日向美弥@紅葉国様からのご依頼品


 待ち合わせの時間より早く着いて周辺の安全確認をしてしまうのは、一種の職業病だ。だがそれをいつもよりも念入りにやってしまうのは、やはり相手が彼女の時に限られている気がする。
 キノウツンの街は物々しい空気に包まれていて、人々の表情も険しいものが多い。その様子は若干の息苦しさを感じさせるが、それでも今この時、自国の領土が踏み荒らされていないという事実の重さの方がずっと価値あるものだと、彼らは心得ているのだ。幾度となく戦火に焼かれ、暴虐に踏みにじられてきた歴史を持つ者たちの、思いの結実がここにある光景なのだ。もう二度と……血を吐くようなその思いが、この国を今の形たらしめている。
 自分と同じだな……油断なく辺りに目を向けつつ、玄ノ丈はそんなことを思って苦く口元を緩める。取り戻すことの叶わない喪失の絶望は、味わった人間にしかけっして分かり得ない。
 愛する人を奪い取られるのは、人生に一度で十分すぎる。ましてや、それが自分の油断によって生じるとしたら……そんな事は、絶対にあってはならない。絶対に。


 彼女の出現は、いつも唐突だ。『第七世界人』と言われている、この世界を動かすファクターたちは、この世界に不意に現れては消えていく。玄ノ丈の能力をもってしても、追い切れたためしがない。
 先触れもなしに出現した彼女は、目が覚めた直後のように一・二度瞬きしてから辺りを見回した。誰かを捜すような視線の動き。それが自分を捉え、口元が微笑みに変わる様子を、玄ノ丈は黙って見守った。彼女の姿を目にするだけで、いつでも胸が温まる心地がする。様々な問題が山積みになっている今のようなときには余計に、それが嬉しい。
 彼女の歩く様は、どうしてかいつも緩やかに宙を跳ねているように見える。実際にはごく普通に歩いているだけなのに、なぜかそんな風に見えてしまうのだ。それが微笑ましいと感じるからいっそうそう見えてしまうのか、そこはまぁ解明されずとも良い謎だろう。
「玄ノ丈さん、こんにちは」
 目の前に立って自分を見上げる緑の瞳に、玄ノ丈はほんの僅かに微笑みを返した。
「なかなかきな臭くなってきたな」
 挨拶にあまり相応しくない言葉であるとは自覚していたが、風雲急を告げるNWではそれも仕方ない。判りやすく顔を曇らせて、美弥は物思わしげに長い髪をかき上げた。
「はい…みたいですね。こちらからだとうまく様子がわからなかったのですが、今どんな感じでしょうか?」
 ここに来るまでの間に調べのついた問題が、あれやこれやと頭を巡る。脳内でラベリングされた優先順位をなぞって、玄ノ丈は口を開いた。
「帝國との行き来がなくなった。国境では兵員が送られているとも聞く」
 それがまるで自分になされた糾弾だとでもいうように、彼女は俯いて唇を噛んだ。
「……はい」
「FEGも情勢は良くない」
「ですか。対策は考えてるみたいだけど…ありがとう、みんなに伝えておきますね」
 こちらの言葉をなんとか飲み込んだのだろう。ようやく顔を上げて、美弥はぎこちなくだが笑顔を見せる。
「まあ、どうにかできればいいんだが」
 今までずっと見てきたから、彼女だけではない、この世界を崩壊から守ろうとする人たちの意気込みや努力はよく判っているつもりだ。だがそれでも、玄ノ丈の目から見て、彼らはまだまだ脇が甘い部分がある。何度つけ込まれても直らない部分もある。それは短所ばかりとは言い切れないのだが、しかし。
「これまでもやってきたんだから、努力します」
 やや青ざめたままの顔で、それでも美弥は微笑む。そこに緊張と不安はあっても、絶望や諦念はない。
 これが、彼らの最大の弱点であり、最強の強みだろう。彼らは諦めることを知らず、絶望にも囚われない。きっとなんとかなる、なんかしてみせる、根拠もないその思いをまったく疑うことなくごく自然に誰もが持っている。
 したたかさの欠片もなく、目をおおわんばかりの甘さから抜け出すこともない人物も多い。軍隊のような意思統一があるわけでもなく、それぞれの国を動かす重鎮たちはまだしも、個々の思惑は時に闇雲にぶつかり合うことすら辞さないほどなのに。
 それでも、彼らは『なんとかなる』ことを疑いもしないのだ。その為の努力を各々が払っているのも承知はしているが、そうだとしたところで底なしの楽天主義者たち、としかやはり表現しようがない。
 ただ、こうも思うのだ。世界を大きく動かすことが出来るのはきっと、根拠のない自信家、底なしの楽天家、そう言われる人々だろう、と。
「まったくだ」
 思わず零れた苦笑を隠すように口元に手を当てる。幸い、美弥はそれには気がつかなかったようだった。というか。
 どうして急に頬を赤らめて、あらぬ方向に視線を飛ばしたりしているのだろう。
 不審な(不穏な、ではなくて幸いだが)様子に無意識に観察するような視線を送ってしまった玄ノ丈へと、美弥は軽く咳払いをしてから視線を戻した。
「それで、ですね。しばらく来れなかったので遅れてしまったけど、誕生日のプレゼントもってきました」
 予想外の言葉に、玄ノ丈は目を見開く。神妙な表情の美弥は、ここにきてからずっと後ろ手にしていた手をようやっと前へと回した。両手で捧げ持たれているのはおそらく手作りのシャツと、その上には真っ赤な薔薇の花が一輪。
 発作のようにこみ上げてきた笑いは、堪えようとする間もなく唇から飛び出していってしまう。きょとんとした美弥の表情が、それに拍車をかけた。
「え、えーと?」
 困ったような色合いの声にようやく笑いを納めて、玄ノ丈はそれでもまだ完全に殺しきれない口元を手で覆う。
「ははは。いや。ありがとう」
 自分は、彼らとは違う。底なしの楽天主義には到底なり得ない。この世界を取り巻くありとあらゆる不穏な情勢、見え隠れする敵の影に、ぴりぴりと神経を研ぎ澄ませずにはいられない。もう二度とと誓った身に、ミスは許されないのだから。
 けれど今、思いも掛けない贈り物とそこに籠められた真心に、刃のように尖った心がほんの僅か和らぐのを感じていた。和らいでみれば、気がつく事実もある。研ぎ澄まされた神経という箍に、自分の心がガチガチに固められていたこと。
「にゃー、笑われるのは想定しなかったです」
 しょんぼりと肩を落とした美弥に一歩歩み寄り、さらさらの金色の髪に触れる。
「状況が悪いからな。悪かった」
 簡潔な指摘と謝罪に、美弥はぱちりと見開いた目で玄ノ丈を見上げる。
「はう、ですね。私にとっては、やっと裁定がひとだんらくしたタイミングだったので」
 頬が健康的な紅に染まり、美弥は気恥ずかしげな笑みを浮かべる。やはり、彼女にはこういう表情が似合う。出来ればずっと、そうして微笑んでいて欲しい。その為に出来ることならば、なんでもするから。
「それで…やっと会えるって喜んできちゃいました」
 恥ずかしげに囁かれた告白に、自然とこちらの口元もほぐれていく。
「・・・まあ、そうだな」
 世界の荒廃に、無慈悲な蹂躙に、胸を痛め奔走する側面も持ち合わせているが、ただ一人の恋する女性であるのもまた彼女だ。まっすぐに向けられたその思いには、どうしたって微笑まずにはいられない。
 彼女の手からプレゼントを受け取って、玄ノ丈は和らぐ心持ちに相応しい笑みを口元に浮かべた。
「ありがとう。こういう時期だと、嬉しい」
「はい、そう言ってもらえるとうれしいです」
 そういって、美弥は自ら残りの距離を詰め、玄ノ丈にもたれかかった。そっと背中に回された腕に、包み込まれる気持ちになる。
「誕生日、おめでとう」
「すまん」
 目を閉じて感謝の言葉を口にする。彼女に会えて良かった。時に苦しめてきた相手でもあるからこそなおさら、もっと大事にしようと思えるのかもしれない。
「…どうしました?」
 回した腕をほどかないまま上体を反らすようにして顔を覗き込んできた美弥に、首を傾げる。
「ん?」
「ええと、すまんって」
 また不安にさせたのだろうか。どこかこちらを伺うような表情に、意識して口元を緩めてみせる。
「ああ。いや。なんでもない。ただ、ありがとうの意味だ」
「あ、了解です」
 頷いた美弥はまた表情を和らげて、玄ノ丈の胸に頭をすり寄せる。猫のような仕草に、玄ノ丈はつややかな髪を梳くように撫でた。この出会いを、そして生まれた絆を、大いなるなにものかに感謝したい気持ちになりながら。


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 一度住処に戻ってシャワーを浴び、彼女のくれたシャツに腕を通す。かっちりとした白いシャツは見た目よりも軽くやわらかな素材で、鍛えられた身体を包み込んでくれる。
 彼の鋭い嗅覚は、その生地から彼女の手の微かな痕跡をかぎ当てることが出来た。生地を選び、裁断し、丁寧に仕上げていく過程で染みついていったのだろう。その様子まで容易に想像が出来て、感じるたおやかな香りに玄ノ丈は無意識のうちにうっすらとした微笑を口元に掃いていた。
「……に、してもだ」
 しっくりと馴染む肌触りはともかくとして、肩幅といい袖丈といいぴったりと自分の身体に合っている。サイズを測らせた覚えはないのだが、彼女はいったいどこで情報を仕入れたのだろう。あるいはそれとも、自分の知らないうちに?
 浮かんだ想像にくくっと楽しげな忍び笑いを漏らしつつ、ネクタイを締める。この香りの効能だろうか、妙に頭がすっきりとして、気持ちが高揚しているのを感じる。
 かつての相棒のような、あるいはこの瞬間にも様々な場所で奔走する人々のような、底なしの楽天主義者には到底なれない自分だ。
 だが今この瞬間、普段のようなきりきりと研ぎ澄まされたような意識からではなく、解き放たれたような晴れやかな意識で、なにをおいても成し遂げようと思っている自分がいる。彼女のために、彼女の望む未来のために。なすべきことは全て。
「さしあたっては……カマキリたちだな」
 自分の依頼は、彼女が必ずやり遂げるだろう。だから自分も、同じように成し遂げなければならない。ほんの僅かな、それ故に宝石よりも貴重な『平和』をもたらすチャンスなのだから。その先にある彼女との約束のためにも。
 室内に備え付けられた姿見には、いつもと変わらぬ自分の姿が映っている。気負いもなく、口元には不敵な笑みを浮かべて。
 敵が強大でなかったためしはない。目的が困難でなかったためしもない。だがそれこそが、望むところというものだ。
 サングラスをかけ、帽子を被る。それからふと、玄ノ丈はテーブルの上に置かれた一輪挿しに活けられた薔薇へと手を伸ばした。つややかな花弁に、撫でるように触れる。
「……いってくる」
 呟く言葉はまろやかに優しい。等質の眼差しをサングラスを押し上げることで隠し、玄ノ丈は目深に帽子を被り直すと振り返ることなく部屋を出て行った。


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引渡し日:2010/10/24

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最終更新:2010年10月24日 18:48