例えばマラソン大会があったとして。
そこには自分が風になる快感と、
自分は努力しているのだという満足感と、
ゴールの達成感があるのだと思う。
どれか一つ欠けていたら、きっと楽しめない。
*
私は泥臭い女の子だった。男子の幼馴染に囲まれるなかで育った。
「お前、男みたいに強いな!」
「うるさいわね!泣かされたいの!」
言葉で罵倒し、身体能力で圧倒した。
身長も高い方で、体育には自信があった。マラソンで一位をとったこともあった。
不思議なことにそういうものの積み重ねで、私の友人関係はできていった。
毎日が楽しかった。勉強はさっぱりだったけど。
*
私がスカートを穿くと、母がはしたない思いをするというので、大抵ジーパンを穿いた。
「あんたももう少し女の子らしくしなさい」
母は私のクラスの、ある女子のことを褒め称えた。
その子はおしとやかで器量もよく、お嬢様のようだった。
世間一般ではああいう子が望まれることを知った。
私もああいう子になりたいと思った。
しかし泥臭い性格は捨てられず、いつも乱暴して男子を泣かせていた。
*
ある日倒れて、病院に運ばれた。
母が病室で、難しい漢字が並んだ単語を、3つ4つ見せた。
文字の意味はよくわからなかった。
だけどそれで私はとても思い病気にかかったのはわかった。
室内生活を強いられ、薬を飲む毎日が続いた。
体力は嘘のようにがた落ちした。5歩、走って息が切れた。
駆け回ることなどできそうもなかった。
*
しばらくマンガを読んですごした。
学校の友達の話を聞き、外界の出来事に心を馳せた。
体が治ったら、当然外を駆け回りたいと思っていた。
それから長い入院生活を送った。学校の友達も少なくなった。
入院生活は嫌でも染み付いた。
私は以前のように人を罵ることはしなくなった。
話す相手はほとんど大人の人だったから。生意気なのは怒られるから。
そのうち言葉を忘れ、体を使う方法を忘れていった。
*
お年寄りの方々から、お茶の汲みかたを教わった。
すると褒められた。それからというもの機会があれば、積極的にお茶を作った。
困っている人たちを助ける看護婦さんに憧れた。
私もそうしなきゃと思い、患者さんの体を拭くのを手伝ってあげた。
子供心ながらに、だんだんと他人の気持ちがわかるようになってきた。
人が泣いていなくても、悲しんでいることもあるのだと知った。
人が怒鳴り散らさなくても、内心怒っていることもあるのだ知った。
仮に私がそういう気持ちになったらいやだと思ったので、私は笑った。
笑えば何とかなると思った。実際なっていたと思う。
*
病室の窓から、外の様子をうかがった。公園で子ども達が遊んでいた。
遠くから粋のいい声があがる。
「このスケベ!なにすんのよ!」
「お前女だったのかよ!」
私はスカートを見せてもいいから、あの輪に入りたいと思った。
それだけは思っていてもできないことだった。
私は世界の違いを感じた。
*
当時の私は服を選んで遊ぶという概念がなかった。いつもパジャマだった。
それを見かねたという患者の人が、お古といってスカートとフリフリの服をくれた。
それを着ると、
患者「お嬢様みたい」
女「ホント……?」、
患者「そうよ。あなたはおしとやかで器量もいいし、なにより可愛いからね」
だそうだ。なんと私はあのお嬢様になれたらしい。
思っていたよりつまらないものだと悟った。
私はあの泥臭い思い出を捨てきれていなかった。
*
絶えず微笑をし、他の患者を気遣い、毎日を変わりなく過ごす。
その方が人間関係を形成しやすいし、効率的だし、なにより楽だった。
いつものように老人方にお茶を汲み、ニュースの話題に相づちをうった。
よくわからない人の病気の説明を聞き、適度に同情した。
あれから大人になり、読書はマンガではなく、小説を読むようになった。
全てはそうせざるを得ない状況に、私は追い込まれていた。
*
例えばマラソン大会があったとして。
時間無制限。走行距離無限大。ゴールはどこでもよし。
なんてルールがあったらどうするだろう。
今の私なら、それは普通のマラソンよりずっと楽しいのだと思う。
当てのない道をさまよい、探索し、発見し、また次のどこかへいく繰り返し。
ゴールをするのが惜しいくらい。
しかし今の私は、狭い病院の廊下数本を、ゆっくり無機的に歩くだけ。
随分と道のりは狭まり、少なくなった。
先日ゴールが決まった。余命一年だそうだ。
このまま狭い道を走り続けるのは、惜しい。
*
私はいま、直線の道を歩いていた。
幼いころ、迷うほど分かれていた道の数々。
それらは運命に押しつぶされ、収縮し、今や一つとなり、
じきにゴールを迎えようとしていた。
わかりきった道のり、わかりきった結末を考えながら、
私は進む――そんなのは、
女「私はもっと色んな道を歩いていたかった!
子どもの時のように、誰からも縛られないで、」
1000メートルを直線で進むより、曲がりみちをぐねぐねいった方がいいと思った。
その方が早くついた気持ちになると思う。
そしてそれは楽しいと思う。
女「それなら……私は曲がってやる!
違う道を、歩きたい!」
*
男「やあ、はじめまして」
また新しい患者が入ってきた。私と同じくらいの青年だった。
この人が死ねば、私の知人の死亡者の累計が、ちょうど40になるなと思っていた。
私とどっちが先だろうとも思っていた。
いつものように当たり障りのない自己紹介を……した。
いつものように?私はそれがもううんざりだった。
思い出すのは、泥臭くて男みたいだった、私。
私はもっと色んな道を楽しみたい。
*
女「台所借りて作ったの。食べられる?」
男「蒸しケーキか……。うん。少しなら」
女「……」
男「ん!おいしい」
女「そ、そう……」
男「いやー嬉しいねー。
やっぱり可愛い女の子に作ってもらう料理は、質量以上のものがあるねー」
女「――ー」
男「どした?」
女「べ、別に――」
私は泥臭い女の子だった私を思い出した。
私は道を曲がった。
その方が、きっとこれから楽しくなれるような気がした。
女「あんたの為に作ったんじゃないんだからねー!」
男「えっ……えーっ!!なんでさ!これはなんだよ!」
女「っ、フン!あまり物のお裾分けよ。本命は別にいるの!」
男「そんなぁ。……誰だよー」
しまった。そこまで言い訳を考えていなかった。
これは一つしかない。彼の為に作ったもの。
なにか適当な嘘を……。
女「……お隣の病室のおじいさんよ!」
男「嘘だぁ!その口ぶり怪しいぞ!」
女「そんなことないわよっ。フンっ」
男は意外と口達者だった。それに負けじと私の方も立ち向かっていった。
ちいさいころ、男友達と遊んでいたあの勢いを思い出した。
新しい歩き方を知った。それにより、新しい道も芽生えたような気がした。
自分が風になる快感の質が変わり、
自分の努力の内容も変わった。
それにより、ゴールもまた違ってきた気がしてきた。
おわり?
病気
最終更新:2006年11月04日 02:24