カイエ@愛鳴藩国様からのご依頼品
/*夢天遊泳*/
/*0*/
「カイエ、海鳥におなり」
空は高く、海は遠い。風に掬われる浮遊感に、薄い水の中を泳いでいるような気分になる。
鳥となって空を飛ぶとき、なぜだか、それは飛んでいるという気分ではない。ゆったりとした風を掻く、それは泳ぐによく似ている。この不思議な感覚が酷く懐かしく、酷く心を和ませる。
こんな事を思うのは初めてかもしれないと、バルクは考えた。
隣を飛ぶウミネコ姿のミーアを見る。海を泳ぐ鯨を見て、名前の通りの声で鳴く。その姿が微笑ましく、人の姿だったなら、きっと、自分は微笑んでいるだろうとバルクは思った。
微笑む、か。
一体何が嬉しくて微笑んでいるのだろう。つい、いつもの癖で、考え込んでしまう。
だが、考え込んで思い浮かぶのは、いつものような無数の歴史でも、ましてや数多の法則でもない。
それは、あえて言うならば『懐かしい』とでも表現するような――そう、思い出という物だった。
それは遠い昔のことではない。つい最近の、何気ない一言だ。
それは、たしか――。
(ああ……)
気持ちよく空を泳ぐ。風を掻いて、眼下の鯨を見た。
思い浮かぶ景色。昔の映像。紙細工のように柔らかい印象が脳裏によみがえる。
では、天を泳ぐその夢にて、一時の幻視へ到るとしよう。
/*1*/
一つの戦いが終わった。宴のようなその時は、熱く、胸に満ちているが、それが熱ければ熱いほどに一瞬だ。この戦いもまた、振り返ってみれば一瞬のようだった。
その一瞬のはずだった記憶が、少しだけ他よりも根強くなったのは、とある娘を預かったからだった。
「というわけで、だ。時々見に来るから、よろしく頼んだ」
「いや、だったらあなたがちゃんと面倒を見なさい」
「ほう、いいのか?」
「……わかりました。私が面倒を見ます」
バロが手をつないで連れてきたのは、薄汚れた格好をした少女だった。じっと顔をうつむけ、誰の顔も見ようとせず、怯えるように肩を震わせている。一目瞭然の、戦災孤児だった。
「じゃあ、よろしく。いいか、時々見に来るからな?」
「念を押すくらいなら、今度からもっとちゃんと私の説教を聞いてください。いいですか? そもそもあなたの方が子供達に好かれているし、可愛がっているではありませんか。適材適所という言葉があるんですけどね、つまり――」
「頼んだぞー」
「逃げますか」
「転戦だ」
バロはからからと笑って家から出て行った。まったく、と思いつつも、もうバルクの意識のほとんどは彼には向けられていない。彼の全ての意識は、震える以外にはできることなど無いとでもいうように突っ立っている少女に向けられていた。
バルクは少女にそっと手を伸ばす。そしてぶらんと垂れ下がった手をそっと取り、それから膝をおろして視線を合わせた。うつむいていた少女をが、びっくりしたように目を見開く。少し、顔を赤くした。
「初めまして。私はバルクと言います。あなたの名前は?」
「……あ、え」
「落ち着いて。ゆっくりでいいですよ」
目を見開いたまま静かに慌てる少女に、バルクは優しく言う。それから彼女が自分の名前を口にするまで辛抱強く待って、ようやく、最後に、掠れるような声で、エノーテラという名前を聞き取った。
「エノーテラ。これからあなたの面倒を見る。バルクです。よろしく」
「よ、よろしく……」
よくできました、と言って、バルクは少女の頭を撫でた。
/*2*/
それがどうしてこんな風に育ってしまったのか。何か間違えたかなーと思いながら、今日もまた魔法を教えて! 剣を教えて! と猛獣も裸足で逃げ出しかねない壮絶な剣幕で詰め寄ってくるエノーテラを、軽く無視したり、あるいは宥めたりしながら受け流していた。
それに実は、今日は別のことでちょっと頭がお留守である。
明日は約束がある。海に行く約束だ。何か持っていこうかとも思ったが、きっと、ミーアのことだ。こちらがあれこれ考えるよりも、彼女の方が気を回してあれこれしているに違いない。
「……また、その名前ですか」
事情を説明して戻ってもらおうと思ったら、エノーテラはすさまじく不機嫌そうにそう言った。それから、そんな態度を振る舞ってしまう自分こそが不愉快だとでも言うように自嘲気味に笑った。
彼女の頭を、軽く叩く。
「そんな笑い方をしてはいけません」
「……だ、誰のせいだと」
「誰のせいなのですか?」
その質問は卑怯だ、とエノーテラは思った。涙が浮かんでくる。あ、まずい。
エノーテラは勢いよく逃げ出した。サイコロの家の窓を蹴り破って走り去る。
「相変わらずですね。まったく」
いつものことだとでも言うようにバルクは手を振った。砕けた窓ガラスが浮かび上がり、元々そうであった形へと戻っていく。ヒビ一つ無く、窓は綺麗な面を取り戻した。
その直後、窓が砕かれた。内側に飛び散るガラス片。
「ドアぐらいつけておかんか」
「そういうなら気配隠してやってこないでください。普通にやってくればちゃんとドアを『出します』よ」
窓から入ってきたバロに、バルクは思い切りしかめた面で応じた。出たな、今一番会いたくないやつ。
「またやったのか?」バロはひょいと窓枠を飛び越えて入ってくる。
「ええ。また、何故か、逃げていきました。よくわからない物です」言いながらもう一度窓ガラスを復元するバルク。
エノーテラと何かしでかす度に、バロはこちらにとって最も最悪のタイミングでやってくる。そしていつもはこちらが一方的に叱る立場(もっとも、それが功を為したことはない)なのに、このときばかりは立場が逆転する。こういう分野においては、面倒は見ないくせにやたらかわいがるバロの方が強かった。
バロは勝手に椅子に座ると、ぶはーとため息をついた。呆れたような目でバルクを見ている。
「しかし、おまえは相変わらずだな」
「何を持ってそういっているのかはわかりませんが、これでも少しは変わっているかと」
「ああ。まあ、ミーア嬢とはうまくいっているらしいな」
「それは違う」
「ほう?」
「彼女がうまくやっているのです。私は、何も」
いつだって、到らないのは自分の方だ。剣も、魔術も。前も、その、ちょっと手違いで、海辺で……ああいや。
「何を赤くなっとる」
「いいえなんでも」
とにかく。到らないのは自分だ。心底からパルクはそう思った。
明日もきっと、そう思うところがあるだろう。
しかしそれは、さほど悪いことではない。
到らないと気付くことは、到るために必要な過程だ。その道を経て、自分はもっと強くなれる。そうなれると、信じている。
「少しはマシになったかと思ったが……おまえ、このままではそっちの方もエノーテラと同じになるぞ?」
「なんてことを言うんですか、バロ」
恐ろしい予想に、バルクは体温が軽く十度ほど下がった気がした。ミーアまでエノーテラのようになったら。バルク様、魔法を教えてください。バルク様、剣を教えてください。あわわわ。
「莫迦かおまえ」バロの呆れは底をついたらしい。口調から感情が消える。
「なんですと?」バルクはむっとした。
「相変わらず疎いな」
「何のことかはわかりませんが、あなたに言われたくありません」
おそらく、遠いどこかでも誰かが頷いたことだろう。味方はいる。確実に。そんな絶対の自信を持ちながらバルクは反論する。
――思い当たる節があるのか、バロはちょっと黙った。
「いや、こっちのことはいい。それよりもおまえだ。どうするんだ?」
「エノーテラのことですか?」
「阿呆。明日の方だ」
「海にいくそうです」
「ほう。確か鯨が近くにいると聞く。捕鯨でもするのか? 豪快だな」
「そうですね。そういうこともありますか。――そういう趣味があるとは思っていませんでした」
二人とも、大間違いであるが、まったく気付いていない。
「まあ、何にしろ、少しは楽しんでみろ」
「楽しむ、ですか……」
楽しむ。楽しむ?
何か、あるだろうか……。楽しめる事なんて。
そう考えて、ふと、空の景色を思い出した。
「ああ。それじゃあ、こっちはエノーテラを可愛がりに行く」
しかしそんなバロの言葉に、思考は中断させられた。まあいいと思いながら、改めてバロに向き直る。そして言った。
「やはり、エノーテラはあなたの方になついていると思うのです」
家の壁が大きく音を立てた。誰かが殴ったような音に、バルクはやや表情をこわばらせる。バロはもう何も言わず、不運な窓ガラスに三度目の断末魔をあげさせて外に出て行った。
/*3*/
そんな複雑さなど一切ない、心地よさ。空を泳ぐ事で、様々なことが忘れ、あるいは洗い流される。
それが微笑みの正体だろう――そう結論しようとして、ふと、思考を止めた。
海に、子連れの鯨の姿がある。重たそうに見えて、海を泳ぐその速度は速い。
ちょっと思いついて、バルクは高度を落としていった。しかし速度は速めて。さあ、うまくいくだろうか……?
ややあって、海がふくらむようにして鯨が海面に現れた。潮を吹く。そのタイミングに合わせて姿勢をあわせ、その背に止まった。フジツボのごつごつとした殻を、鳥の足で掻く。
少しすると、ウミネコになったミーアも隣に止まった。ちょっと驚いている様子。
なんとなく、体をすり寄せてみた。ウミネコは嬉しそうに鳴いて、同じく体をすり寄せてくる。
ちょっと、笑えてくる。
そして突然、鯨は沈み始めた。慌てて二人は飛んでいく。が、ミーアが少し遅れた。鯨の尻尾が海面を叩く。その拍子に、逆しまの滝のように派手に飛沫が上がった。ずぶ濡れになるミーア。
ああ、やってしまった。やや後悔するバルク。二人はそのまま飛んで、砂浜に戻った。まずバルクが人型に戻り、続いてミーアにかけた魔法を解く。と、まだ空を飛んでいたミーアが小さく悲鳴を上げて落ちてきた。
「す、すみません」
慌てて抱える。腕の中で、ミーアは驚いたような顔をしていた。
「いえ! こちらこそ!」
彼女を砂浜におろす。ずぶ濡れになっているのを見て、バルクはすぐに自分の外套を羽織らせた。
「ありがとうございます、バルク様」
「いえ。風邪をひくといけません。今日はこれまでに」
転送魔法を唱えてミーアを帰す。去り際、ちょっと待ってと言ったような気がしたが、気のせいだと思うことにした。
/*4*/
思い出してみれば、恥ずかしい物だ。何か、こう、少し浮かれていたのかもしれない。
その日。サイコロの家に戻ったバルクは、こちらと一切視線を合わせないくせにずっと部屋に居座り続けるエノーテラの背を眺めつつ、ぼんやりとそんなことを考えていた。
ふーんだという感じで、こちらを無視してるつもりのエノーテラ。でも明らかに意識しているらしく、ぴりぴりとした気配が感じられる。
今日は機嫌が悪いらしい。席を外すことにした。
「あ、ど、どこに行くんです!」慌てて振り返るエノーテラ。沈黙の意志は脆くも崩れ去った。
「いえ。機嫌が悪そうなので、席を外そうと」
「そ、そんなこと――」
言い終わる前に、バルク微笑んだ。何、少し待てば機嫌を直してくれるでしょう。本当に? 靄のような疑念が胸の内で渦巻く。
まあいい。
それを追い払うように、バルコニィに出て、黒い鳥になって空を飛んだ。
空を泳ぐ。その感触はここでも変わらない。どこでも変わらない。風を掻く、薄い水の中を泳ぐような感覚は、柔らかく体を包み込む。
ただ、今は違和感があった。
なんだろう。いつもの癖で、考えてしまう。
ここが地上だから? 海の上ではないから? 潮の香りの違いだろうか。何が違うから――今はあのときほど、気持ちが穏やかではないのだろう。何故未だに、妙な靄が心の中に霞むのだろう。
いや、それ以前に。
自分は、いつから、こんなに空を飛ぶことに意識を置くようになったのだろう。
こんなのは昔身につけた魔法の一つだ。あまり役にはたたないけれど、気付けば覚えていた。バロを不意打ちで飛ばしてやったときは、少しだけ気分がすっとしたのを覚えている。
でも、そのくらいだ。
空を飛ぶ思い出なんて、このくらいだったはず。
いつからだろう。自分が空を飛ぶことを意識し始めたのは――
「そうですね。少しですが飛んだ空は気持ちがよかったです」
そう、それはその一言から。
少し前のこと。ウミネコになった女性の言葉。
「まあ、何にしろ、少しは楽しんでみろ」
そう言われて思い浮かべたのは何だった?
何故空を泳ぐのが気持ちよかったのか。何故、そう感じたのか。そう感じ始めたのはいつからだったか。
何もかもが明確だ。
きっとそれは、些細な事が切っ掛けだった。
「もしかしたら」
わからない、のではない。知らないのだ。それを、徐々に知り始めている。そんな気がする。
それが何かは、まだ知らない。ただ、予感がある。
そして、もう一つ。
少なくとも――
「今日。海の上の空で泳いだのは」
気持ちよかったのだと。
それは確かなことだった。
そして、幻を視ていた目は覚める。
それはある鳥の夢。
空で泳ぐことを知る者の思い出。
無自覚のうちに紡がれた、何かを知るために産まれた夢。
語り手はすでにここにない。
夢の紡ぎ手が目を覚ますのなら、語る者も消えるが定め。
これより先は現の領分。
続きは夢ではなく、現で見る事になるでしょう。
それではまた、いつかどこか。幻視ではなく、ただのありふれた景色の中にて。
作品への一言コメント
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- クジラを見て来ただけのログから、素敵な物語を生み出してくださってありがとうございます! 宝物がまた増えました。 ありがとうございました!! -- カイエ@愛鳴 (2007-11-24 00:50:05)
- 感想ありがとうございますー。 -- 黒霧@玄霧藩国 (2007-11-24 16:04:30)
引渡し日:
最終更新:2007年11月24日 16:04