La prose du monde
朝田塾 2006/10/8敷田八千代
M.フーコー『言葉と物』~第二章「世界という散文」~
◎前章のまとめ
- ベラスケスの絵画「侍女たち」を抽象的に見ることで、古典主義時代のエピステーメ ーの大枠を提示した。
- 古典主義時代のエピステーメーでは、分類=存在であり、知はタブロー表の学であった。
- そのタブロー表の空間においては、主体(=神または人間)が省かれていた。
<一.四種の相似>
◎古典主義時代
- 「類似」が知を構築
- ランガージュ言語 の資格=「世界の鏡であること」=世界のあらゆる事象の模写=「表象」
ではこの時代、相似はいかに思考され、知を組織していたのだろうか?
①適合≪コンヴェニエンティア≫…隣接関係
自然がこの2つのものを置いた場所の類似 → 類似(接触)による関係の強化・同化
「類似が隣接を強い、隣接が逆に類似をたしかなものとする。場所と相似がからみあう(p.43上l.19)」
「世界は万物の普遍的結合」となり、「巨大な鎖」をなして広がることとなる
②競合≪アエムラティオ≫…双子性
- 適合の一種だが、場所を越えてはたらくもの、もののもって生まれた双子性
ex.人間の知性&神の叡智、口&ヴェヌス、草の輝き&天空の純粋な形相
(※一方の弱められた形がもう一方の再現・表象となる場合もある)
- 競合の環は類似者が類似者をつつみこむ「同心円状」となっている(p.46 上 l.5~)
◎「人間はその内部において世界の秩序と類似している(p.46下 l.5)」
→人間はすべてのものと感応し、同心円状に広がる競合の環を宿している
③類比≪アナロジー≫…関係同士の類似・無数の近縁関係
ex.星と空の関係=草と大地=生物と地球=鉱物やダイヤモンドと岩石etc...との関係
この可逆性と多価性によって、類比は普遍的な適用の場を与えられる
◎特権的な一点(中心点)としての人間
- 人間はいかなるものとも類比の関係を結ぶことができる。
「人間こそ、相応関係の偉大な焦点であり、さまざまな関係が支点を求めてそこに集まってはふたたびそこから反射されていく、そのような中心にほかならない(p.47 上l.8)」
ex.・人間と鳥の骨格についての比較(p.47 上)
…人間の身体の諸気管と鳥の身体の書記官が対応するものとして比較されている。
…嵐のはじまり/大気が重くなるとき=卒中のはじまり/思念が重くなるときetc...
④共感…同一化・可動性の原理
- 距離や連鎖をあらかじめ指定しない、強い力(ex.「葬礼に用いられる喪の薔薇」→死)
- 世界のさまざまな物の運動を誘発し、もっとも離れたものを近づける。
(ex.根と水を近づけ、ヒマワリを太陽とともにめぐらせる)
- 「共感」は強い同化の力を持つため、物同士の個別性を消滅させてしまう!?
「反感」による補正「共感と反感とのたえざる均衡運動(p.49 下l.9)」
※反感とは
…動植物における有害(天敵)・競争関係
四つの物質(水、空気、火、大地)の性質の一致・不一致
<二.外徴>
問:先の四つの相似はどのようにしてそれと認められるのか?
不可視な形式をあかるみに出す「外徴」=「可視的形象」による
―――「類似は外徴なしには存在しない(p.51下l.2)」
☆類似の空間には無数の言葉がひしめきあっており、あとはそれを解釈するだけでよい
ex.トリカブトと眼との共感にある外徴=記号は?
→トリカブトの種子にある黒っぽい小さな球(眼における眼球の位置をしめている)
「相似の知は、これら外徴の摘出と解読にもとづく(p.51下l.10)」
「共感を示す暗号は相応関係のうちにひそむ(p.51下l.14)」
しかし、この相応自体に人はどのようにして気づくことができるのか?
→①「共感が人体と天とを通じさせ(p.53上l.5)」、伝達させるからである
なぜ共感が起こるのかといえば、
→②類比があるからである。
ex.掌の筋の短さ→短命のイメージ、2本の襞の交わり→障害との遭遇etc...
→③類比は競合によってしるしづけられる
ex.眼が星であるのは、星が暗闇に光を広げるように眼が顔に光を広げるからである。
→④また、競合は適合によって認知される
ex.強くて勇気のある動物の手足はたくましく、人間の顔や手はその人の霊魂と類似して、(性質と機能が?)適合する
→⑤適合は共感によってたがいに連鎖する
<図>
類似は外徴(記号)を必要とし、記号はこの類似によって記号となることができる(p.54上)
(こうして円環は閉じられる)
◎二のまとめ
- 古典主義時代の知において類似がもっとも普遍的なのは、左の図における2つの類似 関係が微妙にずれており、解釈の必要があるからである。
- 「それはもっとも目につきやすいものであると同時に、もっとも隠されているがゆえに発見すべくつとめなければならないものであり、認識の形態を決定するものである(p.54上段左~下段)」
<三.世界の限界>
◎16世紀のエピステーメーの限界
①この知が「過剰であると同時に絶対的に貧困」であること。
- 類似は別の相似と関連づけられてはじめて固定されるという性質をもつ相似は新たな相似を必要とし、ある類比関係が正当なものと認められるには「世界全体が踏破されなければならない(p.55 下l.9)。」
◎ミクロコスム小宇宙とマクロコスム大宇宙
・・・類似の無限の豊かさと、類似の単調さを調停するために用いられた概念「小宇宙」という概念により、「つぎつぎと中継されていく相似関係の疲れを知らぬ歩み(p.56上l.18)」に対して「限界」を設定する。「大宇宙」の概念によって、「知にたいする保証(p.57上l.10)」を得る。
②この知は「魔術と博識を、~同一の次元で迎えいれなければならなかった(p.57上l.12)」こと。
◎古典主義時代の知:認識=解釈
・・・「相関関係の形式」にあてはまるものは、魔術も博識も区別不可能だった
「占トは認識と競い合う形式ではなく、認識そのものと一体をなしている(p.58上l.1)」
魔術も博識も、どちらも世界(「相似という絆でつながれているシーニュ記号の宝庫(p.59 下l.1)」)の「解釈」であった
◎三のまとめ
- 古典主義時代の知の限界は、相似が新たな相似を必要とするゆえの絶対的な過剰性と 貧困さ、合理的な知(博識)と魔術の混淆性である。
<四.物で書かれたもの>
◎16世紀におけるラング言語の機能
「『百科事典』であると同時に『図書館』であるということ(p.63下l.1)」
- 「ランガージュ言語は世界のなかにおかれ、世界の一部をなしている(p.60上l.12)」
ランガージュ言語は解釈するツールであると同時に、解釈される客体でもあった
(言語は網目状に構成されている世界の一部分をなしており、「それ自体一個の自然物として」研究される必要があったということ)
※17・18世紀との対比
17・18世紀:言語の「表象内容」が重視される
16世紀:言語の「認識論的配置」や「特質」(p.60下l.19~)が重視される
◎言語(文法)が研究対象となる場合と、その他の物が研究対象になる場合との違い
文法は自己の特性を自己によってあらわしているということ。
「それは、みずからの言わんとするところを示す解読可能な標識を、自己のうちに ~いだいている秘密である(p.61上l.7)」
※バベルの塔の崩壊以前と以後の、物と言葉の関係(p.61上)
崩壊以前:物と言葉は不可分であり、ランガージュ言葉は物の確実なシーニュ記号であった
崩壊後:物と言葉の類似は失われ、人々は失われたこの相似を基底として話している
しかし
世界から切り離されているわけでもなく、真理が表明される空間として存在する
書かれたものの「絶対的特権」を生み出す(p.63下)
☆結果として、この時代の知は、語られたすべてのものを言語によって収録することと なる。そして、p.65の『蛇と龍のイストワール話』のような、観察されたものと人づてに伝え られたものが区別されていない「切れ目のない織物」のような知が生まれた。
◎四のまとめ
- 古典主義時代の知に固有だったのは、「見ることでも証明することでもなく、解釈す ること(p.66上l.2)」である。
- その解釈を可能にするのは、「解読するランガージュ言語の下に、ある原初の「テクスト」の至上権が存在しているからである(p.66下l.11)。」「人は世界と一体をなす一個の書かれたものを基底として語り、それについて際限もなく語りつづけ、次にはそのシーニュ記号のそれぞれが書かれたものとなって、さらにあらたなディスクール言説を招く~(p.66~67)」
- 注釈が言説となり、その言説のあらたな注釈が生まれ、その注釈が言説となる、「注 釈の無限の任務(p.67下l.5)」
<五.ランガージュ エートル言語の存在>
◎ストア学派以来(ルネッサンス時代)のシーニュ記号の体系:「三元的」=(納記・所記・外示)
→「複雑な仕組み(p.68上l.18)」をもつ「ランガージュ言語の層」
①単一で物質的な標識
②それを用いてなされる注釈
③「注釈が誰の目にも見える標識の下に隠されているその優越性を前提とするあのテクスト」(p.68上l.4)
☆シーニュ記号=シニフィエ記号であるところのもの
それに対して、
◎17世紀以降:「二元的」=(納記+所記・外示)
→「シーニュ記号がシニフィエ記号であるところのものといかにしてつながりうるか(p.68下l.7)」
が問題とされるようになった
言語は、古典主義の人々にとっての:特別な表象以上のものではなくなる近代人にとっての:シニフィカシオン意味作用
「言語と世界との深い相互関係はここに崩壊する(p.68下l.14)」
「書かれたものの優位は中断される(同l.15)」
「物と語は切り離される(同l.18)」・・・言説は、「語り」以上の何ものでもなくなる
文化の壮大な再編成(p.69上段始め)→古典主義時代はその初期段階
絶対的なパロール言葉が失われたため、すべてのランガージュ ディスクール言語は言説となった
※「文学」について
◎「文学」の特徴
- 近代初頭に成立
- ランガージュ言語の、生身のエートル存在を表現したもの
- 「文学」が自律性を保てるのは、「反=ディスクール言説」だからである
→そうあることで、言語の表象的機能(シニフィエ)=生のままのエートル存在を取り戻している
※「空虚かつ基本的な空間における往復活動」
- 19世紀以降、文学はふたたびランガージュ言語の生のままのエートル存在を明るみに出したが、ランガージュ言語はもはやルネッサンス期のようなあらわれ方はできない。
なぜなら、ランガージュ言語が生のままで存在する条件である「絶対的に最初のものであるあ の第一義的パロール言葉(p.70下)」(=「出発点」)が失われたからである。よって文学は「終わりもなく、約束されるものもないままに繁殖する(p.70下)」
~第三章へと続く~
最終更新:2006年11月11日 14:08