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玄武……幻想……


四象若しくは四神の北を指す玄武の図柄は、特にキトラ古墳の石室に描かれた玄武の写真を見ると様様な妄想を掻き立てるのである。

一方で玄武に似た『象徴』にギリシアの自らの尾を噛んで『無限』を象徴するウロボロスの蛇があるが差し詰め現代社会を象徴する蛇を図案化すると自らの尾から自らを喰らひ始め、自滅を始めた『蛇』、つまり現代を考えるとき必ず人類の絶滅といふことが頭を過ぎってしまふのである。

閑話休題。

玄武――その『玄』の字から黒を表はすのは直ぐに想像出来る。黒から『夜』へと想像するのは余りに単純だが、思ふに玄武は『北の夜空』の象徴ではないのかと仮定出来る。

さて、キトラ古墳の玄武の蛇はウロボロスの蛇のやうに自らの尾を噛んではをらず、尾が鉤状になって蛇の首に絡んだ格好になってゐるが、これは正に北の夜空の星の運行を端的に表はし、現代風に言へば『円環』若しくはニーチェの『永劫回帰』すらをもそこには含んでゐるやうにも思ふ。日本の古代の人々は蛇が『脱皮』を繰り返すことから『不死』若しくは『永久(とは)』を表はし、また『龍』の化身、更には『水神』をも表はしてゐたらしいので、多分、北極星を象徴してゐるであらう『亀』と併せて考へると玄武は『脱皮』をしながら、つまり『諸行無常』といふ『異質』の概念を敢へて飲み込んだ『恒常普遍』といふ概念が既に考へ出されてゐたと仮定できるのである。更に何処の国の神話かは忘れてしまったが、世界を『支へる』ものとして『亀』が考へられてゐたことも含めると玄武は今もって『普遍』へとその妄想を掻き立てる現在も『生きてゐる』神である。

少なくともキトラ古墳の玄武は千数百年生き続けてゐたのは確かで、さて、現代社会で千年単位で物事が考へられてゐるかといふと皆無に近いといふのが実情ではないかと思ふ。

滅び――現代は『普遍』といふ概念がすっぽりと抜け落ちた『諸行無常』――それは中身が空っぽな概念に思ふ――を自明の事としてしか物事を考へない、つまり数にすれば圧倒的多数である『死者』とこれから生まれてくるであらう未出現の『未来人』の事は一切無視した現在『生存』してゐる人間の事しか考へない『狭量』な『諸行無常』といふ考へに支配された世界認識しか出来ないのではなからうか。

少なくとも千年は生き残る『もの』を現代社会は創造しないと人類の『恥』でしかないやうに思ふ今日この頃である。



審問官Ⅷ――主体弾劾者の手記Ⅶ


眩暈から何事もなかったやうにすっくと立ち上がった私を見て君と雪は初めて見詰め合って互ひに安堵感から不図笑顔が零れたが、その時の雪の横顔は……今更だが……美しかった。雪は何処となくグイド・レーニ作「ベアトリーチェ・チェンチの肖像」の薄倖の美女を髣髴とさせるのだが、しかし、凛として鮮明な雪の横顔の輪郭は彼女が既に『吾が道ここに定まれり』といった強い意志を強烈に表はしてゐたのである。

―大丈夫?

と雪が声を掛けたが私は一度頷いた切り茜色の夕空をじっと凝視する外なかった……。

何故か――

君は多分解らなかっただらうが――後程雪には解ってゐたのが明らかになるが――私には或る異変が起きてゐたのだ。血の色の業火が目に張り付いたことは言ったが、もう一つ私の視界の周縁を勾玉模様の小さな光雲――これは微小な微小な光の粒が集まった意味で光雲と表現してゐるが――が、大概は一つ、時計回りにゆっくりと回ってゐることである。

人間の体は殆ど水分で出来てゐることと此処が北半球といふことを考慮すると時計回りの回転は上昇気流、つまり、私の視界から何かが――多分それは魂魄に違ひない――が放出し続けてゐることを意味してゐたのである……

勾玉模様の光雲が見えるのは大概は一つと言ったが、時にそれが二つであったり三つであったり四つであったりと日によって見える数が違ってゐた。それは私の想像だが、死者の魂と言ったらよいのか……星がその死を迎えるとき大爆発を起こして色色なものを外部に放出するが、人の死もまた星の死と同じで人が死の瞬間例へば魂魄は大爆発を起こし外部に発散する……。それが此の世に未だ『生きる屍』となって杭の如く存在する私をしてカルマン渦が発生し、それが私の視界の周縁に捉えられるのだ。だから多分、その光雲は一つは私の魂魄でその他は死んだばかりの死者の魂魄の欠片に違ひない……私はさう解釈してしまったのだ……

さて、君と雪と私はSalonの真似事が行はれる喫茶店に向け歩き出した。その途中に古本屋街を通らなければならないのだが、君は気を利かせてくれたのだらう、その日に限って古本屋には寄らず、私と雪を二人きりにしてくれたね。有難う。

私は先づ馴染みの古本屋で白水社版の「キルケゴール全集」全巻を注文しそれから雪とぶらぶらと古本屋を巡り始めたのだった。

(以降続く)



五蘊場(ごうんば)
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広辞苑より

五蘊

(梵語skandha)現象界の存在の五種類。色(しき)・受・想・行(ぎゃう)・識の総称で、物質と精神との諸要素を収める。色は物質及び肉体、受は感覚・知覚、想は概念構成、行は意志・記憶など、識は純粋意識、蘊は集合体の意。

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フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より


場(ば、field、工学では界と訳される)とは、物理量を持つものの存在が別の場所にある他のものに影響を与えること、あるいはその影響を受けている状態にある空間のこと。

場では、座標および時間を指定すれば、(スカラー量、ベクトル量、テンソル量などの)ある一つの物理量が定まる。つまり、数学的には空間座標が独立変数となっているような関数として表現できることがその特徴である。 場に配置される物理量の種類により、スカラー場、およびベクトル場などに分類することができる。

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フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より


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頭蓋内といふものは考へれば考へる程不思議な時空間に思へてならない。

例へば何かを思考する時、私は脳自体を認識することなく『思考』する。これは摩訶不思議な現象であるやうに思へてならない。

さて、『脳』とは一体何なのか?

『脳』のみ蟹や海老等の甲殻類の如く頭蓋骨内にあり、手や足などの肉体とは違ひ、思考してゐる時、『脳』を意識したところで漠然と『脳』の何々野の辺りが活動してゐるかなとぐらゐしか解らず――それも脳科学者が言ってゐることの『知識』をなぞってゐるに過ぎないが――私には『脳』の活動と『思考』がはっきり言って全く結び付かないのである。これは困ったことで、『脳』の活動と『思考』することが理路整然と結び付かない限り何時まで経っても霊魂の問題は、つまりOccult(オカルト)は幾ら科学が発展しやうが消えることはなく、寧ろ科学が発展すればするほどOccultは衆人の間で『真実』として語られるに違ひないのである。

そこで上記に記したストークスの定理をHintに頭蓋内を『五蘊場』といふ物理学風な『場』と看做して何とか私の内部で『脳』の活動と『思考』を無理矢理結び付けやうとしなければ私は居心地が悪いのである。全くどうしやうもない性分である……。

例へば一本の銅線に電流が流れると銅線の周辺には電磁場が生じる。そこで脳細胞に微弱な電流が流れると『場』が発生すると仮定しその『場』を『五蘊場』と名付けると何となく頭蓋内が解ったかのやうな気になるから面白い。

『脳』が活動すると頭蓋内には『五蘊場』が発生する。それ故『人間』は『五蘊』の存在へと統合され何となく『心』自体へ触れたやうな気分になるから不思議である。

多分、『脳』とは『場』の発生装置で『脳自体』が『思考』するのではなく『脳』が活動することによって発生する『五蘊場』で『人間』は『思考』する。

さて、ここで妄想を膨らませると、世界とか宇宙とか呼ばれてゐる此の世を『神』の『脳』が活動することによって発生した『神』の『五蘊場』だとすると科学の『場』の概念と宗教が統一され、さて、『大大大大統一場の理論』が確立出来るのではないかと思へてくる……

――宇宙もまた『意識』を持つ存在だとすると……

――さう、宇宙もまた『夢』を見る……

――その『夢』と『現実』の乖離がこの宇宙を『未来』に向かせる原動力だとすると……

――『諸行無常』が此の世の摂理だ !!


審問官Ⅶ――主体弾劾者の手記Ⅵ

雪の目から恐怖の色がすうっと消えたと思った瞬間、私は眩暈に襲われたのだ。

――どさっ。

あの時、先づ、目の前の全てが真っ白な霧の中に消え入るやうに世界は白一色になり、私は腰が抜けたやうにその場に倒れたね。意識は終始はっきりしてゐた。君と雪が突然の出来事に驚いて私に駆け寄ったが、私は軽く左手を挙げて

――大丈夫

といふ合図を送ったので君と雪は私が回復するするまでその場で見守り続けてくれたが、あの時は私の身体に一切触れずにゐて見守ってくれて有難う。私が他人に身体を勝手に触られるのを一番嫌ってゐる事は君は知ってゐる筈だから………。

あの時の芝の青臭い匂ひと熊蝉の鳴き声は今でも忘れない。

私が眩暈で倒れた時に感覚が異常に研ぎ澄まされた感じは今思ひ返しても不思議だな……。私は私の身に何が起きてゐるのか明瞭過ぎるほどはっきりとあの時の事を憶えてゐるよ。

それでも眼前が、世界全体が、濃霧に包まれたやうに真っ白になったのは一瞬で、直ぐに深い深い漆黒の闇が世界を蔽ったのだ。つまり、最早私はその時外界は見えなくなってゐたのだ。

するとだ、漆黒の闇の中に金色(こんじき)の釈迦如来像が現はれるとともに深い深い漆黒の闇に蔽はれた私の視界の周縁に勾玉の形をした光雲が現はれ、左目は時計回りに、右目は反時計回りにその光雲がぐるぐると周り出したのだ。

そして、その金色の釈迦如来像がちらりと微笑むと不意と消え世界は一瞬にして透明の世界に変化(へんげ)した……。

その薄ら寒い透明な世界に目を凝らしてゐると突然業火が眼前に出現した。それは正に血の色をした業火だった。

その間中、例の光雲は視界の周縁をずっと廻り続けてゐたよ。

私が悟ったのはその時だ。自分の死をそれ以前は未だ何処となく他人事のやうに感じてもゐたのだらう、まだ己の死に対して覚悟は正直言って出来てゐなかった、が、私が渇望してゐた『死』が直ぐ其処まで来ているなんて……私はその時何とも名状しがたい『幸福』――未だ嘗て多分私は幸福を経験したことがないと思ふ――に包まれたのだ。

――くっくっくっ。

私は眩暈で芝の上にぶっ倒れてゐる間『幸福』に包まれて内心、哄笑してゐたのだ。

しかし、業火は私が眩暈から醒め立ち上がっても目の奥に張り付いて……今も見えてしまうのだ。

さう、時間にしてそれは一分位の事だったよね。私は不図眩暈から醒め何事もなかったかのやうに立ち上がったのは。君と雪は何だかほっとしたのか笑ってゐたね。その時君は初めて雪と目が合った筈だが、君の目には雪はどのやうに映ったんだい? 

私には雪はその時既に尼僧に見えたのだ……

(以降続く)


特異点……幻影……若しくは合はせ鏡


さて、此の世の時空間に物理学上の特異点は存在しないのかと問はれれば、即、Black holeに存在するが『事象の地平面』で覆はれてゐるため一般的な物理法則の、例へば因果律などでは全く問題ないと教科書的には即答出来るが、しかし、ここで特異点なるものを夢想すると何やら面妖なる『存在』の、若しくは『物自体』の影絵の影絵のその尻尾が捉まへられさうでもある。

先づ、±∞から単純に連想されるものに合はせ鏡がある。

二枚の鏡を鏡に映す事で恰も無限に鏡が鏡の中に映ってゐるが如き幻影に囚はれるが、それは間違ひである。鏡の反射率と光の散乱から鏡の中の鏡は無限には映らないのは常識である。

だが、二枚の鏡をゆっくりと互ひに近づけて行き、最後に二枚の鏡をぴたっと合はせてしまふと、さて、二枚の鏡に映ってゐる闇の深さは『無限』ではないのではなからうか。

――眼前に『無限』の闇が出現したぜ。

眼前のぴたっと合はせられた二枚の鏡の薄い薄い時空間に『無限』の闇が出現する……

――其の名は何ぞ

――無限……

――無限? ふむ……。其に問う、『此の世に《無限》は存在するのか?』

――ふむ。存在してゐると貴君が思へば、吾、此の世に存在す。しかし、貴君が存在してゐないと思へば、吾、存在せず……

――すると、己次第といふことか……唯識の世界だな……

さて、瞼を閉ぢてみる。

――眼前の薄っぺらい瞼の影もまた『無限』の闇か……

すると、闇は闇自体既に『無限』といふことになる。

――光無き漆黒の闇の中には無数の『存在』が隠れてゐる……か……

さうである。闇は何物にも変幻自在に変容し吾の思ふが儘に闇はその姿を変へる。

――何たる事か ! !

――へっ。吾、闇は、水の如し……だぜ。

――するとだ、其はその薄っぺらい薄っぺらい闇自体に全存在を隠し持ってゐる、へっ、例へば創造主か……

――……

――神、其れは『闇』の異名か……、ちぇっ。

私は其の瞬間、眼前の二枚の鏡を床に擲ち、粉々に割れた鏡の欠片に映る世界の景色をじっと何時までも眺め続けたまま一歩も動けなかったのであった……



審問官Ⅵ――主体弾劾者の手記Ⅴ

君も雪の行動が奇妙な点には気が付いてゐた筈だが雪は未だ「男」に対して無意識に感じてしまふ恐怖心をあの時点の自身ではどうしやうもなく、雪は「男」を目にすると雪の内部に棲む「雪自体」がぶるぶると震へ出し雪の内部の内部の内部の奥底に「雪自体」が身を竦めて「男」が去るのをじっと堪へ忍ぶといった状態で雪は君の顔を一切見ず君と話をしてゐたんだよ。

その点雪は私に対しては何の恐怖心も感じなかったのだらう、つまり、雪にとって私は最早「男」ではなく人畜無害の「男」のやうな存在、しかも

――この人の人生はもう長くない……

と、多分だが、私を一瞥した瞬間全的に私といふ存在を雪は理解してしまったと、そんな雪を私は雪の様子からこれまた全的に雪を理解してしまったのだ。

と思ふ間も無く私の右手は雪の頭を撫でる様に不意に雪の頭に置かれたが、雪は何の拒否反応も起こさずこれまた全的に私の行為を受け入れてくれたのだ。

さて、君も薄薄気付いてゐた筈だが、私が何故「黙狂者」となってしまったかを。それは私の生い先がもう短いといふこととも関係してゐたのだらうが、私が一度何かを語り出さうと口を開けた瞬間、我先に我先にと無数の言葉が同時に私の口から飛び出やうと一斉に口から無数の言葉が飛び出してしまふからなのだ。私の内部の「未来」は既に無きに等しいので私の内部の「未来」には時系列的な秩序が在る筈もなく、つまり、私の「未来」は既に無いが故に「渾沌」としてゐたのだ。私が口を開き何かを語り出さうとしたその瞬間に最早全ては語り尽くされてしまってゐて「他者」にはそれが「無言」に聞こえるだけなのだ。つまり、《無=無限》といふ奇妙な現象が私の身に降りかかってゐたのだ。

君は私が雪の頭にそっと手を置いた時私が口を開いたのを眼にしただらう。多分、雪はこれまた全的に私の無音の「言葉」を全て理解した筈だ。君はあの時気を利かせてくれて黙って私と雪との不思議な「会話」を見守ってくれたが、仮に心といふものが生命体の如き物で傷付きそれを自己治癒する能力があるとするならば、雪の心はざっくりとKnifeで抉られあの時点でも未だ雪の心のその傷からはどくどくと哀しい色の血が流れたままで「男」に理不尽に陵辱された傷口が塞がり切れてゐなかったのだ。それが私には見えてしまったので《手当て》の為に雪の頭にそっと手を置いたのだ。

それにしても雪の髪は烏の濡れ羽色――君は烏の黒色の羽の美しさは知ってゐるだらう。虹色を纏ったあの烏の羽の黒色ほど美しい黒色は無い――といふ表現が一番ぴったりな美しさを持ち、またその美しさは見事な輝きを放ってゐた。

さて、君はあの瞬間雪の柔和な目から恐怖の色がすうっと消えたのが解ったかい?

(以降に続く)


或る赤松の木

その赤松は古城の堡塁址の北側といふその堡塁址で一番棲息環境が悪い一角に半径五メートルの砂地に芝が植ゑられてゐる円の中心に堂々と立ってゐた。多分その赤松には何かの謂れがあるに違ひないが詳細は不明である。しかし、その赤松はこの地区の人々に何百年にも亙って大切に守られてきたことはその赤松の姿形の何れからも一目瞭然であった。

私は何時もその堡塁址を訪れる時は南方より楢や山毛欅(ぶな)や檜などが生えてゐる様を武満徹の音楽に重ねながらゆっくりと歩くのが好きであった。それらはまたあの赤松の防風林になってゐるのも一目瞭然で、しかし、それにしてもその古城の堡塁址の林は人の手がよく行き届いた林であった。

ところが、赤松が立ってゐる場所近くになると武満徹の音楽はぷつんと終はって突然笙の音色が聴こえて来るかのやうに辺りの雰囲気は一変するのである。赤松が生えてゐる場所は雅楽が似合ふある種異様な場所であった。

林が突然途切れるとあの赤松がその威容を誇るかのやうに堂々と立ってゐるのが見える。

赤松の幹の赤褐色が先づ面妖な「気」を放つのである。赤松の幹の色は嘗て此処に威風堂々と構へてゐた城が焼け落ちるその炎の色を髣髴とさせるのだ。

  芭蕉を捩って本歌取りをしてみると

  赤松や 兵どもが 夢の跡

といふ句がぴったりと来るのである。

私はその赤松に対するときある種の儀式として、先づ此の世が四次元以上の時空間で成り立ってゐることと上昇気流の回転を意識しながらその赤松の周りを反時計回りにゆっくりと一周してから赤松に一礼して赤松に進み出でるのである。そして、左手でその赤松の幹を撫で擦りながら『今日は』と挨拶をするのである。そこで赤松を見上げその見事な枝振りに感嘆し、この赤松もまた螺旋を描いてゐるのを確認して芝に胡坐をかいて坐すのが何時もの慣はしであった。

…………………

…………………

――雅楽の『越天楽』が何処からか聴こえて来る……

不意に日輪を雲が横切る……

――突然、夢幻能『芭蕉』が始まる……

――今は……何時か……此処は……何処か……全ては夢幻か……



審問官Ⅴ――主体弾劾者の手記Ⅳ

William Blake著

《THERE IS NO NATURAL RELIGION》の拙訳

「如何なる理神論も在り得ない」

[a]

論証。人間は教育を除く如何なるものからも道徳の適合性に関する概念を持ち得ない。本来人間は感覚に従属する単なる自然器官である。

一 人間は本来知覚する事が出来ない。自身の自然乃至身体器官を通さずしては。

二 人間は自身の推理力によっては。単に自身が後天的に理解(知覚)した事を比較乃至判断出来るのみである。

三 単に三つの感覚乃至三つの要素のみで構築した知覚から如何なる人間も第四の乃至第五の知覚を演繹出来なかった。

四 仮に人間が器官による知覚の外一切を持たないなら如何なる人間も自然乃至器官による思惟形式以外持ち得る筈もない。

五 人間の希求は自身の知覚によって限られる。如何なる人間も自身が知覚し得ないものを希求することは出来ない。

六 感覚器官以外では如何なる事象も知り得ぬ人間の希求及び知覚は感覚(客体)の対象に対して制限されなければならない。

結語。仮に詩的乃至預言的な表現が此の世に存在しないならば、哲学的及び試論による表現は即ち全事象の数学的比率となり、及び陰鬱な単一反復回転運動を繰り返す以外不可能故に立ち尽す(停止する)のみである。

[b]

一 人間の知覚は認識機構によって制限されない。人間の感覚(どれ程鋭敏であらうとも)が見出す以上のことを知覚(認識)する。

二 推論乃至吾吾が後天的に認識した全事象の数学的比率は。吾吾が更に多く認識すると想定された存在と同じであることはない。

三 欠落

四 枠付けは枠付けした者に忌避される。宇宙の陰鬱な反復回転運動でさへ、即ち車輪複合体たる水車小屋に変容するであらう。

五 仮に多様が単純に還元されると看做す場合、そしてそれに取り憑かれたとき、もっと ! もっと ! は迷妄なる魂の叫びであり、直ちに全事象は人間を満足させる。

六 仮に如何なる人間も自身で持ち得ないものを希求することが出来るとするなら、絶望こそ人間の永劫に亙って与へられし運命であるに違ひない。

七 人間の希求が無尽蔵なら、それを持ち得るといふことは無限であり自身もまた無限である。

応用。全事象に無限を見るものは神を知る。単に数学的比率しか見えぬものは自己しか知り得ない。

それ故、神は吾吾が存在する限り存在し、即ち吾吾は神が存在する限り存在するのであらう。

《ALL RELIGIONS ARE ONE》の拙訳

「全ての宗教は一つである」

荒野の一嘆き声

論証。真の認識法が試みであるなら、真の認識力は経験の能力でなければならない。この能力について論ず。

第一原理 詩的霊性が人間の本質である。及び人間の肉体乃至外観の様相は詩的霊性から派生する。同様に全存在物の形相はそれら自身の霊性から派生する。古代の人々はそれを天使及び霊魂及び霊性と呼んだ。

第二原理 全人類が形相に於いて同等であるなら、即ちそのことはまた(及び等しく無限なる多様性を持つならば)全人類は詩的霊性に於いても同等である。

第三原理 如何なるものも自身の心の深奥から思考し乃至書き乃至話すことは出来ないが、しかし人間は真理へ向かはなければならない。何故なら哲学の全学派は全個人の羸弱さに応じた詩的霊性から派生したものである。

第四原理 既知の領域を見回したところで如何なるものも未知を見出すことは出来ない。即ち後天的に得た認識から人間はそれ以上獲得出来なかった。故に全宇宙型詩的霊性は存在する。

第五原理 あらゆる民族の各宗教はあらゆる場所で預言の霊性と呼ばれる詩的霊性を各民族が多様に感受したことから派生する。

第六原理 ユダヤ教徒及び基督教徒の聖書は詩的霊性から本源的に派生したものである。このことは肉体的感覚の限界性から必然である。

第七原理 全人類は同一(無限の多様性が見えてゐるにも拘はらず)である故に、全宗教及び全宗教的類似物は一つの本源を持つ。

真の人間は自身が詩的霊性であることの源である。

以上、当時のMemoのまま――表現が稚拙で誤訳ばかりであるが――ここに書き記しておく。当時の雰囲気が香ってくるのでね。

さて、君に話し掛けられても私を微笑みながらじっと見続けてゐた雪の顔は、目はフランツ・カフカかエゴン・シーレのSelf-portraitの眼光鋭い眼つきに一見見えるがよくよく見ると雪の目は柔和そのものであった。

(以降に続く)


川の中の柳の木

――今年も芽吹いたか……

その柳を見た時からもう既に数年経つが未だ健在である。何年川の水に浸かってゐるのだらうか。その柳の木を最初に目にした時には既に川の中であった。川に洗われ剥き出しになった根根には空き缶やらPolyethylene-Bucket(ポリバケツ)やらVinyl(ビニール)やら塵が沢山纏はり付いてゐてたので何年にも亙り川の中に在り続けてゐたといふことは想像に難くない。

しかし、その柳は凛としてゐた。

多分、完全に水に没してゐる部分は腐ってゐる筈で、如何様にその柳が完全に水の中に横倒しで生き続けてゐるか摩訶不思議でならないが、その生命力の凄まじさは何時見ても驚きであった。

――何がお前をさう生きさせてゐるのか……

それにしても自然は残酷である。梅雨時の大雨か台風の豪雨かは解らぬがその柳が立ってゐた後が岸辺には今もくっきりと残されてゐた。多分、二本並んで柳は岸に立ってゐた筈で、その片割れは今も岸にしっかりと根を張り泰然と生きてゐるが、其処から数meter離れた岸には濁流がざっくりと抉り取った後が残ってをり、多分、川の中に横倒しで生きてゐるあの柳の木は元元其処に悠然と立ってゐたに違ひない。

――どばっ、どぼっ、どどどどど――

しかしながら濁流は見れば見るほどその凄まじさに引き込まれさうになる不思議な魔力を持ってゐる。

私は台風一過等で起こる川の凄まじき濁流を見るのが好きであった。橋すらゆっさゆっさと揺さぶるほどの強力(がうりき)、この魅力は堪らない。目が濁流の凄まじき流れに慣れると何だか物凄くSlow motionで川が流れてゐるのではないかといふ錯覚が起こる。そこで不意に川に飛び込みたくなる衝動が私に生じ、『あっ』と思って吾に返るのである。その繰り返しが私は多分堪らなく好きなのだらう。濁流に魅せられたらもう其処から少なくとも一時間は動けなくなる。

――あっ、渦が生じた……。木っ端が渦に飲み込まれた……。あっ、大木だ。あっと、大木すら渦が飲み込んだ……。どばん ! ! 大木がConcreteの橋脚に激突した……

……………

それにしてもあの川の中の柳の木はよくあそこで踏み堪えたものだとつくづく思ふ。凄まじき濁流に投げ出されたならば最早流されるだけ流されるしかない筈なのだが、あの柳の木はあそこで止まったのだ。さうして何年も芽吹き生き続けてゐる。これまた凄まじき生命力である。水に浸かった部分は多分もう腐乱してゐる筈である。それでも尚、あの柳の木は川底に多分根を張ってゐるに違ひない。これまた凄まじきことよ……

――お前は何故吾を、この水の中の柳を哀れむのか

――否、感嘆してゐるのさ

――何を ?

――だから……あなたの生命力の凄さを……

――ふっ、馬鹿が

――何故 ?

――『自然』なことの何を感嘆するのか、はっ。

――すると、あなたは『自然』を『自然に』受け入れてゐるのですか ?

――受け入れるも受け入れないもない ! ! 此処が吾の生きられるこの世で唯一の場所だから……受け入れるも受け入れないもない ! !

――すると、

――黙れ ! ! お前に問ふ ! ! お前がこの世で唯一生きられる場所は何処だ ?

――……

――去れ ! ! 此処はお前のゐる場所ではない ! ! はっ。



審問官Ⅳ――主体弾劾者の手記Ⅲ


君は多分解ってゐた筈だが、自同律を嫌悪する私は性に対してもその通りだったのだ。思春期を迎へ夢精が始まり、まあ、それは《自然》のことだから何とか自身を納得させたが自慰行為は幻滅しか私に齎さなかった。射精の瞬間の《快楽》がいけないのだ。その《快楽》は私に嘔吐を反射的に齎すものでしかなかった……

君は「xの0乗 = 1」《(x > 0):0より大きい数の 0 乗は 1 となる》といふことは知ってゐるね。私はこの時自同律の嫌悪を超克するには《死》しかないと確信してしまったのだ。0乗の零が一回転に見え、即ち私にとってそれは現世での《一生》に見えてしまったのだ。生命は死の瞬間確率1にになる。つまり、1=1といふ自同律が《死》で完結するのだ。これで自同律の嫌悪は終はる……

――はっ。

…………

ところで、雪を除いて過去に私を一方的に愛してしまった女性たちは或る時期を過ぎると必ず私に性行為を求めて来たので私は《義務》でそれら全てに応じたが、性行為が終わると《女の香り》が私を反射的に嘔吐させる引き金になってしまったのだ。勿論、私は同性愛者ではない。だから、尚更いけないのだ。或る時、私が射精した瞬間、女性の顔面に嘔吐してしまったのを最後に、私は女性との性行為もしくは性交渉をきっぱりと已めてしまった……

また雪を除いての話だが、それに《女体》の醜悪さはどうしようもなかった。彼女たちは彼女自身の《脳内》に棲む《自身の姿》をDietなどと称しながら自身の身体で体現する《快楽》が自同律の《快楽》だと知ってゐた筈だが、私の嘔吐を見ながらも已めはしなかったのだ。結局彼女たちの理想の体型は痩せぎすの《男の身体》に《女性》の性的象徴、例へば乳房を、しかもそれが豊満だと尚更良いのだが、そんな《不自然な》体型を《女体》と称して私に見せ付けたのだ。これが醜悪でないならば何が醜悪なのか……

そこに雪が現われたのだ。

私が欅の木蔭のBenchにゐた雪を見つけた時、反射的に私の足は雪に向かって歩き始めてしまった。その時、雪は読んでゐた本から目を上げ私を一瞥すると私の全てを一瞬にして理解したやうに可愛らしい微笑を顔に浮かべ私を彼女の《全存在》で受け入れてくれたのだ。君にはこの時の雪と私の間で通じ合ひ、それをお互ひ一瞬で理解したと認識し出来てしまったと多分お互ひ同士感じた筈である感覚は多分理解不能だと思ふが《奇跡的に》それがその時起こってしまったのだ。

吾ながら今もってその時の事は不思議でならないがね……

君は私が《黙狂者》だと認識してゐたので君は多分私と雪との関係をこれまた一瞬で理解したのだらうね、君は駆け出して私より先に雪に声を掛けたね。あの時は有難う。

――君、何の本を読んでゐるの ?

――William Blake(ヰリアム・ブレイク)よ。

――それは丁度いい。良かったならなんだけど、これから僕たちBlakeの《THERE IS NO NATURAL RELIGION》と《ALL RELIGIONS ARE ONE~The Voice of one crying in the Wilderness~》をネタにして男ばかりだけど……飲み会みたいなSalonみたいな真似事をしようとしてゐるので……君も来ないかい ?

――いいわよ。

――本当 !? じゃあ、僕らと一緒に行かう。

雪は君と会話してゐる間もずっと私を見て微笑んでゐたのは君も覚えているだらう。その時私には雪が尼僧の像と二重写しで見えてしまっていたのだ……

William Blake著

《THERE IS NO NATURAL RELIGION》

[a]

  The Argument. Man has no notion of moral fitness but from
Education. Naturally he is only a natural organ subject to
Sense.
 I  Man cannot naturally Percieve. but through his natural or
bodily organs.
 II  Man by his reasoning power. can only compare & judge of
what he has already perciev'd.
 III  From a perception of only 3 senses or 3 elements none
could deduce a fourth or fifth
 IV  None could have other than natural or organic thoughts if
he had none but organic perceptions
 V  Mans desires are limited by his perceptions. none can desire
what he has not perciev'd
 VI  The desires & perceptions of man untaught by any thing but
organs of sense, must be limited to objects of sense.
 Conclusion. If it were not for the Poetic or Prophetic character
the Philosophic & Experimental woud soon be at the ratio of all
things & stand still unable to do other than repeat the same dull
round over again

[b]

 I  Mans perceptions are not bounded by organs of perception. he
percieves more than sense (tho' ever so acute) can discover.
 II  Reason or the ratio of all we have already known. is not
the same that it shall be when we know more.
 [III lacking]
 IV  The bounded is loathed by its possessor.  The same dull
round even of a univer[s]e would soon become a mill with
complicated wheels.
 V  If the many become the same as the few, when possess'd,
More! More! is the cry of a mistaken soul, less than All cannot
satisfy Man.
 VI  If any could desire what he is incapable of possessing,
despair must be his eternal lot.

 VII The desire of Man being Infinite the possession is Infinite
& himself Infinite
    Application.   He who sees the Infinite in all things sees
God. He who sees the Ratio only sees himself only.
Therefore God becomes as we are, that we may be as he is

《ALL RELIGIONS ARE ONE》
〔The Voice of one cryng in the Wilderness〕

 The Argument    As the true method of knowledge is experiment
the true faculty of knowing must be the faculty which experiences.
This faculty I treat of.
 PRINCIPLE 1st  That the Poetic Genius is the true Man. and that
the body or outward form of Man is derived from the Poetic Genius.
Likewise that the forms of all things are derived from their Genius.
which by the Ancients was call'd an Angel & Spirit & Demon.
 PRINCIPLE 2d  As all men are alike in outward form, So (and with
the same infinite variety) all are alike in the Poetic Genius
 PRINCIPLE 3d  No man can think write or speak from his heart, but
he must intend truth. Thus all sects of Philosophy are from the Poetic
Genius adapted to the weaknesses of every individual
 PRINCIPLE 4.  As none by traveling over known lands can find out
the unknown. So from already acquired knowledge Man could not ac-
quire more. therefore an universal Poetic Genius exists
 PRINCIPLE. 5. The Religions of all Nations are derived from each
Nations different reception of the Poetic Genius which is every where
call'd the Spirit of Prophecy.
 PRINCIPLE 6   The Jewish & Christian Testaments are An original
derivation from the Poetic Genius. this is necessary from the
confined nature of bodily sensation
 PRINCIPLE 7th  As all men are alike (tho' infinitely various) So
all Religions & as all similars have one source
 The true Man is the source he being the Poetic Genius

(出典:PENGUIN CLASSICS版 「WILLIAM BLAKE――THE COMPLETE POEMS」より頁75~77)

(以降に続く)









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