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静香はその日、学院構内のカフェーでいつものアールグレーを飲みながら読書に耽っていた。
 四年前に全面改築が行われた真新しい校舎群は、小規模な町と言っていいほどの広大なキャンパスに悠々と点在している。
 キャンパスのあちこちにあるレストランやカフェーでは良家の令嬢達にふさわしい最上の品々が供されていた。
「お姉様、ごきげんよう。お隣よろしくて?」
「ごきげんよう。もちろん構いませんわ」
 一学年下の高等部一年生、篠崎心優(しのざきみゆう)だった。
 プラチナカードを慣れた手付きでモノグラムの財布に差し込み、優雅な物腰で席に着く。
 静香が聖カトリーナに編入してきた初等部五年の頃には、
 子どものくせに最低でもゴールド、プラチナ、中には真っ黒なカードをブランド物の財布から自由に出し入れする生徒達が、
 まるで異世界の住人に見えた。それが今では「猫も杓子もモノグラムなんて個性が無いわね」などと心の中で嘲笑するまでになっている。
 それでも、この心優はその名が示すとおり聖母のごとく慈愛と博愛に満ちた少女で、底意地が悪いにわか成金の娘達とは一線を画していた。
 生粋の箱入り娘は悪意などというものに無頓着でいられるのだ。
 静香を取り巻く後輩達の中では、この無邪気な笑顔だけが唯一心を許せる相手だった。
「お姉様、ヴァイオリンのお稽古はよろしくて?」
 見とれるようなショートカットの黒髪を揺らし、心優は小首を傾げた。
 この学院に金髪や茶髪などといった文化は存在しない。全生徒が黒髪の中でも心優のつややかな髪は嫉妬と羨望の的だった。
「こうジメジメした暑い日が続くと鳴りが悪いのよ。せめて暗くなってからのほうがいいかと思って時間を替えていただいたの」
 小学生の頃から続けているヴァイオリンは静香にとって自分を解放し、表現できる唯一の方法だった。
 それ故中等部の終わりにはジュニアコンクールで優勝し、将来を嘱望されるヴァイオリニストになっていた。
 にもかかわらず、静香に求められる将来の姿は封建的な良妻賢母であって、世界を股にかける演奏家などではなかったのである。
「なんだかお疲れのご様子ですわね。学園のマドンナがそんなお顔をされていては、聖カトリーナ全体の士気に関わりますわ」
「いやだわ、大げさね。ちょっと読書をし過ぎただけよ」
 学園のマドンナに話しかけられるのは、この心優のような『特権階級』の者達だけである。
 それは静香自身が望んだことではなく、取り巻き達が勝手に決めた暗黙のルールなのであった。
「心優さんこそ、ピアノのお稽古はよろしくて?」
「もう、お姉様の意地悪。せっかくこうしてお姉様にお会いできたから、お稽古をお休みしようと思っていましたのに」
「『継続は力なり』よ、心優さん。いつかわたしと一緒に『春』を演奏するのでしょう? わたしも楽しみにしているのよ?」
 ベートーベンのヴァイオリンソナタに限らず、二人きりでハーモニーを奏でることには特別な意味があった。
 上級生が『妹』の一人を指名し、一緒に完璧な演奏を終えたとき、二人は公の『姉妹』になる。
 そして、それ以降他の妹達は『お姉様』と呼ぶことさえ禁じられるのだ。
「わたしを指名してくださるの?」
 心優はお行儀悪く椅子から飛び上がらんばかりに感激していた。
「あなたが……」
 続きを心優の耳元で囁いた。「一番可愛いもの」と。
 空いているとはいえ他にも生徒達がいたから、明らかな贔屓(ひいき)は心優の立場を危うくする。
 この心遣いが心優の頬をさらに熱くした。
「わたし、頑張りますわ。お姉様を失望させないように」
「その調子よ。お互い、頑張りましょうね」
 心優は夢心地で「ごきげんよう」と告げ、レッスンに向かった。

 静香はホッとため息をつく。上手く心優を追い払うことができたと。
 いずれ心優を指名するつもりではあったが今はそれどころじゃない。
 心優の純真を踏みにじった気がして、もう一つため息が出た。
 それからしばらく読むともなく読書を続け、レッスンに向かう時間がきた。
 冷め切ったアールグレイを一口すすり、静香は席を立った。

 あのストーカーもさすがに女子校までは乗り込んでこられなかったようね。
 と、静香は安堵の表情を浮かべながら朝比奈が開けたドアから滑り込む。
 静香専用のジャガーは自動的にヴァイオリン教師宅を目指す。
 父は強固なヴォルヴォか、せめてドイツ車にしなさいと勧めたが、静香はジャガーに決めた。
 車に興味があったわけではない。父の勧めを無視してわがままを通してみたかっただけなのである。
 それでも父は不機嫌そうに「そうか」と呟いただけだった。
 有能な婿養子をとるためだけに存在する空っぽの花瓶。それが静香だった。
「朝比奈、奥様はもういいの?」
「ええ、おかげさまで。恥ずかしながら実は妊娠していたのでございますよ。
 それにしても悪阻(つわり)が出るまで気付かないとは、我が女房ながらとぼけた女でございます」
「そう、おめでとう。お父様にお祝いを頼んでおくわ」
「ありがとうございます、お嬢様」
 ――六十を過ぎてから若い後妻をもらって早々と妊娠させるなんて、随分お盛んなことね。
 運転手いびりの口実を奪われ、静香はふて腐れていた。
 妊娠という言葉が製造段階を連想させ、いつの間にかあの男のことで頭がいっぱいになる。
 ――遅かれ早かれあの男に汚されるなら、せめて清い体のうちに心優と……。
 いいえ、純真なあの子を『妹』にする資格など、このわたしには無いわ。
 朝比奈にため息を気取られぬよう、静香は深呼吸した。
「空気を入れ換えましょうか?」
「出しゃばらないで。余計なお世話よ」
「申し訳ありません」
 祖父と言ってもおかしくない年齢の男に吐いた暴言を恥じる。
「ごめんなさい……窓を開けましょう」
 ルームミラーの中で朝比奈は目を細めた。
「何かおつらいことでもありましたかな?」
「いいえ、何でもないの」
「この朝比奈は、いつでも静香お嬢様の味方でございますよ」
 朝比奈が開けた窓から懐かしい夕暮れの匂いが流れ込んできた。
 どこかの家で焼き魚でも焼いているような匂い。ムニエルでもソテーでもない焼き魚の匂い。
 仲間達と繰り広げた数々の冒険のあと、やっとの思いで帰り着いた我が家の匂い。
 ――わたしはもう帰れない。
 目頭をハンカチで押え、ルームミラーの死角に隠れる静香だった。
 車が教師宅前で止まると、静香のすぐ隣から革張りシートの擦れる音がした。
 しかし、静香はその音を気にすることもなくヴァイオリンケースを手に取り、自分でドアを開けて歩き出した。
「行ってらっしゃいませ、お嬢様。お気を付けて」
 朝比奈は開け放たれた後部座席のドアを閉め、走り去った。

 レッスンが終わった午後八時過ぎ。この日の静香は失敗続きでだいぶ居残りをさせられた。
 数多くの名ヴァイオリニストを輩出した一流教師である中野は、『源の令嬢』にもおべっかを使ったりはしない。
 ただひたすらに良い音、良い演奏だけを追求する狂気じみた中年紳士だった。
 静香は近くの喫茶店に入る。
 いつもは中野宅で待たせてもらいながら朝比奈に電話をかけるのだが、
「レクイエムばかり弾きたいなら、もう来なくてよろしい」と追い出されるようにレッスンを終えたのであった。
 身も心も疲れ切った静香はホットチョコレートをオーダーした。
 厨房に向かったウェイトレスがすぐに戻ってきたところをみると、タンクに詰められた安っぽいココア飲料か何かだろう。
 それでも冷え切った静香の心には熱く染み渡った。焼けるような甘ったるさが心地いい。
 『妹達』特製のデコラティブな携帯を取り出して、発信履歴を開く。
 並んでいるのは朝比奈の文字ばかりだ。
 着信履歴には様々な女子生徒の名前がある。
 しかし、学園のマドンナ自らが彼女達に僥倖(ぎょうこう)を施すことは稀だった。
 朝比奈にカーソルを合わせ、発信ボタンを押そうとしたとき、携帯を取り上げられた。
「し~ずかちゃん、あ~そぼ」
 のび太が断りもなく対面に座った。間もなくのび太にもホットチョコレートが運ばれてきた。
「奇遇だね~、僕も甘いものが欲しかったんだ」
「そ、そうね。こんな夏場にホットチョコレートなんて」
 静香の腋の下から冷たい汗が流れた。
 のび太は目ざとくそれを発見し、身を乗り出して指ですくう。
 そのまま静香にニヤッと笑いかけ、赤ん坊のように指をくわえた。
「やめて、汚いわ」
「しずかちゃんの体から出る物が汚いわけないじゃないか。とっても美味しいよ」
 唾液まみれの指で、のび太は携帯をもてあそぶ。
「やだ、勝手に見ないでよ」
 のび太は聞く耳を持たず、静香もそれ以上の抵抗をしない。
「僕の番号とアドレスを登録してあげたからね。
 僕のほうはもう登録済みだから、これでいつでも連絡が取れるよ。
 朝比奈さんばかりじゃなくて、たまには彼氏にも電話してくれるよね?」
 静香はハンカチで携帯を拭い、もう一度朝比奈にかけ直す。
「そういう態度は良くないと思うけど? 僕の誘いを断れるのかな?」
 丸めがねがキラリと光った。
「だって、帰らないと家族が心配するもの。捜索願でも出されたらどうするつもり?」
「また君は狡いことを言うんだね。君のお父様もお母様も仕事ばかりで家になんていないじゃないか。
 夕食はいつも一人で高級レストランだろ?
 朝比奈さんの奥さんも大事な時期みたいだし、今日は帰してあげたらいいんじゃないかな?」
「ちょっと、どうして朝比奈の奥さんのことまで……」
 のび太はTシャツをまくり、地肌に貼り付けた四次元ポケットからウィッグのような物を取り出した。
「い~し~こ~ろぼうし~」
 ドラえもんの声音を真似るのび太に静香は顔を歪める。
 同時に車の中での物音を思い出し、背筋が凍った。
『石ころ帽子』をかぶると、透明人間になるわけではないが誰も存在を気にしなくなるのである。
 つまり、のび太はずっと静香のそばにいたのだ。
「僕の髪型と同じくなるように二十二世紀の人口毛を植えてあるんだ。かっこいいでしょ?」
「あなた、いつからそうやって……!?」
「六年だよ」
 ドラッグストアで質問したとき、即座に答えが返ってきたのを異様には思っていた。
 しかし、いくら注意深い静香でもここまでのことは予想できるはずがなかった。
 ――お風呂も、お手洗いも、人に言えない秘密も……。
「さあ、朝比奈さんに電話して、今日は心優ちゃんの家に泊まると伝えるんだ」
「あなたまさか、心優さんのことまでのぞき見していたんじゃないでしょうね?」
「僕はそんな最低の男じゃないよ。君と一緒にいるときは仕方なかったけどね」

 静香は今度こそ朝比奈に電話をかけた。
「わたしよ。先生のお宅からすぐの『フリージア』っていう喫茶店にいるから迎えにきてちょうだい」
 それだけ言って電話を切った。
「しずかちゃん? 頭がおかしくなっちゃったのかな? それとも少年院に行ってみたくなった?
 源グループのお嬢様が少年院なんて、ワイドショーが放っておかないだろうね。
 そうか、テレビに出たいんだね? でも、未成年だからそれは無理だよ。
 ほら、早くかけ直して『本当の予定』を言うんだ。さあ、早く!」
 ホットチョコレートのカップに涙がこぼれ落ちる。
「のび太さん、わたし達あんなに仲良しだったのに……。
 協力していろんな困難を乗り越えてきたのに……。
 どうして? 何があなたをそんなにしてしまったの?」
 のび太は気まずそうに指をモジモジさせる。
「しずかちゃんがどんどん手の届かない人になってしまって寂しかったんだ。
 壊れちゃいそうだったんだよ。……いや、僕は壊れてしまったのかもしれない。
 あのポンコツ同様にね。でも、しずかちゃんが大好きなんだ。だから、わかってくれよ……」
「わたし達、もう戻れないの? あの楽しかった頃に」
 のび太は晴れやかな表情で顔を上げる。
「じゃあ、タイムマシーンで見に行こうか? それが君の望みならいくらでも付き合うよ。初デートにもピッタリだしね」
「そうじゃないの。忘れてちょうだい」
 静香は押し黙ってカップを見つめた。冷めたチョコレートに時折波紋が広がる。
「泣くなよ! 僕まで悲しくなるじゃないか!」
 のび太の大声に周囲の客が振り返る。しかし、ただの痴話喧嘩だと思ったのか、ニヤニヤするだけだった。
「のび太さん、ごめんなさい。わたしが嫌な女になったせいであなたを苦しめていたのね。
 ……わかったわ。何でもあなたの言うとおりにします。だから、今日だけは帰らせてちょうだい。心の準備をしたいの」
 のび太は腕組みをして黙り込み、やがて口を開いた。
「今日だけだぞ。いくらしずかちゃんのお願いでも、もう聞いてやらないからな。泣いたって駄目なんだからな」
「ありがとう、のび太さん。やっぱりあなたって優しいのね」
「おだてても駄目だ。早速明日から言うことを聞いてもらうからね」
 のび太は四次元ポケットからメイド服を取り出した。
「明日の放課後、これを着て僕の家に来るんだ」
 安っぽいコスプレ衣装ではなく、かなりの上等品だった。しかし、スカートは異様に短い。
「メイド服なんて着て歩いたら人の目が……後輩にでも見られたら困るわ」
「へえ~、万引きの常習犯でもご近所の目は気になるんだね。気にしてるのは監視カメラだけじゃなかったのか」
「……わかったわよ、もう」
「そうそう、あの昔の髪型にしてきてよ。そうやって髪を下ろしてると、なんだかしずかちゃんじゃないみたいだからね」
 昔の『しずかちゃん』に幻想を抱き続けているのに気付き、静香は身震いした。
「わ、わかったわ。二つに縛ってくればいいのね?」
「そうそう。た~のしみだな~」
 のび太がおかしな性癖を語りたがるのをかわし、なるべく昔の思い出など語っていると、窓の外にジャガーが止まった。
「朝比奈だわ。じゃあ、また明日」
「楽しみに待ってるよ~」
 静香が会計しようとすると「お代済みです」と言われた。
 のび太を振り返るとウィンクして手を振っていた。
 あの男のおごりで飲んだチョコレートだと思うと、胸がムカムカする。
 静香は「チッ」と舌打ちして店をあとにした。