春樹はなんでも出来る器用な人に思える。
「あっ! 愛ちゃん。本には大さじじゃなくて小さじって書いてあるわよ」
自分の手元を見ると塩が大さじで山盛りになっている。
このまま入れたら海水よりも塩辛くなってしまうところだった。
「ぼーっとしてた。ごめん」
「いいのよ。ゆっくりやりましょう」
「不器用っていうのは私みたいな人を言うんだよね」
次はレシピどおり小さじで塩をすくい慎重に平らにならす。
今まで単純なうっかりで何度も失敗してきたのかもしれない。
「そうかしら。愛ちゃんは案外器用だと思うんだけど」
「本当?」
「ええ。困ったときには誰かに助けを求めることができるもの」
「単に頼りないだけじゃないかな」
「違うわ。相手の懐に入るのがうまいのよ」
「よくわからないけど……」
「要は助けてあげたくなる魅力が愛ちゃんにあるってことなのよ」
「うーん」
お母さんの言いたいことがいまいち伝わってこない。
褒められている気はするんだけど。
「じゃあ春樹を思い出してみて」
「うん」
「なんでも器用にできるように見えるけど、この料理の本を見てもわかるでしょ」
この本には試行錯誤した努力のあとが見える。
古い付箋やメモ書きのせいで分厚さが倍になっていた。
「あの春樹も最初は出来なかったんだよね」
「そうよ。あの子は一人でなんでも解決しようとしてきたの。誰にも頼ることなくね」
(言われてみればそうかも)
「それって大変そうだよね」
「だから不器用なのよ」
「もっと肩の力を抜けばいいのに」
「春樹の肩の力を抜くとすれば、きっと愛ちゃんの前だけでしょうね」
お義母さんは玉ねぎをみじん切りにしながら呟く。
トントンと小気味よい音がする。
「えっ、私?」
「そうよ」
「私なんて春樹に頼ってばかりだよ。逆に負担を増やしてる気がするんだけど」
「本人は少しも負担だなんて思っていないわ」
「そうかな」
「好きでやっているのよ。愛ちゃんの事が気になってしょうがないのね」
(いつも呆れられているだけな気が……)
私の天然ボケにいちいち突っ込む春樹。
そんな日常のやり取りを思い浮かべる。
「アチチ」
「大丈夫? ほらこの布巾で包むといいわよ」
「ありがとう。これなら熱くないね」
私は茹で上がった熱々のジャガイモの皮を布巾に包んでむく。
そのジャガイモを全部ボールに入れてマッシャーで潰していった。
「春樹が世話焼きなのは愛ちゃんに対してだけでしょ?」
「そういえばそうだね」
他の人に対しては頼られれば応えるけど自分から前に出る事もない。
どっちかというと一線引いて接しているようにさえ見える。
学校での春樹が優等生で通っている雰囲気はそこにある気がする。
(家でもキッチリしてるけど、お義母さんより母親っぽいからな)
「学校と違って家だと口うるさくなるんだよね」
「それだけ愛ちゃんが特別って事なのよ」
(特別……)
今朝、そんな事を言われた気がする。
そして愛しいとも。
腕の中で私に語ってくれた言葉を思い出す。
(は、恥ずかしい……)
顔や耳が火照ったように熱くなる。
あてもなくどこまでも走り出したくなる。
「何か思い出したの?」
「あ、いや……う、うん、……少し」
「春樹の告白とか?」
「……そ、そうかも」
目が泳いでしまう。
お義母さんはそんな私を見て微笑むと包丁を置いて肩を寄せてきた。
「お義母さん?」
「ふふっ」
「どうしたの?」
「どうしても愛ちゃんにくっつきたくなったの」
二人だけで寄り添う事なんて今まで無かった。
出会った頃はお義母さんの方が背が高かったのに、今では私が少し身長で勝っている。
私を心配してくれたり料理を教えてくれたり。
一般的な他の家のお母さん達との違いなんてない。
血の繋がりは無くてもこの人は確かに私の母親だ。
「ねぇ、お母さん」
「どうしたの? 愛ちゃん」
「ううん、少し呼んでみただけ」
「じゃあ私も……愛ちゃん」
「なぁに?」
「私もあなたの名前を呼んでみたくなっただけよ」
お互い顔を見合わせて笑う。
「愛ちゃんが娘でよかったわ」
「うん。私もお母さんがいてくれて良かった」
「愛ちゃんには沢山辛い思いもさせてしまったわね」
「それは私も一緒だよ」
「そうね、それが家族ですものね」
「そうだよ」
春樹が言うように五年間で得たものは沢山ある。
これからもそれは無駄になることは無いだろう。
「改めて春樹の事、よろしくね」
「うん」
「人一倍怖がりだったあの子が自分からね……それだけ成長したって事なのかしら」
お母さんは過去に思いを馳せるように呟いた。
少し前の私ならその過去の正体も分からなかった。
でも今なら少しは理解できる。
そんな過去があるから今がある事も。
「このミンチ、もう炒め始めてもいいかな」
「そうね。春樹とお父さんが帰ってくる前に仕上げなくちゃね」
私はお母さんに教えてもらいながら、一つずつ丁寧に作業を進めていった。
時間はかかったけど、それなりに見栄えがするものが出来た気がする。
「か、完成した!」
「とっても上手に出来てるわ」
「お母さん、味見してみて」
お母さんは揚げたてのコロッケを口の中に入れた。
「どう?」
「はっはふい……」
しゃべられないほど熱かったみたいだ。
「どう? 美味しく出来てる?」
ようやく飲み込んだお母さんに感想を聞いてみる。
「うん。すごく美味しいわ」
「よかった」
「愛ちゃんも食べてみて」
お母さんが食べた半分を口の中に入れる。
「どう? バッチリじゃない?」
「はっ……はふい」
危うく口の中が大惨事になるところだった。
吐き出すわけにもいかず、思わず上を向く。
「まだ熱かったのね、大丈夫?」
「へ、へいひ」
私はほくほくのコロッケを飲み込む。
味はかなりの出来だ。
さすがレシピには載っていないお母さんが教えてくれた我が家の隠し味。
「すごく美味しい」
「よかったわね。お父さんも春樹もびっくりするわよ」
その時、玄関でガチャっと音がする。
そして「ただいま」と声がした。
「春樹の声だ」
「そうね」
足音がこちらに向かって近づいてくる。
「春樹、おかえり」
「おかえりなさい」
私達の声に気付いたのか春樹が台所を覗き込んだ。
「今日の夕食は姉さんの手作りか……」
私がエプロンを着けているのを見て、春樹が呟く。
その声がひどく沈んでいるのは気のせいだろうか。
「……あんまり嬉しくなさそう」
「そ、そんな事はないけどさ」
「本当に?」
「もちろん」
無理しているのか顔が引きつっている。
「か、母さんも帰ってたんだ。今日は早いね」
春樹は誤魔化すようにお母さんに話しかけている。
「仕事が早く終わったのよ。ね、愛ちゃん」
「だからさっきまでお母さんにコロッケを教えてもらってたんだ」
「そ、そうなのか。じゃあいつもよりはマシ……あ、いや、楽しみだな」
「今、マシって聞こえた気がする」
「そ、空耳だって」
「絶対にマシって言った。今回は力作なんだから」
「姉さんの場合、その意気込みがいつも空回りするからな」
(もう、味見もしないで警戒して)
私と春樹の会話をニコニコしながらお母さんは見ている。
「二人とも本当に仲良しね」
「べ、別に普通だろ」
「さすが想いが通じ合った相思相愛なだけのことはあるわねぇ」
お母さんは表情を崩すことなくニコニコして呟く。
とはいっても呟きにしては大げさなくらい声を張っている。
当然、春樹には聞こえているはず。
視線を移すと、案の定、春樹が目を見開いて驚いている。
そして硬直したまま、引きつった笑いを浮かべた。
「な、何言っているのさ母さん」
「だって……愛ちゃんが全部教えてくれたんだもの」
春樹は私を見る。
というより睨まれていた。
(春樹の目、据わってて怖い)
「わ、私、直接言ったわけじゃないよ」
否定しようと全力で首を振る。
「でも母さんは姉さんが教えたって」
「私が気づいたの。だって愛ちゃんの行動って分かり易いから」
「だけど」
「予感があったのよ。愛ちゃん、少し雰囲気が違うんだもの」
何も言わなくてもお母さんは私の変化を感じ取っていたんだろう。
「最近、二人の間で何かあったんでしょ」
「……………」
私と春樹は顔を見合わせる。
けれど二人とも何も言えず黙ってしまう。
「この間家を出て行ったことも関係してるのよね、春樹」
「……そうだね」
「だから私が気づいた事で愛ちゃんを責めたら駄目よ」
「けど姉さんが母さんのペースに乗せられたりしなければバレることもなかったじゃないか」
「どうせ私やお父さんに話さなくちゃならないことでしょ。少し前倒しになっただけじゃない」
「初めから責めるつもりはないよ。ただ今日の今日に知られるなんて、俺にも心の準備ってものが……」
(そっか。春樹もまだどうすればいいか分からないんだ)
今朝は私が酷く動揺してから、春樹も無理して受け止めてくれただけなのかもしれない。
どうしていいのか分からず手探りなのはお互い様なのだろう。
「春樹、平気だったよ。ちゃんと受け止めてくれたから」
「姉さん?」
「お母さんに知られた時、私、思わず謝ってたんだ」
「そうね。愛ちゃんは謝ったわ。ごめんねって」
お母さんはエプロンを畳みながら言う。
「だけどお母さんは悪いことをした訳じゃないから謝らなくていいって言ってくれたの」
「だって悪い事じゃないもの。むしろ喜んでいい事よ」
悪いことじゃない。
どこか負い目がある私の気持ちを救ってくれる言葉だった。
「母さんは、その……俺と姉さんの事を認めてくれるのかな」
春樹は少し緊張したように尋ねる。
「もちろんよ」
「よかった……」
肩の荷が一つ下りたのか、表情が緩む。
「ただ……お父さんはちょっと分からないわね」
「そ、そうだよな」
私もお父さんに言った時の事を想像する。
きっとひっくり返って驚くだろう。
「お父さん、反対はしないと思うの」
「どうしてそう思うのさ」
「愛ちゃんのことも春樹のことも大事な子供だもの」
それは私もお母さんと同意見だ。
お父さんは春樹の良いところも沢山知っているし、信頼もしている。
だから頭ごなしに反対はしないだろう。
「ただ大切だからこそ、覚悟は厳しく問いただしてくるでしょうね」
「「……覚悟」」
私と春樹は同時に呟く。
血は繋がらないとはいえ、私達は紛れもない姉弟なのだ。
「私はお父さんには時間を置いてから話してもいいと思うわよ」
「けど義父さんだけ知らないっていうのも」
「……私はお母さんの言うとおりでいい気がする」
「どうしてそう思うのさ」
「だってお父さんに突然話したら……びっくりしすぎて気絶するかも」
「確かに……」
「焦らなくていいわ。そのうち機が熟す時が来るもの」
春樹はそんなお母さんを見ながらため息を漏らす。
「……こんなに早くバレたのは驚いたけど、これが母さんで良かったのかもしれない」
「お母さんなら心強い味方になってくれるもんね」
「私にまかせなさい」
お母さんは胸を張って応える。
私はその様子が可笑しくて、思わず笑ってしまう。
「ちょっと張り切りすぎな気がしないでもないけど」
「お父さんには私からは絶対話さないわよ」
「当たり前だろ」
春樹は間髪いれずお母さんに言った。
「あと春樹。これは大切なことなのだけど」
重大なことを言うようにお母さんは真面目な顔に戻って言う。
「な、何だよ」
「愛ちゃんと二人きりの時くらいちゃんと名前で呼んであげなさいよ」
「……え、っと」
春樹は都合悪そうに口ごもる。
出会ったころはアンタとか君とか呼ばれていた。
それからずっと姉さんと言われ続けてきた。
過去を振り返っても名前で呼ばれたことは一度も無い。
「どう呼ぼうが俺の勝手じゃないか」
「あら、こんな女心の分からない子に育てた覚えは無いんだけど」
「うるさいな」
「愛ちゃんだって待っているわよ、ねぇ」
お母さんは私に同意を求めてくる。
(待っている……のかな)
今まで姉以外の何者でもなかったし、名前で呼ばれることが想像できない。
名前で呼ばれたら何か変化でもあるのだろうか。
(まだよく分からないや)
「姉さんで通じるし私は困ってないから今のままでいいよ」
「あら、いいの?」
「……ふぅん、姉さんはいいんだ」
「うん」
春樹と視線が合うと同時にフイとそっぽを向かれてしまう。
なぜか機嫌が悪くなっている気がする。
「もしかして春樹、怒ったの?」
「別に……」
「そう?」
「ああ、俺は普段どおりだよ」
言い方にトゲがある。
絶対に怒っている。
「絶対、へそ曲げてるよね」
「曲げてない。俺、制服のままだから着替えてくる」
春樹はそう言うと、台所から出てってしまった。
「あらら、行ってしまったわ」
「春樹、どうして怒っちゃったのかな」
「別に怒っていないんじゃないかしら」
「そうかな……」
(怒っていたように見えるけど)
「気持ちに温度差があることに気づいたのかも」
「温度差?」
「その内理解できるようになるわ。もし心配なら明日の文化祭、誘ってみたら」
(そうだった。明日は文化祭だ)
「誘うって、一緒に回るって事だよね」
「そうね」
「私、午前は放送委員があるし、午後はクラスの出し物に出なくちゃならないんだよ」
「空いた時間だけでもいいんじゃない?」
(誘ってみようかな)
「春樹、機嫌直してくれるかな」
「間違いなく機嫌は良くなると思うわよ」
「じゃあ回れるか聞いてみようかな」
「それがいいわ。もうそろそろ着替えも終わっているんじゃない?」
「ちょっと行ってくるね」
私は二階に上がって春樹の部屋の前に立つ。
「春樹、もう着替えた? 少し話があるんだけど」
私は閉じられたドアに向かって話しかける。
「姉さんか、ちょっと待って」
私服に着替え終わった春樹がドアを開けた。
「何だった?」
「あのね、明日の文化祭一緒に回らない?」
「委員会の方もあるから忙しいんだろ」
「午前は放送委員で午後はクラスの出し物だから夕方近くになっちゃうけど……いい?」
「うん。俺は……構わないよ」
「よかった。断られるかと思った」
私はホッと胸をなでおろす。
「どうして俺が断ると思ったのさ」
「だってさっき怒ってるみたいだったから」
「怒ってないよ」
「でも機嫌悪くなってたみたいだし」
「別に怒ってもいないし機嫌も悪くなってないよ」
「そうかな」
朝の一件以降、春樹の態度が心なしかイラついているように感じる。
まさかチハルの邪魔をいまだに根に持っているのだろうか。
「姉さんは余裕だなと思ってるだけだよ」
「余裕って?」
「朝の事があっても、いつもと変わらずマイペースだからさ」
朝、パニックになった分、いまは比較的冷静かもしれない。
「今朝も言ったけど俺、余裕無いからさ」
「確かに言っていたけど……」
「本当は文化祭も俺から誘うつもりだったのに、結局、誘われてる有様だしね」
「別にどっちでもいいじゃない。一緒に行動できるなら」
「そういう問題じゃないんだよ」
(一体、どんな問題なんだろう。もしかして私、何か言ったかな)
「私、春樹に傷つくことを言った訳じゃないよね」
「言ってないよ」
「そっか。よかった」
「これは俺自身の問題だから姉さんは気にしなくていいからね」
「もし私でよければ相談に乗るよ」
「その時は頼むよ」
「任せて。私、一応お姉さんだしね」
「………お姉さん、か」
春樹はため息混じりにつぶやくとまた目をそらし黙ってしまった。
(??)
その時、ガチャっと玄関が開く音がした。
「お父さんかな」
「義父さんだね」
「出張お疲れ様」「母さん、これ土産だ」と両親の会話が聞こえる。
「一週間ぶりに帰ってきたんだ」
「姉さん、出迎えてあげれば? 義父さんきっと喜ぶだろうし」
「春樹は?」
「俺はいい。早く言ってあげなよ」
「うん。もう少しでご飯だろうから早く降りてきてね」
「わかった。すぐ行くよ」
しばらくして春樹も降りてきて夕食が始まった。
久しぶりの一家団欒の食事は楽しくて少しも会話が途切れることはなかった。
私が作ったコロッケも大好評だった。
こんなに喜ばれたのは今まで無かったからすごく嬉しい。
食事も終わり、お風呂に入って部屋に戻る。
「待たせてごめんね。チハル、もう戻っていいよ」
ポケット仕舞っていた小さなくまのぬいぐるみに話しかける。
チハルはぬいぐるみから子供の姿に変わる。
「愛菜ちゃん。もう寝るの?」
私がパジャマを着ているのを見て尋ねてきた。
「そうだよ。一緒に寝ようと思って」
「うん! いっょにねる」
「今日はお掃除手伝ってくれてありがとう」
「いいよ。またおてつだいするからね」
「チハルはいい子だね」
「やった! また愛菜ちゃんにほめられた」
「じゃあ電気消すね」私達は一緒に布団に入る。
チハルの頭をしばらくなでていると規則正しい寝息に変った。
私も目を閉じて深い眠りについた。
最終更新:2014年07月30日 16:49