少女がいた。
 手には二本のジュースがあった。
 それだけが始まりだった。

*



 自販機でジュースを買ったら当たった。
 二本目はいらないから誰かにあげようと思った。それだけだ。
「飲む?」
 深く考えることなく、手にした缶ジュースを差し出す。
 なのに同じ年ぐらいに見える少女は、敵意むき出しの視線を飛ばしてくる。
 腹の奥が痛くなるような鋭い眼光。
「あの……」
「何見てるの?」
「へ?」
「野良犬に唸られているみたいで腹立つんだけど」
「ご、ごめん」
 慌てて顔を伏せる。見事なまでの反射で、己の小ささを痛感してしまう。
「で、ジュースをくれるの? くれないの?」
「あ、ああ。どっちがいい?」
「どっちも同じじゃない」
 少女は人の手からジュースを一本ひったくり、それを片手に窓際に移動した。
 俺も同じように窓際へ。
「なんで付いてくるの?」
「え? ほら、二人いるのに、一人で飲むのも虚しいだろ」
「……そうかもね」
 人のジュースを奪ってそれかと焦ったが、どうやら了承されたようだ。
「貸せよ」
「あっ。何するのよ!」
 カンのフタを開けるのに手こずるあたりは病人らしいな。
 後は白皙の肌と、当たり前だけどパジャマを着ていることぐらいだ。 
 ジュースを返されると少女が聞いてきた。
「あんた患者じゃないでしょ。なんでここに来たの?」
「え?」
「制服」
「あ、そうか」
 俺が着ているのは地元高校の制服、帰り道に祖父の見舞いにきたのだ。
 少女は俺を睨んだ。正確には俺の来ている服を。
「私ね、その制服を見ると腹立つのよ」
 そしてその言葉と共に右腕を振り上げ、まだほとんど残っていたジュースをかけた。
 俺の頭から。ドボドボと。髪も顔も服もベタベタにることなんて容赦なく。
 呆然としている俺を見てか、少女が小さく笑った。
「ジュースありがと。それと私の前に二度と現れないで」
 身を翻し、どこかへ歩いていく少女。俺は最後まで動けなかった。

 それが俺と彼女の出会いだ。
 たぶん……いや確証を持って言えるが、史上最悪にて最低のスタートだと思う。

*



 次はその一週間後。
 祖父がめでたく退院するので荷物持ちに呼ばれたわけだ。
「あっ。お前!」
 そして同じ待合所で、同じようにして出会った。あの後ろ姿は見間違うはずもない。
 正直可愛いし、雰囲気ってやつが独特なのだ。
「おい、そこのジュースぶかっけ女!」
 病院内では静かになんて標語は考える余地もない。大股で近寄っていく。
「おいって!」
 あろうことか肩を掴んで引き寄せた。女子にそんなことが出来るなんて俺も相当怒っていたんだと思う。
 だから少女がいきなり座り込んだのには驚いた。ぺたんと床に座り込む。
「痛い……」
「ちょっと待て、俺は軽く――」
「痛いよ……胸、痛い……」
 見れば小さな背中が震えていた。苦しそうな息遣い、そして奮える声。
 マジだ。直感した。これは演技でも何者でもない。本気で、発作っ?
「誰か!!」
 叫んだのに誰も来ない。どうして?
 俺が困惑する間にも少女は足下で苦しんでいた。閉じた目から涙がこぼれ落ちる。
「もういい。おい、ちょっと我慢しろ」
 俺は少女の体を持ち上げると、そのまま走り出した。
 驚く白衣の男に遭遇するまで、少女はずっと胸を押さえていた。

*



 医者は少女の病室から驚くほど早く出てきた。
「別に異常なんかないんだよ、彼女の場合は」
 そのことを尋ねるとこんな言葉が返ってきた。
 医者はさり気なく、しかし実に看破しやすく切り出した。
「僕は次の仕事があるから行かなくちゃならない。
 出来れば君が彼女の相手をしてやってくれないか?」
「ええっ?」
「大丈夫だ。彼女の病気は精神的な物なんだ。連続することはない」
 意味不明なことだけを喋って医者は立ち去った。
 俺は混乱しつつ、とりあえずドアをノックした。
「どうぞ」
 声だけ聞くとひどく可愛くて、思わず緊張してしまった。
 だけどノックした手前、逃げられないので素直に病室に入っていく。
 少女はベットに座ったまま、こちらを睨んでいた。
「あんた、どうして私を助けたの?」
 第一声はそれだった。
「私なんか、冷たい床に倒れて泣いていればいいのに」
「お前、病気なんだろ? そんなこと言って――」
「別にどこも悪くない」
「え?」
 少女は驚く俺を見て、まるでその反応が期待通りかのように続けた。
「だから助ける必要なんか無い」
「でも、お前泣いてたじゃんか……」
 あの涙が嘘だったなんて言わせない。苦しむ顔も、本物だった。
「あんなに苦しんで、何もないってことはないだろ」
「……」
 少女が顔を伏せる。一週間前に俺と同じく、相手から逃げるために。
 あの時と立場がまるで逆転していた。
 しばらく互いに無言だった。時計の針が進む音で鼓膜が破れそうなほどの静寂。
 そんな重圧を少女の呟きが切り裂いた。
「あんたさ、イジメって知ってる?」

*



 それはありがちで、陳腐で、なのにまるで実感のない話だった。
 一人の少女が虐められていた。理由は分からない。少なくとも被害者は知らない。
 加害者も続けるうちに忘れたのかもしれない。とにかく意味はなかった。
 だけどイジメは確かにあった。
 そして少女は逃げた。逃げざる得なかった。ただの一人も味方がいなかったから。
 当然いるべき場所を、当然のように追い出された。
 たったそれだけの話。

「だから私の体はどこも悪くないのよ。医者は発作は精神的とか言ってるもの」
「じゃあ入院しているのはなんでだよ。入院してどうこうできる問題じゃないだろ」
「知らない」
「知らないって、それじゃ治るものも治らないだろ」
「治っても戻る場所なんかないもの!」
 少女が思いっきり怒鳴る。個室なのだから平気……というわけにはいかないだろう。
 しかしそんなことを注意する余裕はない。
「だいたいね……」
 もの凄い形相で睨む少女は一旦言葉を句切って、
「……あんた何年何組?」
「え? ああ、1―Bだけど」
「私もよ。同じ高校の同じ学年の同じクラス。でも私のことなんか名前も知らないでしょ」
 意表を突いた指摘で、そして悪いことに真実だった。
 俺は、確かに彼女の名前を知らない。
 同時にクラスにある、入学から数週間で空席となった一人分の机と椅子を思い出した。
「出て行って」
 少女――名前を知らないんだからそう言うしかない――が呟く。
「今すぐ出て行って!」

*



 翌日、登校してその空席を眺める。
 ここが彼女の席。虐めで逃げ出した、彼女がいたことを証明する物。
 ようやく理解した。制服を見て、怒った理由を。
 彼女がいきなりジュースをかけてきた理由は、そういうことなのだ。
「でも何でだ?」
 しかし腑に落ちない点はある。
「あの階にあるあの待合所から見えるのって……」
 やっぱしこの高校の、白い校舎だ。
 俺は窓から遠くに見える白い病院を眺めながら、そんなことを考えた。 

*



「なんで来たの?」
「見舞いだ」
「うざい」
 即座に帰ってくる文句。彼女(もう名前を知っているが)は前と同じようにベットに座っている。
 俺はその横を通って窓際に移動し、見舞いの品として持ってきた缶ジュースを渡した。
 ちなみにフタは開けてある。
「ここからは見えないんだな」
「何がよ」
「俺の、いや俺達の高校の校舎」
 息のを飲むツン。まさか本気で正解だったとは。
 なら、と俺は決めていた言葉を口にする。
「なぁ、知ってるか?」
「だから何がよ」
「そこに工事中のビルあるだろ? 二週間ぐらい前に着工したの。
 後一ヶ月もあれば完成すると思うけど、結構高いビルらしい」
「……」
「見えなくなるな。あの待合所からも校舎は」
 俺は今も背を高くしているのであろうビルを眺めた。病院も校舎も同じ平地に建っている。
 その軸上に建物が建てば、互いの建物は小さく見える程度だから完全に邪魔される。
「うるさい……うるさい!」
「怒鳴っても何も変わらないぞ」
「だからうるさいっ!!」
 缶を両手で握りしめ、ツンはひたすら床に怒鳴った。
 俺はこれ以上刺激を与えてしまったり、病室で騒いではまずいと判断し、
「明日また来る」
 出てけ! という彼女の命令に従うことにした。

*



「本当に来たのね」
「ああ。悪いか?」
「うざい」

 そんな日が2週間も続いた。

*



 そして俺が帰りに病院へ行くようになってから、二週間経ったある日。
「明日来ても、私はいないわよ」
 彼女が退院することになっていた。
「もう体はいいのか?」
「最初からどこも悪くない」
「じゃあ何で入院してたんだ」
 それは何度聞いても無駄だった問いだ。
 でも今日は答えが返ってきた。
「これ」
 ツンがパジャマの裾をまくる。露わになった右手首には、よく見なければ分からない一筋の傷跡があった。
「知らなかったでしょ? 私の親がね、黙ってて欲しいと言って、学校側も承諾したから。
 発見がもう少し遅れていたら、死んでたから隠せなかったでしょうけど」
 ひたすらに言葉が出なかった。
 クラスの奴が虐められてて、挙げ句そんなことで入院沙汰になっていたなんて。
 本当に、まったく知らなかった。
「ねぇ、待合所にいかない?」
 どうすればいいか分からなくなっていた俺に、ツンが提案してきた。

*



 二人して窓際に並ぶ。
 夕焼けの景色に一つの巨大なビルが君臨していた。
「見えなくなったな」
「昨日だって……もうほとんど見えなかったじゃない。今更どうこう言うことじゃないわ」
 今日になってビルはある高さに達していた。校舎が完全に隠れる高さに。
「私の家から、校舎は見えないのよ」
 俺を真っ正面から見据えるツン。瞳に涙を浮かべ、それが瞳よりこぼれ落ちると、俺に掴みかかってきた。
「だから……私、もう二度とあの校舎を見れないよ……。入学して、まだ数えるぐらいしか、見てないのに……。
 もう絶対に見れないんだ……。……だってビル邪魔してるし……私、は……」
 胸ぐらを捕まれ、ひたすら訴えられる。答えるのは全部聞いてからでも悪くないから。
「……校舎、見たいのっ! ま、また、制服来て、あの道を歩いて……でも、もう行けない……。
 それにここからも……ビルが……」
「あのな」
 俺はツンを引き剥がし、言った。
「お前はどうしたいんだ?」
 目を丸くしたツンがすでに言葉ではなくなっていた言葉を止めた。
「あのビルを爆破でもして、また入院して、ここから眺めていたいのか?だったら勝手にしろ」
 俺は無関係だ。
「だけどな……、お前の席はまだ残っているんだぞ!
 家のタンスには制服があるんだろ! 教科書もノートも体操服も全部揃っているんだろ!!
 なのにどうして――学校へ行かないんだよ!」
 そうさ。根本的な解決はそれしかない。それしかないのだ。
「いいか、行ける時に行かなきゃ全部無理になるぞ!
 次なんてのがあるほど、そんなに人生甘くないんだ。お前は知ってるだろ!
 逃げて、自分から遠ざけた距離が、どれだけ取り返しがつかないか! 今もその距離は開いているんだぞ!
 だから、今振り向かなきゃ、どうやって取り返すんだよ!」
 それが現実だった。
 現実は甘くはない。厳しいし、その重圧は人それぞれで、彼女のように酷い場合もある。だけど優しくはない。
 逃げていれば簡単に終わる。敵は追いかけてくるのではなく、弾き出すのだ。丁度クラスから弾き出されたように、戻れなくしてしまう。
 でも、今なら戻れる。
「私……も、戻れるのかな……。だって、みんな……敵で……私ばっかり敵みたいに、」
「俺がいる。だから誰もが敵なんてことは絶対にない」 
 ツンが目を見開いて、俺を見た。
 そして小さく頷く。笑顔で。

 その光景は、多くの患者や医者や看護士に目撃されていた。
 当然だ。

*



 約束の時間は二分前に過ぎた。俺は焦って自転車を飛ばす。
 すると家に前に立っている制服姿の彼女が見えてきた。
「悪い! 遅れた」
 謝りつつ急ブレーキで停止。ツンはそんな俺を睨み、
「二分遅刻」
 わざわざ報告してくれた。
「分かってるよ」
「分かってるなら遅刻するな」
 その通りです。正論過ぎて返す言葉もない。
 ま、そんなことは今話すべきことではない。時間が迫っているのだ。
「とりあえず乗れ、時間がない」
 ツンが頷いて荷台の部分に腰掛ける。落ちてはいけないので腕を回してきた。
「ほら、さっさと出発」
「うるさいな。分かってるよ」
 力一杯ペダルを踏みつけ、自転車を発進させる。みるみるうちに景色が後ろへ流れていく。
 やがて白い校舎が見えた。
「あんたさ、いつも購買のパンよね」
「何が?」
「昼よ。お昼!」
「ああ。そうだけど、どうかしたか?」
「別に……。ただ良かったら私が作ってあげようかと思っただ、きゃ!」
 危うく転倒しそうになった。
 しかし今、何て言ったんだ? 弁当? しかも手作り?
「……駄目かな?」
 ツンが不安になったのか声を小さくして聞いてくる。
「いや、マジOK。是非作ってくれ。毎日」
「……そう」
 昼飯の時、同じ内容の弁当を二人で食っていればどう見られるかは明白だ。
 でも別に関係ない。
 それは事実だから。

 自転車が校門を通過する。
 当然のように、俺もツンも校内へ入ることになる。
 そしてくだらなくて眠い授業を受け、放課にくだらなくて楽しい会話をして、夕方には帰る。

 そんな一日を始めるために。


最終更新:2006年11月04日 02:27