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或るゴキブリの辞世の念

私はそもそも生き物の殺生は嫌ひであるが、御勝手のゴキブリとぶ~んと私の血を求め私を襲ふ雌の蚊だけは罪悪感を感じながらも駆除してゐる。



ところが或る初秋の日に御勝手からは少し離れた所にある私の書斎を兼ねた部屋に一匹の多分雄のゴキブリが潜入して来たのであった。水もなければ食料もないので直ぐにそのゴキブリは私の部屋から去るだらうとそのまま放って置いたがそのゴキブリは一向に私の部屋から去らうとせずゐたのであった。そもそも昆虫好きの私にはゴキブリもまた愛すべき昆虫の一種に違ひなく、御勝手にさへゐなければ別段駆除すべきものではないのである。むしろ、私はそのゴキブリをまじまじと凝視しては



――成程、ゴキブリは神の創り給ふた傑作の一つだ。素晴らしい。



等とゴキブリの姿形に見惚れるばかりなのであった。ところがである。



――何故このゴキブリは逃げないのか。



実際、このゴキブリは私が凝視しても全く逃げる素振りすら見せず、触覚をゆらゆら揺らしながらむくりと頭を上げ、ゴキブリの方も私を観察してゐるのみでその場から全く逃げずにむしろ何やらうれしさうにも見えるのであった。この時私は胸奥で



――あっ。



と叫んだがそれが正しいのかはその時は未だ解らなかったのでそのゴキブリの覚悟を見届けやうとそのゴキブリをそっとして置いたのであった。



そして、矢張りであった。そのゴキブリはその時以来私から付かず離れずの絶妙の間合ひで私から離れやうとはしなかったのである。



私はその部屋に布団を敷いて寝起きをしてゐるが、そのゴキブリは私の就寝中は私の頭の周辺に必ずゐるらしく、私はゴキブリの存在を頭の片隅で意識しゴキブリの気配を感じながら何時も眠るのであった。



――全く!



そのゴキブリは難行中の僧の如く勿論飲まず喰はずの絶食を多分愉しんでゐた筈である。例へてみればそれは難行を続ける内にやがては薄れ行く意識の中、或る種の臨死体験にも似た《恍惚》状態に陥り、その《恍惚》を《食物》にしてその《恍惚》に更に耽溺してゐるとでもいった風の、死を間近にしての《極楽》を思ふ存分に心行くまで味はひ尽くしてゐた悦楽の時間であった筈である。



そんな風にして数日が過ぎて行った。



そして、そのゴキブリと出会ってほぼ一週間経った或る夜、就寝中の私の脳裡に忽然と巨大な巨大な巨大なゴキブリの頭が出現したのに吃驚して不図眼を醒ますとゴキブリは私の右腕に乗りじっと私を見てゐるらしいのが暗中に仄かに解るのであった。



――入滅か……。



と、私はその時自然とさう納得したのであった。そして、あの脳裡に出現した巨大な巨大な巨大なゴキブリの頭が何を意図したものなのかを考へながらもそのまま再び深い睡眠に陥ったのである。



朝、目覚めると最早あのゴキブリの存在する気配は全く感じられなかったのであった。



それから数日経った或る日、何かの腐乱した異臭が雑然と雑誌やら本やらが平積みになってゐる何処からか臭って来るのであった。果たして、雑誌の下で仰向けになって死んでゐたあのゴキブリが見つかったのであった。私はその亡骸を鄭重に半紙にに包んで塵箱の中にそっと置いたのであった。それ以来、私は昆虫もまた小さな小さな脳で思考する生き物と看做したのである。一寸の虫にも五分の魂とはよく言ったものである。



さて、ところであの死の間際の巨大な巨大な巨大なゴキブリの頭を現時点で私なりに解釈を試みると、私に対する自慢、恍惚、憤怒、清澄等等が一緒くたになった言葉無き昆虫の《思考》の形と看做せなくもないのである。実際のところ、私自身が死ぬ間際にならないと本当のところは解らないが、さてさて、あのゴキブリはしかしながら見事に私の脳裡に巨大な巨大な巨大なゴキブリの頭を刻印して、その存在の証を残すことに成功したのであったが、私はそれに多少なりとも羨望してゐるのは間違ひない……。





審問官 廿三――主体弾劾者の手記 廿二

――鎮静剤か……。



成程、雪の言ふ通り《死に至る病》に魅入られた私には《生》に帰属する為に一方で煙草といふ《毒》を喫んで《死》を心行くまで満喫する振りをしながらも私の内部に眠ってゐる臆病者の《私》を無理矢理にでも揺り起こし、煙草を喫む度に《死》へと一歩近づくと思ふ事で《私》が今生きてゐるといふ実感に直結してしまふこの倒錯した或る種の快感――これは自分でも苦笑するしかない私の悪癖なのだ――が途端に不快に変はるその瞬間の虚を衝いて、私は一瞬にして《死》に臆する《私》に変容するのかもしれない。さうして《死》を止揚して遮二無二《生》にしがみつく臆病者の《私》は煙草を喫むといふ事に対する悲哀をも煙草の煙と共に喫み込み、内心で



――くっくっくっ。



と苦笑しながらこの《死》をこよなく愛しながらも《生》にしがみつく臆病者の《私》をせせら笑ひ侮蔑することで《生》に留まる《私》を許し、やっとの事で私はその《私》を許容してゐるのかもしれないのだ。



――鎮静剤……。



これは多分、私が《私》を受け入れる為の不愉快極まりない《苦痛》を鎮静する《麻酔薬》なのだ。《死》へ近づきつつ《死》を意識しながら、やっとの事で《生》を実感できるこの既に全身が《麻痺》してしまってゐる馬鹿者である私には自虐が快楽なのかもしれない。ふっ、自身を蔑み罵ることでしか《吾》を発見出来ない私って、ねえ、君、或る種、能天気な馬鹿者で



――勝手にしろ!



と面罵したくなるどう仕様もない生き物だろ。へっへっへっ。何しろ私の究極の目標は自意識の壊死、つまりは《私》の徹底的なる破壊、それに尽きるのさ。そこで



――甘ったれるな! ちゃんと生きてもいないくせに!



といふ君の罵倒が聞こえるが……、そこでだ、君に質問するよ。



――ちゃんと生きるってどういふ事だい?



後々解ると思ふが私は普通の会社員の一生分の《労働》は既に働いたぜ。ふっ、その所為で今は死を待つのみの身に堕してしまったが……。それでもちゃんと生きるといふ事は解らず仕舞ひだ。そもそも私には他の生物を食料として殺戮し、それを喰らひながら生を保つだけの《価値》があったのだらうか。私の結論を先に言ふとその《価値》は徹頭徹尾私には無いといふことに尽きるね。



――人身御供。



私の望みは私が生きる為に絶命し私に喰はれた生き物たち全てに対しての生贄としての人身御供なのかもしれないと今感じてゐるよ。



ねえ、君。君は胸を張って



――俺はちゃんと生きてゐる!



と言へるかい? もしも



――俺はちゃんと生きてゐる!



と、胸を張って言へる能天気な御仁が此の世に存在してゐるならば、その御仁に会ってみたいものだ。そして、その御仁に



――大馬鹿者が!



と罵倒する権利がある人生を私は送ったつもりだが……、これは虚しいことだね、君。もう止すよ。






――ふう~う。



と、また私は煙草を喫み煙を吐き出しながら、何とも悲哀に満ちた《生》を謳歌するのであった。



――ふう~う。



(以降に続く)





太虚、吾が頬を撫でしや


※ 註 太虚(〈広辞苑より〉【たいきょ】:①おおぞら。虚空。②宋の張載の根本思想。窮極なく、形なく、感覚のない万物の根源、即ち宇宙の本体または気の本体。)





激烈で豪放磊落なる稲妻の閃光を何度も地に落とし轟音で地上を震はせた末にやっと巨大な雷雲が去り往く其の時、吾は南の太虚を見上げし。其処には未だ黒雲が地を舐めるが如くに垂れ籠め、北へ向かって足早に流れし。其の様、将に太虚が濁流の如き凄まじきものなり。巨大な大蛇の如くとぐろを巻く其の濁流が如き上昇気流は地に近い程流れ行く其の速度は遅くなりし故、一塊の山の如し黒雲が其の気流より取り残され、更に其の黒雲の一部が千切れ、そして、それが取り残され、其の場に留まりし。あな、不思議なりや。其の取り残されし黒雲、見る見るうちに半跏思惟像の菩薩に変容せしなり。すると


――悔い改めよ、悔い改めよ。


と其の菩薩が説法せし声が吾に聞こえるなり。


――すは。


其の黒雲の菩薩、忽然と吾に向かって動き出しや。


――悔い改めよ、悔い改めよ。


其の黒雲の菩薩、凄まじき速度で吾の上空を駆け抜けるなり。と、突然、辺りは漆黒の闇に包まれ、吾もまた其の闇に溶けしか。其処では既に自他の堺無く、唯、漆黒の闇在るのみ。


――あな、畏ろしき、畏ろしき。


吾、瞼を閉ぢ、只管に祈りしのみ。


――吾を許し給へ。吾、唯の凡夫なり。吾が生きし事自体罪ありと日々懺悔セリなり。あな、吾を許し給へ。


――莫迦め。はっはっはっ。


と、其の刹那、一陣の風が吹きしか、吾の頬を慈悲深く温かき御手が優しく優しく撫でし感覚が体躯全体に駆け巡るなり。そして、閉ぢし瞼の杳として底知れぬ闇に後光が射す幻影を覚え、遂にその後光、佛顔に変はりし上は、吾、既に不覚にも卒倒せしやもしれぬ。




さうして、漸くにして吾、瞼をゆるりと開けるなり。太虚を見上げると、既に雲は晴れ上がり半月の月光が南中より吾に射せり。


さて、太虚、吾の頬を撫でしや。さてもしや、吾、夢の中にて彷徨ひしか……。






審問官 廿二――主体弾劾者の手記 廿一

私は一本目の煙草を喫めるだけ喫めるぎりぎりまでしみったらしく喫むと間髪を置かず二本目を取り出し一本目の燃えさしで二本目に火を点け、身体全体に煙草の煙が行き渡るやうに深々と一服したのであった。雪は私のその仕種を見ながら


――うふ、あなたは本物のNicotine(ニコチン)中毒ね、うふ。


と微笑みながら私が銜へた煙草の火の強弱の変化と私の表情を凝視めるのであった。そんな雪を何とも愛おしく思ひながら私は私で雪に微笑み返すのであった。勿論、この時の煙草は格別美味かったのは申すまでもない。


――ねえ、あなたをこれまで生かして来たのはその煙草と、それと、うふ、お酒ね。それも日本酒ね、うふ。


と正に正鵠を射たことを雪が言ったので私は更に微笑んで軽く頷いたのである。


――ふう~う。


とまた一服する。すると私に生気が宿る不思議な快感が私の身体全体に走る。と、また


――ふう~う。


と一服する。その私の様が雪には可笑しくて仕様がないらしく


――うふうふうふ。


と私を見ながら飛び切りの笑顔を見せるのであった。すると、雪は偶然にも


――煙草とお酒があなたの鎮静剤なのね。


と言ったのであった。




ねえ、君。君は「鎮静剤」といふ詩を知ってゐるかな。高田渡も歌ってゐるがね。




  「鎮静剤」


 マリー・ローランサン




 退屈な女より もっと哀れなのは 悲しい女です。




 悲しい女より もっと哀れなのは 不幸な女です。




 不幸な女より もっと哀れなのは 病気の女です。




 病気の女より もっと哀れなのは 捨てられた女です。




 捨てられた女より もっと哀れなのは よるべない女です。




 よるべない女より もっと哀れなのは 追われた女です。




 追われた女より もっと哀れなのは 死んだ女です。




 死んだ女より もっと哀れなのは 忘れられた女です。






 訳:堀口大學


 詩集「月下の一群」より










といふ詩なんだが。自分で言ふのもなんだが、私にぴったりの詩だね。堀口大學の訳詩の《女》を《私》に換へると、へっ、私自身の事だぜ、へっ――。


(以降に続く)





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