀良く腰掛けている真里菜先生に話し掛ける。
「なにかしら?」
 そう答える先生も、いつもよりももっと穏やかだ。
「先生の手伝い……なんでいつも俺なんスか?」
 ずっと気がかりだった。入学初日にも学校案内のような物を配る時に呼びつけられたが、
この時は出席番号一番の俺が呼ばれても不思議ではない。けれどそれ以降は、俺がその場に
いなくても、急ぎの用でない限り他の誰かに頼まず、俺が戻ってくるのを待って用を言いつける。
 入学して二週間、真里菜先生から用を頼まれなかった日など数えるほどもない。なのに
「面倒だ」と感じても「嫌だ」と思わないのは彼女の人徳なんだろうか?
 先生は少しだけ迷ったような仕草をして、俺に向き直った。
「……やっぱり、嫌……だったよね? ごめんなさい」
 ちょこん、と頭を下げる先生を横目で見る。
「いえ……先生と一緒にする仕事は嫌じゃないです」
「……ありがと」
 先生は少しだけ笑う。
 ……あれ? 俺、今なんて言った?
 『先生と一緒にする仕事』?

 ……そうか。考えてみれば真里菜先生が頼む仕事って、いつも俺が先生のアシストで
仕事が終わるまでずっと一緒にいるんだよな。でも、どうして……。
「私、一人っ子でね」
 思考の海に沈もうとした俺を、唐突な先生の独白が引きとどめる。
「昔から兄弟ってものに憧れてて……特に可愛い弟がいたらいいなって思ってたの。でも、
中学の時も、高校の時も、大学に入っても結局その願いは叶わないままで、あきらめてたんだ」
 教員資格取れなかったら保母さんしようかななんて本気で考えてた事もあったのよ、と
懐かしげに苦笑する先生。
 なんで先生が俺たちの姉のように振舞うのか、ちょっと納得できた。
「教員免許取って母校(ここ)に帰ってきた時も、弟なんて無理だろうって思ってた。
 ……でもね、見つけちゃったんだ、入学式の日に、理想の男の子」
 そう言って先生は俺を見つめる。俺は驚きに先生の顔を直視する。
「それが……俺なんスか?」
 コクン、と頷く。
「私が秋森くんに感じた第一印象はね、『ちょっと不良っぽい子』。私が欲しかったのは『素直で
可愛い男の子』だったから、すぐに違うなって思ったわ。でも……直感って言うのかな? 
私の中から、『この子を弟にしたい』っていう声がしたの」
「……そう……ですか……」
「それでね……覚えてる? 入学式の日に配布物を一緒に運んだ事。その時に秋森くんと話してみて
『悪い子じゃない』って分かったんだ。
 それでもっと秋森君の事知りたくなって、いろんな事頼んで……それで話している内に
どんどん秋森君の事が好きになって行ったわ」
 ドキンッ、と胸が高鳴る。
「秋森君には迷惑な話だったと思うけど……」
 すまなさそうに俺を伺う先生。
 『好き』って言うのは『男として』って意味じゃない事は分かってる。けれど、女性から
言われると心臓に悪いですよ……。
「……ええ……ちょっと大変な時もありましたよ。昨日の生徒会の手伝いとか」
 平静を装って言葉をつむぐ。けれどドキドキはまるで治まらない。口から心臓が飛び出しそうって
きっとこういう時に使う表現なんだろうな。

「ごめんなさい……私のわがままにつき合わせてしまって……」
 先生はシュンとしてうつむいてしまう。声も消えてしまいそうに小さくなっていた。
「でも、そんな風に思ってくれてるなんて、俺嬉しいですよ」
 ぱっ、と顔を上げて、まん丸にした目で先生は俺を見る。
「俺も一人っ子ですから、昔から綺麗な姉か、可愛い妹が欲しいって思ってたんです。もし先生が
俺の姉になってくれるなら、もう、願ったり叶ったりですね」
 俺の言葉に先生は、ぱぁっと桜の花がほころぶような笑顔を見せる。その笑顔にまたしても
クラッと来たのは秘密だ。
「ありがとう、秋森くん……。先生でよければ、秋森君のお姉さんにしてくれる?」
「喜んで」
 俺も微笑み返す。先生の笑顔がいっそう柔らかな物になった。
「それじゃあ……改めてよろしくね、『良樹』」
 先生のほっそりとした手が俺の手を取る。
「こちらこそよろしく、『姉さん』」
 俺はそれをしっかりと握り返した。
 しばしの見詰め合い。そして笑いが弾ける。
「あ~もう、先生嬉しいわ~。念願の弟がついに出来たんだもの~」
 目尻に浮かんだ涙を拭きながら、先生は楽しそうに笑う。こんな先生の腹の底からの笑い、
初めて見た気がする。今日は初めての多い日だ。
 そういえば、昼間から感じていたイライラも、もう完全に消えている。先生と一緒にいた
おかげかな?
「それは俺もですよ。先生みたいな美人を姉に出来るなんて、世界中に自慢したいくらいですね」
 本当にやったら、暗い場所はおろか明るい場所もまともに歩けなくなりそうだけどな。
「嬉しい事言ってくれるわ~。姉さんおだてたって何も出ないわよ」
 本当に楽しそうに笑う真里菜姉さん。『姉』という立場にいると、笑顔が三割増になるようだ。
「いやいや、ホントのことですよ。……で、少しでも嬉しく思ってくれてるなら、お礼にぜひ
先生の手作り弁当を……」
「ダメよ~。今回だけは特別だったんだから。弟って立場を利用したって、ダメな物はダメ♪」
「うう、残念……あ」
 不意に予鈴がなる。あと十分ほどで昼休みも終わりだ。先生も『姉』から『教師』の顔に戻る。

「いけない……次の授業の準備をしないと」
 弁当箱を重ねなおして手早くナプキンで包む。その手際のよさに俺は少しだけ見惚れた。
「じゃあ、秋森くん? 次の授業に遅れないようにね」
 右手に弁当の包み、左手に小さな水筒を持って俺に注意する真里菜先生。
「うい」
 答えながら、俺もどんな味だったか分からないまま腹に入れてしまった『伝説』の残骸と、
パックジュースの空き箱をビニール袋に入れて口を閉じる。
 ごみ箱を探して後ろを振り返ると、先に戻ったと思っていた先生が真剣な眼差しでこちらを
見ていた。
「……秋森くん……ちょっと、こっちに来てくれるかしら?」
 促されるままに先生の前に立つ。先生はキョロキョロと周りを確認した。何をするんだろうと
見守っていると、先生の腕が伸びてきて……。
「せ、先生っ!?」
 驚きの声は先生の胸に吸収されて、くぐもったうめきにしかならなかった。
 俺は先生の胸に顔をうずめるようにして抱きしめられていた。
 時間を止めていた時とは違う、服とブラ越しとはいえ本来の女性の柔らかさが俺の顔を包み、
その時は決して感じることなかった女性の甘酸っぱく、そして極薄い香水の匂いが俺の脳髄を
融かしていく……。
「……ありがとう、良樹君……」
 万感を込めた――そんな表現がぴったり来るほどの想いのこもった言葉に、意識が現実に
引き戻される。
「良樹君がきてくれなかったら……私、どうなってたか分からない……」
 そんな義姉弟の契りを交わしたくらいで大げさな……そう言おうとして、真里菜先生の顔を見る。
 いや、見ようとして先生に妨げられた。あげようとした頭をより強い力でふくよかな胸へと
押し付けられる。
「先生ね……昨日からちょっと嫌な事が続いていたの。それでずいぶん参ってて……朝は
なんとか普通でいられたんだけど、時間が経つにつれて辛くなって……」
 いつも明るい先生らしくない、湿った声が降ってくる。

 きっと、この先生の独白があの時先生が落ち込んでいた理由なんだろう。
 俺は……こんな時どうして良いのか分からなかった。だから先生に抱きしめられたまま、
先生の言葉を聞くことにした。
「気を取り直そうと思って一人でここに居たんだけど、余計に辛くなっちゃって……あのまま
ずっと一人でいたら、立ち直れなくなっていたかもしれない。でも、そんな時に良樹君が
来てくれたんだ」
 先生の言葉に少しだけ明るい物が混じり出す。
「良樹君に悟られちゃいけないって、がんばって明るい演技して……そうしたら、不思議よね。
良樹君とちょっと話しただけで、気持ちがどんどん楽になっていくのが分かったの。だから
良樹君が行っちゃいそうになった時に、慌てて引き止めたの……私、もっと楽になりたかったから。
 ごめんね、お手伝いの事といい今回の事といい……自分のために良樹君を利用しちゃうなんて、
私、悪い女よね……」
「そんな事ないです」
 先生の腕が緩んだのを見計らって顔を上げる。二つの乳房の向こうに、自己嫌悪に曇った先生の
端正な顔があった。
「人は誰でも自分の欲望のままに生きてるって聞いた事があります。けど、その欲望に沿った行動が
他の誰かにとって迷惑だと感じなかったら、それは悪い事じゃないっスよ。
 そりゃ、手伝いの時は正直迷惑だと思ってましたけど……でも、さっきは俺、普通に
話しているって気持ちだったし、むしろ先生といっぱい話せて嬉しいって
思ってたくらいなんスから。先生は悪くないですよ」
「良樹くん……」
 先生の顔が泣き笑いのようになる。俺は先生の胸に顔の下半分を埋めたまま、精一杯微笑んだ。
「また先生が落ち込むような事があったら、言って下さいよ。俺、いくらでも利用されますよ?
なんてったって、先生の『弟』なんスから」
「ありがとう……!」
 ぎゅうっ、と音が鳴りそうなくらいの力で、先生は再び俺を抱きしめる。またしても先生の
豊満な胸に顔が埋まり息が出来なくなったけれど、気持ち良いんだから文句を言う筋合いでもなし。
 ……それと、頭に落ちてくる何か冷たい物は、気付かなかった事にしますね。

「はぁ……もうこんな時間」
 熱い抱擁から開放されたとき、時間は本鈴まで二分を切っていた。まっすぐ教室に戻る
俺と違って、職員室に寄らなければいけない先生は確実に遅刻だろう。時間を操作する
『狂時機』の機能で手助けしようかと思ったが、この道具は限定された極狭い範囲の時間を
操作する事しか出来ないのを思い出してやめる。
 他に時間を操作する道具もあった気がするが、俺は知らない。今度本屋でその手の本を探すか、
『ハツメイカー』あたりで道具のリストを作る道具でも作ろう。……そういえば、なんで最初に
地下室に行った時に作らなかったんだろう? 我ながら謎だ……。
「じゃあ良樹君、ありがとう。また後でね」
 慌てた様子で走って行く先生の後姿を見送りながら、いまだ全身にうっすらとまとう残り香を
堪能する。
 ふふふ……先生、いくら嬉しいからって、妙齢の女性が年頃の男を抱きしめたりしたら
ダメですよ。我慢が出来なくなっちゃうじゃないですか。
 そんな少しばかりダークな思考をしながら、先生にどんな悪戯をするか考える。幸い、
真里菜先生の授業は六時間目だ。一時間もあればそれなりの事が考え付けるだろう。
 弟の可愛い悪戯だと思って、大目にみてくれよ、姉さん?

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最終更新:2007年05月20日 06:31