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浅川マキと高田渡と江戸アケミ

何時もはClaasic音楽漬けの日々、特にシュニトケ(ロシア)、ベルト(エストニア)、グバイドゥーリナ(ソ連->ドイツ)、武満徹などロシアと日本を含めたロシア周辺の現代作曲家の作品を好んで聴く日々を送ってゐるが、時折、日本のMusicianで言へば浅川マキと高田渡と江戸アケミの三人の歌声が無性に聴きたくなることがある。

閑話休題。

音楽と言語は現代理論物理学の実践に他ならないとつくづく思ふ今日この頃だが、量子力学的に言へば、音楽は波を主軸に、言語は量子を主軸に置いた理論物理学の実践である。

先づ音楽であるが、音符などの記号といふ『量子』と、音といふ『波』の二面性がある。しかし、音楽の記譜に用ひる記号は音の状態のみに特化したものなので音楽は感性的で抽象性が強い表現方法である。多分、一流の演奏家は作曲家の頭蓋内を覗き込むかのやうに眼前に記譜された楽曲を理解してゐるに違ひないと思ふが、私のやうな凡人には楽曲の演奏を聴いて魂が揺さぶられるが、何故? と問はれてもそれは言葉では表現出来ないのである。

次に言語であるが、文字といふ『量子』と、読みといふ『波』の二面性がある。特にここでは日本語に絞って話を進めるが、もしかすると理論物理学の実践といふ点で言へば日本語が最先端を行ってゐるのかもしれない。

埴谷雄高は何も書かれてゐない原稿用紙を『のっぺらぼう』と表現し、その『のっぺらぼう』を埴谷雄高独自の宇宙論へまで推し進めたが、『のっぺらぼう』は正に虚体論に直結してゐる。

何も書かれてゐない原稿用紙の『のっぺらぼう』の状態は私がいふ『虚の波体』の状態でのことである。じっと何も書かれてゐない原稿用紙を前にして書くべきものの姿が全く表象出来ない状態が所謂『虚の波体』の状態である。すると頭蓋内の暗黒の中に何やら『存在』してゐるやうな気配が感じられ始めるのだ。これが私のいふ『陰体』である。更に集中し頭蓋内の『それ』へSearchlightを当てるとその『陰体』はその姿を表象する。これがある言葉が出現する瞬間である。

さて、日本語は漢字の読みがいくつもあって、つまり量子力学的に『波が重なり合ってゐる』状態を実践してゐて面白い。書き手の頭蓋内で言葉の量子力学的状態が決したならば書き手は眼前の原稿用紙に先づ一文字を記す。これが言葉の『量子化』である。そして、最初に記された言葉の『状態』を更に固着化するために次の言葉が書き連ねられるのである。これは正に現代理論物理学の最先端の実践に他ならない。特に漢字の読みが幾つもある日本語はその更に先端を実践してゐると思はれる。

閑話休題。

さて、本題に戻ろう。浅川マキ以外はもう故人である。そして私的に数時間ではあるが直接本人と歓談したことがあるのも浅川マキ一人きりである。

浅川マキは浅川マキにしか表現出来ない独自の音楽世界があって彼女はそれとの格闘の日々を過ごしてゐるといっても過言ではない。後はInternetで検索してみれば彼女のことが少しは理解できるかもしれないが、普通の音楽が好きな人には彼女の『異端』の音楽は薦められない。彼女の音楽の核は『詩』である。

次にフォーク歌手の高田渡だが岡林信康や吉田拓郎に代表されるフォークが好きな人には高田渡は「何、これ」と言はれるに違ひない独特の味を持ったフォーク歌手である。何といっても山之口獏の詩を高田渡が歌った楽曲が一番である。高田渡は晩年私の好きな詩人の一人でシベリア抑留を生き延びた石原吉郎の詩を歌ふことに挑戦し始めたが、まだ石原吉郎の詩の言葉の存在感を手なずけられないままあの世へ行ってしまった。石原吉郎の詩の言葉の重さを手なずけた高田渡の歌が聴きたかったが返す返す間も残念無念である。

最後に江戸アケミであるが、彼は知る人ぞ知る伝説のバンド、JAGATARAのVocalistである。パンク、ファンク、レゲエ、中南米の音楽からさて、アフリカ音楽へ挑戦しようとしたところであの世へ行ってしまった。彼の書く歌詞は最高である。全てが江戸アケミの遺言になってゐるのだ。晩年、精神を病んでしまった彼のその人間の壊れ行く姿が克明に彼の音楽には記録されてゐるのでこれまた万人には薦められない音楽である。

浅川マキ、高田渡、そして江戸アケミの三人三様の独自の音楽世界は私の栄養剤である。





螺旋

螺旋から思ひ付くものの一つに二重螺旋構造のDNA(デオキシリボ核酸)がある。

そして螺旋は螺旋の真ん中を貫く一本の線を想起させる。螺旋の進行方向が螺旋の真ん中を貫く線の方向を決める。また、螺旋は龍巻を連想させる。螺旋状に渦を巻く気流が異常な破壊力の上昇気流を生み龍巻は地上の存在物を破壊する。DNAもまた自然物ならばこの摂理に従ってゐる筈である。DNAの真ん中を電流かその外の何かが流れてゐる筈である。それが何かは分子生物学者に任せてこちらは勝手な妄想を脹らませて主体といふものの仮象構造といったものを造形してみよう。

DNAの構造をフラクタルに拡大したものが人体だらうといふことは想像に難くない。さうすると主体たる人体は渦構造をしてゐるといふことも想像に難くない。一例として血管構造を見てみると動脈を構成してゐるといふ平行に走る弾性板の間を動脈長軸を巻くように斜走する平滑筋細胞が存在しいるらしいので血流がこのことと多少は関係してゐると看做せなくもないのである。

さて、人体を全体から見てみるとそれが渦構造であってもおかしくないと思へるのだ。口から肛門まで一本の管が人体を貫いてゐてそこは主体にとって『外部』である。

ここでカルマン渦の代表格である台風を持ち出してそれと人体の構造を比べると台風の目に相当するのが口から肛門まで貫く一本の管と看做せなくもないのである。そして肉体が台風の積乱雲群となる。

両手を拡げてその場で回転すれば肉体出来た『固時空』台風の出来上がりである。

さて、台風は台風に接してゐて渦を巻く高気圧によって動くが、人体は歩行する。多分、自転車、自動車、飛行機などは全て車輪かEngineの羽の回転運動で進んでゐることから『固時空』で円運動をしてゐるだらう時間を振り子運動に転換して人間は自律的に歩行してゐる筈である。『固時空』たる主体が歩行すれば主体に接して左右に時空のカルマン渦が発生する。つまり、『固時空』たる主体もまた渦構造をした存在に違ひないのだ。

舞踊に回転や渦巻き運動が多く、それが神聖なものと看做されたり死者との対話であったりするのもDNAの二重螺旋から発する『渦』と無関係ではなく、むしろ『固時空』たる主体が渦構造をしてゐると考へた方が自然で合理的だ。

―ーエドガー・アラン・ポーが『ユリイカ』の初めの方で書いてゐる『エトナの絶頂から眼をおもむろにあたりに投げる人は、おもにその場の拡がりと種々相とに心をうたれるのでありますが、これがくるりと踵でひと廻りしないかぎりは、その場景の荘厳な全一というパノラマは所有し得ないわけです。』(出典:創元推理文庫「ポオ 詩と詩論」 訳:福永武彦 他;二百八十四頁から)の実現だ。廻れ廻れ、全て廻れ !!


「哲学者」といふ名の犬

その犬は私が何か考へ事をしながら川辺をふらふらと歩いてゐた時に不意に葦原から眼前に現れ私の顔を見上げながら尾を振って私の愛撫を待ってゐる様子で私の前に座ったのがその犬との出会いであった。私はその犬が望み通り頭を撫でて一度その犬を抱きかかへ、「高い高い」をして「お前のお家にお帰り」と言って最早その犬のことなど忘れ再び考え事に耽り始め、暫く川辺を散策した後家路に赴いたのであった。

ある交差点で赤信号を待ってゐると不意に私の左脇にあの子犬が私の顔を見上げながら尾を振って座ってゐるのに気が付いたのである。

――お前は捨て犬か……

私はその時この子犬が我が家まで付いてきたなら飼ふと心に決め、その犬に対して敢へて知らん振りをしながら家路に着いたのであったが、案の定、その子犬は我が家まで私にくっ付いてきたのであった。

それが正式名「哲学者」、通常の呼び名は「てつ」との出会いであった。

「てつ」は兎に角倹しい犬であった。食べものといへば一番価格が安く市販されてゐた固形のDogーFoodと煮干少々、牛乳少々と週に一度鶏肉の唐揚げ一つといふのが「てつ」が生涯食べたものの全てである。それ以外のものを上げやうとしても「てつ」は首をぷいっと左に向け決して食べやうとしなかったのである。

「てつ」は柴犬か柴犬の雑種であったが定かではない。「てつ」は昼間は殆ど寝てゐたが夕刻になると茫洋と何処かの虚空を見上げては何十分もそのまま座り続け、散歩の時間までさうして過ごしてゐた。その姿を見て「てつ」を「哲学者」と名付けたのである。そして散歩から帰って食事を済ませると再び何処かの虚空を見て何やら考へ事に耽ってゐるとしか思へないやうに一点に座ったまま一時間ばかり動かなかったのであった。

それが「てつ」の日常の全てであった。

「てつ」の散歩も変はってゐた。「てつ」が我が家に来て一週間は「てつ」は私が行く方向に従って散歩の主導権は私が握ってゐたが、「てつ」は一週間で我が家周辺の地図が「てつ」の頭の中に出来上がって「てつ」はそれ以降、散歩のCourseを自分で決めて「てつ」が思ひ描いたCourseから外れやうものならその場に座って頑として動こうとしなかったのである。仕方なく私は「てつ」に散歩される形になってしまったが、「てつ」との散歩は何時も違ふCourseで全く飽きが来なかったのである。寧ろ「てつ」との散歩は楽しかったのであった。

雲水か修行僧のやうに食べ物に禁欲的であった「てつ」は性欲にも禁欲であった。発情は勿論してゐた筈だが、雌犬を見ても何の反応もせず、また、私の足にしがみ付いて交尾の擬似行為は一切しなかったのである。唯一「てつ」の性器が勃起したのは私とじゃれ付く時のみであった。

「てつ」は自分から私とじゃれ付くことは無く、私が無理矢理「てつ」にじゃれ付くと「てつ」の性器は勃起して「てつ」は私とじゃれ付くことに熱中するのであった。

「てつ」の遊びはそれか゛全てであった。

そんな日常が十七年続いたある日、既に白内障を患ってゐた「てつ」は突然体がふらつき出したのであった。それでも「てつ」は死の二日前まで散歩に出かけてゐたが、「てつ」の最後の散歩時は「てつ」の体は既に冷たくふらふらと何時もの散歩の半分にも満たなかったのである。

「てつ」の最期は眠るやうであった。既に冷たくなってゐた体を犬小屋の中に横たへ「てつ」は最期に生涯最初で最後の愛撫を私にせがんだのである。目で愛撫をせがんでゐるのが解った私は「てつ」を撫であげると物の数分も経たぬうちに「てつ」はあの世へ旅立って行ったのであった。それはそれは物静かで荘厳ですらあった。

さて、そこで亡骸となってしまった「てつ」の性器を見てみると其処に精液が凝固して出来てゐたのであらう、尿道の出口に白い可憐な小さな花を思はせる花にそっくりな精液の凝固物が咲いてゐたのであった。「てつ」は死ぬまで精液が尿道から滴り落ちてゐたのであった。つまり、生涯現役のままあの世へ旅立ったのである。その可憐な白い花を思はせる尿道に咲いた精液の凝固物が「てつ」の満ち足りた生涯を祝福してゐるやうでその白い花は荘厳な美しさを放ってゐた。



水鏡

例へば宇宙の涯を妄想するには満潮時の流れが澱んだ川面に映る街明かりをぼんやりと眺めながら考へるに限る。それが新月だと尚更いい。

其処は両岸がConcreteの護岸で覆われて葦原の無い都会の街明かりが最も川面の水鏡に映える場所であった。その日は夜もどっぷりと暮れ真夜中近い弓張月が天高く上った頃に満潮を迎える、つまり宇宙の涯を妄想するのに最もよい日であった。いつものやうにConcreteの護岸の一番上に腰掛けて流れの澱んだ川面の水鏡に映る街明かりと月明かりをぼんやり眺めてゐると考えはいつものやうに宇宙の涯へと及んだのである。

――さて、この宇宙が『開いた宇宙』でしかも光速より速く、つまり埴谷雄高のいふ『暗黒速』で膨脹してゐるのであれば、多分、宇宙外にいはしまする神々の目には反物質の暗黒の大海に浮かび急速に肥大化する越前海月のやうに我々が存在するこの宇宙は観えるに違ひない……

一台の自動車が堤防の上にある国道をLightを点けて左から右へと走り行く様が逆様に澱んだ流れの川面の水鏡に映ってゐた。

――しかし、現在の科学ではどうやら宇宙は『閉ぢた宇宙』らしいので暗黒の大海に浮かび急速に肥大化する『海月宇宙』は無いな……

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………………すると……さういへば確か北欧の神話だったと思ふが、この世は『世界樹』だか『宇宙樹』だかで表象されていたな……ここはニュートンに敬意を表してその『世界樹』を林檎の樹に喩へると……さて、我々が存在するこの宇宙はその『林檎の樹』に実ったたった一つの林檎の実でしかないに違ひない……

水鏡にうらうらと明滅する街明かりと月明かり。その明滅するRhythmが心地よい。

――すると反物質は林檎の芯の部分で果肉の部分は重力を深度で表す部分で我々が宇宙と言ってゐるのは林檎の表皮に過ぎないのかもしれないな……この考え方は銀河の分布を描いた宇宙地図で見る銀河の分布の仕方、真ん中がぽっかりと銀河の無い球上の周縁にのみ銀河が存在することとも一致してゐるやうな……無いやうな……まあ良い……今日のところは林檎の樹で行かう……

一尾の魚が水面を跳ね上がり水鏡に波紋がゆっくりと拡がって行く……

――さて、熟した『林檎の実』がぽとんと枝から落ちても『林檎の実の表皮』に過ぎない我々には……多分……宇宙外の『地面』に落下したことすら解らないだらうな……知るのは神のみぞか……さて、『地面』に落下した『林檎の実』は地面と接した部分から朽ち始める……巨大な巨大な巨大なブラックホールの出現だ……そして……その巨大な巨大な巨大なブラックホールも朽ち果てて『林檎の実』宇宙はべちゃっと潰れて反物質である『林檎の種』のみぞ残るのみか……さうして悠久の時を経て『林檎の種』は発芽する……ビックバンか……神の鉄槌の一撃が『林檎の種』に食らはせる……一つの『林檎の種』から『世界樹』は育ち幾つもの『林檎宇宙』実らせる……これを未来永劫繰り返す……か……

また一尾の魚が水面を跳ね上がり水鏡にゆっくりと波紋が拡がって行く……

――さて、今度は宇宙の膨脹が光速以下だとすると宇宙の涯は、さて、鏡のやうなものに違ひないだらう……この世に存在するあらゆるものは当然この宇宙外に飛び出ることはあり得ず光速で宇宙の涯まで到達してしまった光は宇宙の涯で反射する外無い……すると宇宙は光CableのやうなTube状でもよく……すると……この宇宙の形状は閉ぢたものであればどんな形でも構はないことになる……ふっ、宇宙の膨脹が光速以下とする方が今のところ合理的かな……つまり……この宇宙の涯は眼前の水鏡か……

うらうらとうらうらと澱んだ流れの川面に映る街明かりと月明かりが明滅する美しさは飽きが来ない……。

その日は潮が引き始めて川が再び流れ始めてもConcreteの護岸から腰を上げることなく明け方まで川面の水鏡をずっと眺め続けてゐたのであった。



死神

人類が大きな勘違ひをしてゐることが一つある。それは仮令人類が地上から消えようがそれは所詮人類のみの問題であって、地球は勿論、宇宙にとっても人類が滅亡しようが生き残ろうがどうでも良い、即ち問題にすらならないある一つの事象に過ぎず、地球にとっても、まして宇宙にとっても人類の存在なんぞ歯牙にすらかけてゐない、全く下らない事象に過ぎないのだ。

唯、自然がこれ以上人類の存続を許さなかったならば自然は眦一つ動かすことなくその冷徹な手で自然に必要な数の人類を除いて残りは全て自然災害等で間引く、つまり人類の大量虐殺を何の躊躇ひもなく行ふといふことである。

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それは突然役所で決まって、ある朝、突然畑に舗装道路を通すための測量が始まった。後はAsphalt(土瀝青《つちれきせい》)で舗装すればその道路は完成といふところまでは何の問題もなかったやうに思ふが、さて、いざ土瀝青を敷いて道路を舗装し終へた翌日の朝、舗装された道路やその周辺では大量の蚯蚓(みみず)が死んでゐたのであった。土瀝青の上で力尽き野たれ死んでゐる何百匹の蚯蚓の外にも、まだ蓋のしてない側溝の中にも何百匹もの蚯蚓が力尽き死んでゐたのであった。その異様な光景は多分土瀝青を敷くときに使われた何かの薬品の所為に違ひないのである。地中といふ地球における「未来」に棲む蚯蚓は多分に生物の未来をも担ってゐる筈で、その蚯蚓の大量虐殺は生物の「未来」の抹殺をも意味してゐたに違ひない。

しかし、事はそれで終わらなかったのである。死んだ蚯蚓を喰らったのであらう、数羽の雀が道端で死んでおり、また、側溝の中には何匹もの螻蛄(おけら)と土竜(もぐら)が逃げ道を探して側溝の中で逃げ惑ってゐたのであった。螻蛄と土竜の姿を見るのはそのときが多分初めてであったと思ふが、螻蛄と土竜のその愛くるしさは今も忘れない。螻蛄と土竜を一匹一匹拾い上げて土に戻してあげたのは言ふまでもないが、螻蛄と土竜は蚯蚓の異変を喰らふ直前に察知したのであらう、多分螻蛄も土竜も死んだ蚯蚓を喰らふことなく生き残ったのだと思ふ。

さて、その日の夕方野良猫さへ危険を察知して喰はわずに死体を曝し続けてゐた雀は遠目に何も変わった様子は無かったのであったが、近づいて見ると黒蟻の山が雀の死骸の下に出来てゐたのであった。当然、何匹かの黒蟻は薬品にやられて死んでゐたが黒蟻はその死んだ仲間の黒蟻さへもせっせと自分の巣へ運んでゐたのである。

翌年、黒蟻の姿を余り見かけなかったのは言ふまでもない。

人間はかうも罪深き生き物である。この償いは近い将来必ず人間自らに降りかかって来るに違ひない……



高層族

あの身を刺すやうな垂直線が無数に林立する大都会の風景に慣れることは一生無いだらうと腹を括ったつもりでゐたが、いざ大都会の町並みを目の前にすると垂直線の恐怖で身が竦んでゐる自身に苦笑するしかない。

それにしても何故高い住居費を出してまであんな高層階にのかその棲む人の気が知れない。高層ビルはアインシュタインの特殊相対性理論から一種の過去へTime SlipするTime-Machineであることを知って皆あんな高層に棲んでゐるのだらうか。

主体の現在が皮膚の表面といふことと一緒で地球自体の現在は地肌が剥き出しになった地表である。その地表に高層ビルを建てればそれだけ地球の自転による回転速度が地表より増し、特殊相対性理論から高層ビルを流れる時間の流れは地表より極々僅かでしかないがゆっくりと進むのである。高層ビル群に棲んでその時間がゆっくりと進む感覚が感知できない現代人は感覚がとっくに麻痺して感覚器官が退化してゐるといふことで、既に人間では無いのかも知れないのである。これは由々しき問題で多分地表と高層との時間の進み方の違いを感覚的に感知した人間はその理由が解らず深い悲しみと苦悩の中に追い込まれ遂には自殺すると考へられなくもないのである。感覚が敏感な人間は都会に馴染めずあの身を刺す垂直線の地獄から逃れるために「過去」である高層ビルの屋上から「現在」である地面に一気に飛び込んで飛び降り自殺――自殺はまた地獄行きである。何故なら生きていくのが辛い現世の意識と感覚が未来永劫「私」であるといふ地獄に行くのである。そこは正に「嫌だ、嫌だ」といふ呻き声ばかりする阿鼻叫喚の世界である――をして死んでしまひ、時間の感覚に鈍感な「人間」の子孫ばかりが生き残るといふこと、つまり今は人間が退化して「何物」かへと変はる過渡期なのかもしれないが、それが「進化」といふならそんな「進化」は御免蒙るしかないのである。故に高層ビルに棲める都会人は最早退化した人間でしかなく、そんな得体の知れない「人間」とはなるべくなら関わりたくないといふのが本音である。

それとは逆に地下は地表より地球の回転速度が遅いので特殊相対性理論上、「未来」へのTime-Machineとも言へる。だから地下は目的なければ近寄らないほうがよいのである。目的無き未来にぽつんと置かれれば猜疑心や不安等に襲われ一分たりともそこには居たくない筈である。さうでなければ自身を退化した、人間ならざる何物かといふことを自覚して感覚を研ぎ澄ます訓練をしなければ「人間」は絶滅する。

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矢張り都会に来たのがいけなかったのだ。こんな「人間」ならざる魑魅魍魎が跋扈する不気味な世界からはさっさと退散するに限る。




自同律の不快


不合理故に我信ず。

我は何故に存在してしまったのであらうか。

知らず知らず自他の逆転の仮象に埋没して行く。。。


浮遊と落下
――この浮遊感は何なのだらう。ふわふわと浮いてゐるやうでゐて、何故だらう、何処か底の知れぬ奈落へと落下してゐるやうな嫌な感じだけが脳裡を掠める……

さて、不意にお前は口に出したな、「許して下さい」と。お前は今、パスカルの深淵の真っ只中さ、へっ。

カルマン渦―断章Ⅰ
時間もまた流れる流体の一種ならば時間のカルマン渦も時間の表象に生滅してゐるに違ひない。その時間のカルマン渦の一つ一つが物の生滅を象徴してゐるとしたならばそこに見えるパノラマは将に諸行無常の位相の数々に違ひないのだ。

その時間のカルマン渦の一つにたゆたふ我はまた、ゆるりと流れ行く時間を味はひながら己の無常といふセンチメンタルな感傷に耽るといふ極上の楽しみを満喫せねばならぬいふ宿命を自嘲してゐる。。。

――あっ、これが物自体の影絵なのか……

瞼考Ⅰ
この世の森羅万象は多分夢を見るに違ひないと思ふが、瞼の出現で多分夢といふものの性格が突然変異するが如く変質したに違ひない。

多分、瞼が出現する以前は闇なるものはその概念すら無く、漆黒の闇は瞼の出現と共に脳が創り上げた傑作の一つではないかと思ふ。

盲ひた人に尋ねると眼前には灰色の虚空が拡がっていると聞くが、さうすると、闇は視力のある人にしか見られないもので、闇の出現で夢は具象と抽象を行き来することが可能になったのではないかと思へるのであるが、さて、今夜瞼を閉ぢた漆黒の闇に出現する世界は我を我として受け入れてくれるだらうか……

地獄問答
――涅槃以外に輪廻転生から逃れられる術があるがお前には良く解らうが……

――未来永劫に意識と感覚が自我に縛り付けられたままのあの世のことかね。

――つまりは……

――つまりは地獄さ。未来永劫自意識に囚われ続けなければならず、拷問の極致の中にゐ続けなければならない地獄……

――未来永劫「私」でゐ続けられるのだからある種の人間にとっては極楽じゃないかね。

――ふっ。それでお前は地獄に堕ちたのか……

異形の我
フラクタル的に見ても地球と脳は自己相似を成してをり、仮に脳裡に浮かぶ仮象の一つ一つがこの世に存在する物の象徴としたならば、脳裡に浮かぶ仮象は異形の我の仮の姿なのかもしれない。深海に棲む生物の異様な姿は漆黒の闇の中で自らの姿を妄想し、棲む環境がさうさせたに違ひない。私の脳裡に浮かぶ仮象の海の奥底には私の知らない異形の私が必ず棲息してゐる筈である。中にはぬらりと仮象に現れてその異形を見せる奴もゐるだらうが、多分奴らの殆どは私が死んでもその姿を現さずに闇の中でひっそりとその登場の機会を窺ってゐる筈だ。

――お前は誰だ。

――ふっ、お前だぜ。

虚体考Ⅰ――寂寞(じゃくまく)
私の内界の何処かには風穴のやうな穴がぽっかりと開いゐて其処を一陣の風が吹き渡るときの寂寞感が何故か堪らなく好きであったのでその穴を「零の穴」と自身秘かに名付けてその穴について暫くの間詮索せずに抛って置いたのであった。

しかし、寂寞は一方で人間にとって堪らないものであるのは確かで私も次第にその寂寞に堪えられなくなったのは想像に難くない。

或る日、寂寞に堪えられなくなった私は「零の穴」の探索に取り掛かったのであったが、それを見つけるのに二十数年を要することとなった。

つまり私は堪え難い寂寞に二十数年間苦悩し続けたのであった。

――あれか、『零の穴』は……

其処は月面のやうな荒涼とした世界で「零の穴」は直径一メートルくらゐのクレータのやうであった。

さて、「零の穴」を覗き込むと音にならない音と言へばよいのか、何とも奇妙な寂寞とした音未満の音が絶えず噎び泣いてゐたが、「零の穴」は正に漆黒の闇また闇の底知れぬ穴であった。

暫く「零の穴」を覗いてゐると何度となく漆黒の闇にオーロラのやうな神秘的なぼんやりと発光する光とも言へない光の帯が「零の穴」全体に波紋のやうに拡がっては消え、すると「零の穴」を一陣の風が吹き抜けて行った。

――成程、これが『虚』の世界か。あの神秘的な光の帯が未だ出現ならざる未出現の存在体なのか。埴谷雄高は『死霊』を完成させずにあの世に逝ってしまったが、何やら『虚体』の何たるかは解ったぜ、ふふっ。

「零の穴」。それは存在以前の物ならざる波動体――これを「虚の波体」と名付ける――が横溢する所謂数学的に言へば虚数の世界、つまり確率論的な波が無数に存在する世界なのであった。

そして、あのオーロラのやうな神秘的な光ならざる光の帯こそ「虚」が「陰」に変化(へんげ)した、これまた未だ出現ならざる未出現の存在――これを「陰体」と名付ける――なのだ。埴谷雄高は「虚の波体」と「陰体」とが未分化まま虚体の正体が明かされることなく永劫に未完のまま『死霊』を終へてしまったが、さて、「陰体」とは数学的に言へば虚数を二乗して得られる負の数のことで、この「陰体」を更に具体的に言へば、闇の中にひっそりと息を潜めて蹲って存在してゐる物のことでそれらは「光」無くしては其の存在すら解らぬままの存在体のことである。

――Eureka !!

そして、作曲家・柴田南雄の合唱曲のやうな旋律ならざる声の束がやがて風音に聞こえてくると言ったら良いのか、そんな「零の穴」を吹き抜ける一陣の風が噎び泣く音が今も耳にこびり付いて離れないのであった。

瞼考Ⅱ――過去にたゆたひ未来にたゆたふ
物理の初歩を知ってゐるならば距離が時間に、時間が距離に変換可能なことは知ってゐると思ふが、さうすると、私から距離が存在してしまふとそこは過去の世界といふことになる。つまり私は過去の中に唯独り現在として孤独に存在してゐるのである。

――其処。

と私が目前を指差したところで其処は最早過去に存在する世界なのである。

これは考へやうによってはとても哀しいことであるが、私たちはこれが普通のこととして受け入れてゐるである。

しかし、これが一端到達すべき目的地が私に発生するとその目的地は過去から未来の世界に転換してしまふのである。つまり、過去は未来に、未来は過去にと未来と過去は紙一重の関係で過去と未来は入れ替はりが可能な摩訶不思議な関係にあるのである。

さて、先に現在は私と言ったが、それはつまり過去か未来の世界の孤島として存在する現在の私の現在は外界と接してゐる皮膚のみといふことである。私の内界はさうすると当然未来といふことになるが、しかし、よくよく考へてみると私の内界では未来も過去も関係なくある種自在感を持って過去と未来を行き来してゐるやうにも思へるのだ。

つまり、私は過去でも未来でもない現在といふ所に保留されたまま存在してゐるといふことになる。だから瞼を閉ぢて出現する闇に未来も過去も関係ない「現在」といふ表象が浮かんでは消え、また浮かんでは消えてを繰り返し、私は「現在」で逡巡しながら未来へと歩み出してゐるのである。

ところが私の内界には限りがある。つまり死を必然のものとして賦与されてゐるのである。さうすると中原中也の『骨』といふ詩が不思議に味はひ深い物となってくるのだ。

中原中也の『骨』の出だし――

ホラホラ、これが僕の骨だ、

……

。。。。。。。。。。。。

カルマン渦―断章Ⅱ
時空がカルマン渦を巻いてゐる光景は誰しも目にしてゐる筈で、それは主体が動くと時空のカルマン渦は必ず発生してゐるのである。一番それが解るのは電車から見える外界の光景でそれが無限遠を中心に渦を巻く時空のカルマン渦である。

すると主体は左右の時空のカルマン渦の間に生じた「現在」といふ狭間にしか存在できない哀しい宿命を背負ってゐる存在で、例へばそれを「個時空」と名付けるとこの世の存在物は皆「個時空」といふことができる。

さて、そこで「個時空」は主体だけの現象で主体が客体に転換すると客体と化した私は何物かが出現させた時空のカルマン渦に巻き込まれてしまふのである。

――二つの『個時空』が同時に同じ場所に存在できる『超越』を、さて、人間は成し遂げることが未来の何時か成し遂げることが出来るのだらうか……

――お互ひ同士波と言ふ音を使って会話が出来るではないか。

――ふむ。しかし、人間は同一空間に二つのものが同時に存在する様を夢想する生き物なのだよ。

――はっは。お前はこの世の全生物になり同一空間に二人の人間が存在とてゐた時期を忘れてしまったのかね。つまり『個時空』が全く同じ二人の人物がこの世に存在する奇跡の時間を……

――……

――よおく考へてごらん。きっとお前なら思ひ当た.る筈だから……

――ふむ……

――お前は宇宙の始まりからずっとこの世に存在してゐたのかね、ふっ。

――はっは。そうか母体の中だね。受精卵といふ一つの球体からこの世に存在するあらゆる生物に変態し、全生物史を十月十日で体験する胎児の時代か……

――そうさ、お前の母親と胎児のお前は同一の『個時空』に存在してゐたんだぜ。

――つまり、誕生は『楽園』といふ胎内からの追放か……。存在の悲哀、汝其は我に何を与へ給ふたのか……

――生老病死さ……

髑髏(されかうべ)
漆黒の闇に包まれたその虚空には遠くで鳴り響く天籟のかそけき音が幽かに耳に響くのを除けばその虚空もやはり闇以外の何物でもなかった。彼にとって闇は無限といふものへ誘ふ何か奇妙に蠱惑的な神秘を惹起させるもの以外の何物でもなかったのである。彼にとってその闇の虚空を覗く時間は至福の時であったのだ。

彼の机の左上にはいつも彼が学生時代に手に入れた古代人の髑髏が一つ置かれてあった。初めは唯研究目的で手に入れたその髑髏は何時の頃からか彼を無限へ誘ふ装置として欠かせないものとなってしまってゐたのである。

最初は何気なく髑髏の窪んだ眼窩を意味もなく覗き込んだだけのことであったが、それが彼の胸奥に眠ってゐた何かと共鳴したのか仕舞ひには病みつきになってしまったのである。

彼の髑髏の眼窩を覗き込む儀式は斯くの如く執り行われるのであった。まず、髑髏を覗く前に真夜中の夜空を数分見上げ続け、そして即髑髏の眼窩を覗き込むのであった。多分それは眼前の虚空に宇宙を思ひ描くために行われてゐたに違ひなかった。しかし、彼の眼前に宇宙が出現してゐたかどうかは不明である。

――何たる光景だ。今は髑髏になってしまったこの人の脳裡にも必ずこんな光景が浮かんでゐたに違ひない。無数の星が明滅してゐるではないか。凄い。そして、彼方此方でその星星が爆発としてゐる……。これが宇宙の死滅の光景か……。ブラックホールは何処だ ! これか。あっ、ブラックホールがぽっといふ音にならない音を立ててゐるかのやうに消えたぞ。凄い、凄過ぎるぞ、この光景は……。

彼が真夜中髑髏の眼窩を覗いて何を見てゐたのか誰も解らない。彼は不意に意味もなく自殺してしまったのであったから……

主体、蜂起す

――誰だ、この門を閉ざしてしまったのは……

主体共が世界に疎外されて久しいが、ぶつぶつと彼方此方でその不満を呟く主体のざわめきが何時しかこの世に満ちてしまったのだ。

――ハイデガーの言った『世界=内=存在』は嘘だったのか ! ! 

――馬鹿めが。お前らが『世界=外=存在』の世界を好んで選んだのではないか。

現代人ならば誰でも抱へる疎外感。それが何処からやってくるのか暫く解らなかったが一人の主体が自身の姿を鏡で見て驚いたところからその謎が解け始めていったのである。

――これは ! ! 轆轤首ではないか……。

――その轆轤首は誰かね。答へ給へ ! !

――……。

――逃げずに答へ給へ ! !

――わた……、……しかな……。

――良く聞こへなかったがね。もう一度はっきりと言へ ! ! お前は誰だ ! !

――わ……た……し……、ちぇっ、『私』だ。

――もう一度。

――私だ。間違ひ無い。『私』以外の何者でもない。私だ。

さて、轆轤首は歩けるのだらうか。眼玉が伸縮自在な蝸牛から連想するに轆轤首が全く歩けない哀しい存在だといふことは想像に難くない。

――お前に尋ねるがお前の世界認識の基盤になってゐるものは何だね。

――哲学……かな……。

――否 ! !

――ふむ……。……か……が……く……かな……。

――そうさ、科学だよ。科学が創った客観が支配する世界観に於いて主体の演じる役目は何かね。

――ふむ。……観察者……かな……。

――そうだ。観察者は何時も客観世界の何処にゐるかね。

――ふむ。……が……い……ぶ……、外部だ。

――はっは。もうお前も解っただろ、この世の仕組みが。

便利を受け入れ始めたときに既に主体が世界から疎外されることは必然だったのである。今では可笑しくて仕方が無いんだが、態々世界を『外部化』するためにCameraで世界を写し画面を通して世界を見る馬鹿なことが『普通』になってしまった摩訶不思議な世界に人間は暮らしてゐるのである。そして、『仮想世界』などと喜んで世界にKeybordなどの装置を通して間接的にしか世界に参加できないことが進歩だと思ってゐるのである。全く馬鹿としか言ひ様が無い。何せ夜空も見上げるのではなく前方にあるMonitorといふ装置を通して見る生き物だから、人間は。

――さあ、主体共よ、立ち上がる時が来た ! ! 蜂起だ ! !

――おう ! ! 

しかし、轆轤首と化した主体が歩けるはずは無く、皆歩かうとすると直ぐ転ぶ醜態をさらすしかなかったのである。

――先ずは這い這いから始めろ、へっ。

静寂(しじま)
十六夜の月明かりに誘はれて何処に行くとも決めずにふらふらと歩いてゐると、どうやら川辺に来てしまったやうだ。其処に蹲ると周囲に鬱蒼と繁茂してゐる葦原のお蔭で都会の街明かりが全て遮られ全くの十六夜があったのである。光るものといへば川面に映る十六夜の月明かりのみであった。その月明かりを傍らに立ってゐる柳の高木の葉々が時折ふわりと横切る風情は何とも言ひがたいほどの美しさだであった。

――ぴちゃっ。

何処かで魚が跳ねたやうだ。うらうらと魚の跳ねた後に残された波紋がゆっくりと広がり川面の月明かりをゆったりと揺らす。

――さわさわ……。

微風が葦原をそっと揺らす。

何やら夢現の世界に迷い込んだやうだ。私以外のものが発する時空のカルマン渦に唯我身を任せてゐることの心地よさは名状し難い。現在に保留された私はこの世界にたゆたふのみである。

――ぴちゃ。

魚が発した波紋が静寂の波紋と重なってこの世全てにゆっくりとゆっくりと広がって行く様が脳裡全体に広がって行く。我もまた波体となって脳裡に納められた全宇宙に波紋となって広がって行くのであった。

――我がこの世に溶け行く心地よさよ……

虚体考Ⅱ――眼球
遂に「零の穴」の入り口を見つけた。何のことはない、それは瞳孔だったのである。

――遂に辿り着いたな。やっとのこと見つけたぞ。

――Eureka ! !

一瞥のもと外界に存在する実体をしかと捉へる眼球は外界の光量によって自在にその大きさを変へる瞳孔無くしては始まらない。瞳孔を境にして外部は実体の世界、内部は虚体の世界である。それが瞳孔が「零の穴」たる所以である。

さて、外界に昼夜があって一日があるやうに個時空たる主体にも個時空特有の昼夜が存在する。それは瞼の一開閉で個時空の昼夜が完結、即ち個時空の一日が終はるのである。つまり、外界の二十四時間といふ一日の中に個時空たる主体固有の一日は瞼の開閉の数だけあるといふことである。しかも個時空たる主体の一日の時間の長さは千差万別で瞼の開閉の間隔と瞼を閉ぢてゐる時間の長さによって、例へば外界で言へば北極圏であったり熱帯であったり春夏秋冬であったりと様々であるといふことである。

ここでは外界の実体世界の話は脇に置き内界の虚体世界の話に絞るが、さて、虚体世界を覗くには先づ瞼を閉ぢなければ始まらない。

瞼裡に浮かぶ表象とか仮象とか夢想とか様々に呼ばれてゐるものは深海に生息する生物の中で自己発光する生物と看做せなくもない。更に集中とか思索とか様々に呼ばれる沈思黙考は内界にSerch Lightを当てて内界の闇に隠れてゐる「陰体」を見つける作業とも言へる。そして「虚の波体」は未だ未出現の形ならざる波体として内界で蠢動してゐる物自体の影絵とでも言へば良いのか、そのやうな「もの」として内界に「在る」のである。

また、余談ではあるが眼球は個時空たる主体のGyroscope(回転儀)と看做せなくもないのである。平衡感覚は三半規管で感知するが個時空たる主体の位置や方向などは全て眼球無くしては把握不可能である。多分、これは単なる憶測に過ぎないが量子力学で言ふ光子はSpinが一であるので網膜がこのSpin 一を感知して個時空たる主体の位置や方向を感知してゐるのかもしれないのである。つまり、Gyroscopeはそれ自体が回転することによってその回転軸に対しての相対的な関係で位置等を把握するが眼球は光子のSpinを逆に利用して恰も眼球自体が回転してゐるかのやうに把握してゐるのかもしれないのである。

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ゆっくりと瞼を閉ぢると左目の瞼裡には時計回りの、右目の瞼裡には反時計回りの勾玉の形をした光の玉が闇の周縁をゆっくりと回るカルマン渦が見えるのであった……。

波紋

川面をずうっとゆったりと眺めるのには川の流れの進行方向に対して右岸から眺めるのが一番である。つまり、水が左から右へと流れ行く様が大好きなのである。その理由の淵源を辿って行ったならば八百万の神々に行き着いてしまったのであった。

それは絵巻物を眺める様によく似てゐる。紙自体は右から左へと流れるが紙上に描かれてゐる絵巻は右から左へと流れて行くのである。これは個人的な見解であるが紙に天地を定めこの世の森羅万象を紙上に表せると太古の人々が考えたかどうだかはいざ知らず、しかし、例へば文を記すのにも右上から縦に書き出すそれは、文の進み行く方向、つまり右から左へと一行ごとに進むその右からの視点を「神の視点」とすれば日本語の縦書きは書き手の右に神が鎮座してゐるとも解釈できるのである。さうすると横書きは当然天に鎮座する神といふ事になる。といふことは縦書きは書き手と八百万の神々が平等の位置に居ると解釈できるのである。その解釈からすると紙上に何かを表すとはその八百万の神々との戯れでもある。

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或る日引き潮の時刻を見計らって河口からほぼ二十キロほど上流の川辺へ川を見に出かけたのである。それは偶然にも夕刻のことであった。辺りは次第に茜色に染まり始め見やうによってはこの世が灼熱の火の玉宇宙に化した如くであった。うらうらと茜色に映える川面。その時一尾の魚が丁度羽化した水生昆虫の成虫を喰らふために跳ね上がったのであった。その時生じた波紋。それは神の鉄槌の一撃で爆発膨張を始めたであらう宇宙創成の時の波紋、世界が波打ち時が刻まれ始めてしまった波紋にも似て何やら名状しがたい美しさと恐怖に満ちてゐたのであった。














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